第二章 化かし合い

(1)

紳一は北田相談役と連れ立って、神戸の山の手にある通称、木原別邸にきていた。
北田は古くから木原家に出入りしていて、この別邸にはこれまで数え切れないほど足を運んでいた。
この年配者の実直な人柄は、風貌にも滲み出ていた。適度に日焼けしたやや面長の顔、上品な目鼻立ちと重厚な口元、さしずめ昔の戦国武将のような雰囲気がある。
木原別邸は、正式には『青雲荘』といい、木原家の先祖代々から受け継がれてきた屋敷だった。住吉川沿いにある5万坪ほどの広大な敷地で、六甲山麓の閑静な住宅地と酒蔵地帯の中間に位置する。
それを紳一の父親、木原繁が、個人所有することの不経済に気づき、持ち前の慣習にこだわらない合理的な発想で、会社所有に切り替えていた。青雲荘はいま、会社の資料館兼迎賓の場として使われている。
紳一は子供時代までここで育った。その当時は、広い敷地内を駆け回ることに夢中で、ここが公園くらいに思っていた。
今こうして改めて見ると、古き良き時代の阪神間モダニズム文化を、色濃く残しているのが分かる。
煉瓦造りの洋館の重厚な空間構成や、細部の精緻なデザインには、圧倒されるばかりだ。かつての厩舎はガレージに改造されていたが、それ以外は、ほぼ原形のまま、慎重に保存されている。
広大な庭は、門から玄関への広い石畳のアプローチと、噴水池のある屋外パーティー用の芝生の広場、そして雑木林で成り立っている。敷地の大半を占める雑木林は、楠や樫の成木が涼しげな影を落とし、その合間を煉瓦敷きの道が縫うように続いている。林の中を歩いていても、鬱蒼とした暗さはなく、陽光が木々の隙間から適度に射して、全体に明るい感じがした。

「ぼんは、このお屋敷がなつかしいでしょう。お小さい頃は元気なお子さまでしたから、おひとりで林の中を駆け回られて、よく迷子になられていました」
紳一と北田は連れ立って、庭園を散策していた。ふたりきりになると、会社関係より家柄が優先して、北田はどうしても、木原家に仕える言葉遣いになってしまう。
紳一がそれを注意した。
「その、ぼんと呼ぶのはやめてほしいですね。木原紳一という、名前があるんです。それに年下の私に敬語を使うのはおかしい」
北田は面食らった表情をした。彼は紳一にならって、上着を車の中に置いていた。白の長袖カッターシャツと濃紺のネクタイに淡いグレーのチョッキを着て、同色のグレーのズボン姿は、会社にいるときの威厳が消え去って、かえって気さくな感じがした。
老人のとまどいを救うように、紳一は言った。
「しかし、ぼくの親父がやったことは正解ですね。こんな広大な敷地を、ひとつの家族が独占するなんて罪悪に近い。もっとも、特定の法人がさほど有効利用しないで所有しているのも、社会的には罪悪でしょうね」
それを聞いて、北田がおやっという顔つきで紳一を見た。
「まるで、ぼんは――」そこで言い直して「紳一さんは、社会主義者のようなことを言いまんね――」
あとは語尾を濁した。紳一と呼ぶのが言いにくそうだった。長年、公私にわたって木原家に仕えてきた彼にとって、若いとはいえ、木原家直系の人間に、普通に話しかけるのは心苦しいのだろう。
「ぼくはそんな偽善家じゃない。もちろんぼくだって、自由社会のなかで競い合うのは好きです。ただ、あまり有効に活用されていないものを見ると、性格的にむずむずしてくるんです」
「でも、すべてが目一杯活用されていなくても、いい点もありますよ。たとえば、それが他の人から見て、余裕であったり、あるいは信用を得ることになったり――」
(──このじいさん、けっこう食い下がって来るじゃないか)
そう思いつつ、紳一は皮肉を言った。「それで、今うちの会社は、余裕があるんですか?」
会社の業績が悪化していることを突かれて、年配者の顔が赤くなった。紳一はこのへんで老人をいじめるのを切り上げて、庭の散策をつづけるように促した。

北田の話題は、仕事のことを避けて、神戸やこの屋敷の由来に終始した。紳一は、前を歩く老人の後ろに付いて行きながら、適当に相槌をうっていた。
北田は、彼の年代にしては大柄な体格をしていた。その姿は、筋肉が落ちて脂肪がつき、力強さに欠けてはいたが、若い頃にスポーツで鍛えた肉体の名残が随所に見受けられる。
前を歩く老人の、芯のある弾力を感じさせる尻を見て、紳一はふと、この老人の性生活を想像した。70歳を過ぎているが、今もって現役なのだろうか?
「どうかしましたか?」
背後からの反応がなくなったので、北田が振り向いた。
紳一は我に返って言った。
「いや、なんでもありません。とても素晴らしい眺めだったので」
それを聞いて、北田は嬉しそうに温顔をほころばせた。

紳一が木原酒造に入って、1年あまりが経過した。
その頃にはどこから洩れたのか、彼が木原酒造の
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