老画家の想い(3)

 画家の仕事ぶり

「おい。何を膨(ふく)れている。わしだって仕事をしないと飲みにもいけいからな。儂を疑うのなら、一度わしの家を見にこい。よく見て分かったら、俺の弟子にしてやる。(笑)」

親爺からしばらく連絡がこなくなることがある。最初は変だと気をもんだが、
まもなく理由が分かり、すべて納得した。特に、親爺の家計のやりくりは思っ
ていた以上に大変だった。だから、近所の田舎の爺さまや、婆さまたちの肖像
画を、アルバイト代わりに引き受けていたのだ。それも、まとめて、5枚、10
枚とこなしていた。まもなく70歳に手が届くというのに、うちの親爺は、あ
る意味で精力絶倫だった。

正式の美術学校の卒業生だから、デッサンはお手のものだ。芯の柔らかな鉛筆
で、薄めに輪郭を書く。その上に、コンテ、あるいは石墨で濃淡を付けてい
く。モデルは要らない人だが、手札程度の写真を持ってこさせる。もちろん肖
像画は写真のような細密描写が基本になる。でも、ここが大事なポイントだ
が、本人が気に入るような仕上がりをめざすことだ。実物を正確に写せばいい
というものではない。

たとえば、出っ歯な女性から注文が来たとする。画家は鼻の下の歯の根っこの
出っ張りを少し引っ込めて、形の良い口元に仕上げて見せる。こうあってほし
いという本人の願望を、元の形を損なわない程度に修正して描く。それが次の
注文に繋がることを、うちの親爺はよく分かっていた。

田舎の親族間のつながりは、とても強い。本家の仏間に、夫婦の肖像画が飾ってあれば、分家の夫婦も欲しくなるのは理の当然という訳だ。 

「あの先生は腕がいい。金目当てではねえな。」
 
一たび誰かが口にすれば、評判はあっという間に広がり、ひとりでに注文が集
まってくるのだ。

親父は仕事を始めれば、電話には出ない。飲まず食わずで、1週間でも、2週間
でも肖像画に取り組む。だから連絡がつかなくなるのだ。気を許して家に泊め
てもらえるようになって、親爺のやっていることが次第にわかってきた。

集中力を無くせば、描けるものも描けなくなる。だから、空気のように気を消
してそばに控える内弟子の仕事のやり方を覚えた。必要最小限の食事、例えば
おにぎりやサンドイッチを、それとなく置いておく。気の散るようなことは一
切しないほうがいい。もちろん仕事中は、挨拶はしなくていい。当然、音は立
てない。お茶も水も、ペットボトルで済ます。疲れれば、ごろりとソファーの
上に横になる。風邪でもひかれては困るから、分からないように毛布をかけ
る。目が覚めれば、何か水分をとり、すぐに筆を執る。

簡単に言えば、そのサイクルが何日も繰り返される。手のかからない人だか
ら、暇を見つけて、出かけていって決まったことを片付けて、家に戻る。簡単
な食事と飲み物のストックを切らさなければいいのだ。だがまあ、よくもこの
年で、あんなにも仕事をやり遂げるものだと感心した。

だから、金のない親父が、俺の着物をそろえるために、どんなに辛い思いで部
屋にこもって仕事をしていたか。それがはっきり分かった。ありがたい。苦労
させて申し訳なかったという気持ちがひとりでに湧いてきた。もちろん親爺には、そんなことはおくびにも出さない。

仕事が終わると、現金収入がある。疲れているのだが、晴れ晴れとした顔で親爺がいう。

「おい、今日は上手いものでも食いに行こう。」

寿司や、うなぎ、天ぷら、そしてビフテキが大好物だった。風呂に入って元気になれば、後はいわずと知れたスゴイ夜になる。「この人が好きだ。死んでもいい。」本当にそう思ったとき、何もかも捨てて飛び込むぞという気持ちになった。心も身体もすべてのガードを取り払って、素っ裸でこの人にぶつかって行こうと決めたのだ。これが「男が男に惚れる」とことだと識ったのだ。


 だまし討ち

「浴衣を脱いで、そう。背筋を伸ばして。肩の力を抜く。」

親爺は銀塩カメラを構える。オリンパスの一眼レフだ。午後の日も陰り、沖か
ら吹きつける風が波にぶつかるように白く砕ける。ここは北茨城の五浦(いつ
ら)海岸。沖と岸の間に帽子のような岩が立ち、その後ろは陰になっている。
その海岸にふんどし一つでモデルが立つ。白い肌に六尺がきりりと結ばれてい
る。もちろんモデルは私だ。ふんどしを締めこんだのは、いわずと知れたカメ
ラを構えるうちの親爺だ。

北茨城には、岡倉天心が立てた、旧美術院の大きな木造の建物がある。今はもうその建物自体はない。だが当時の木造建築の面影を残した六角堂が岬の突端の急な崖の上に立っている。それが記念館の建物で、全面ガラス張り。遠く太平洋が見渡せる絶好のスポットだ。岩に砕ける波の音が、繰り返し聞こえてくる。なんだか、昔の美術院の時代に引き戻されそうな
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