空はどんよりと曇っていたが、天気はなんとかもちそうだった。上原景は軽く足踏みをしながら、前の組のランナーが到着するのを待っていた。
彼は高校駅伝の最終ランナーで、ゴールまで距離にして5キロメートルだ。先ほど入った情報では、景のチームは3位を走っていた。トップとは時間差にして20秒ほど。その差なら、トップに追いつくことは不可能ではない。
やがて先頭ランナーが中継点に到着し、少しおいて次のランナーがつづいた。それから、景のチームのランナーが青息吐息で走ってきた。景がタスキを受け取ったとき、トップとは35秒遅れていた。
景は走り出した。気温は下がってきたが、彼にとって歓迎すべきコンディションだった。彼はスピードを冷静に計算しながら走りつづけた。
1キロを過ぎたころからじょじょにスピードを上げて、3キロで2位のランナーを一気に抜き去った。そして4キロで先頭のランナーに追いついた。そのとき景は、スピードの出しすぎで少しへばっていた。
彼はトップのランナーの後ろについて力を貯えた。そして残り500メートルになったとき、勝負に出た。気力をふりしぼってラストスパートした。胸が焼けるように痛み、頭がボーッとしてきた。彼はひたすらゴールで待つ母親を想った。母の明るい笑顔を思い浮かべると、体中にアドレナリンが駈け巡り、それまでの疲労が嘘のように消え去った。
競技場に入った景は、そのままトップでゴールを走り抜けた。
しかし、観客席に母の姿はなかった。膝に両手を当て、激しく息をつく景のもとに、陸上の担当部長がやってきた。勝ったのに顔が強張っている。ねぎらいの言葉もそこそこに、彼は言いづらそうに言った。
「上原、すぐ神戸に戻れ。きみのお母さんが交通事故で――」
景が病院に着いたとき、母の顔には白い布が被せられていた。
「景――遅かった――」
祖父の千尋が顔をくしゃくしゃにして、声を震わせた。
イギリス人の血が半分混じっている祖母は、比較的しっかりとしていた。彼女は目にハンカチを押し当てながら、景に言った。
「さあ、お母さんに、お別れを言いなさい」
景は、母の顔を見るのが恐かった。頭の片隅では、母が死んだという事実を、今もって信じたくなかった。病室内の無機質な光景と、病院特有の消毒液の匂い――景は白いシーツで覆われたベッドの膨らみを凝視して、しばらく立ち尽くしていた。それから、ようやくベッドに近づき、震える手でそっと白い布を取った。
母の顔は眠っているように穏やかだった。今朝、家を出るときに見た優しい顔そのままに――。彼は母の頬に唇をつけ、胸の上で組まれた冷たい手に自分の手を重ねた。
彼は母にささやきかけた。
「母さん、高校駅伝は優勝したよ。ぼくがトップでテープを切ったんだ。その姿をあれほど見たいと言ってたじゃないか。でも――」
そこで景はこらえきれずに、母の胸にしがみついて号泣した。
朝から雨が降っていた。涙も枯れ果てた景は、無表情に葬儀の進行を見守っていた。神父が最後のお祈りを捧げ、母の棺が焼却炉の中に入れられた。
そのとき、ひとりの中年紳士が堪えきれずに鳴咽しだした。その男は、ひたすら母の棺が消えた鉄の扉を見ている。景の祖父が慰めるように、その男の肩に手を置いた。
景は教会にいるときから、その男に気づいていた。景の見知らぬ顔だが、妙に気になる存在だった。中背やや小太りぎみの体を、仕立てのよい黒服で包み、いかにも裕福そうな顔立ちをしている。男は式の間中、ずっとすすり泣いていた。そして時折、涙で濡れた顔で景のほうを見ていた。
景は施設の出口へとつづく道を、祖母とふたりで歩いていた。彼らの前では、祖父が歩きながら、先ほどの男と何やら話をしていた。背の高い祖父の横では、男が小さく見えた。彼らのそぶりは、男がしきりに何かを訴え、それを祖父が首を振って否定しているようだった。
通りに出ると、男は立ち止まって、振り返った。彼はまっすぐ景の顔を見つめた。それから急にしおれたように肩を落とし、彼を待つ黒塗りの大型車のほうに歩き去った。
走り去る車の窓からこちらを見る男を顎で指して、景は祖父に尋ねた。
「おじいちゃん、あの人はだれなんだい?」
祖父はそれには答えず、黙って上着のポケットから白い封筒を取り出した。紙が変色していて、かなり古いもののようだ。
祖父はポツリと言った。
「きみのお母さんの遺書だよ」
家に戻ると、景は祖父に渡された母の遺書を読んだ。
『愛する景へ
あなたがこの手紙を読んでいるということは、もう私はこの世にいないのね。
何から話したらいいのかしら?とにかくまず、あなたに謝ります。あなたのお父さまが生きていることを、ずっと隠してきたことを。
いつ本当のことを話そうか、と悩みつづけてきました。正直言って、あなたに真実を話すのが恐かったの。
そう、
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