老画家の想い(2)

親父の教え

「着物を着て町を歩くのはやめろ。芸人ではないのだから。お前、商売人と間違えられたらどうする。着物を着たければ60歳を過ぎてからにしろ。」

あまり評判の良くない飲み屋のおやじの影響で、面白半分に和服姿で飲み歩いていました。そんな悪い噂が、親父の耳に入ったのでしょう。ちょっと厳しい目で諭すように注意しました。だが、そんなきつい言葉とは裏腹(うらはら)に、次の日には、「着物を着るのが悪いのではないのだよ」といいながら、自分の着物を一つ持ってきてくれました。安物のウールではなく、濃紺に細かい亀甲模様が織り込まれた大島紬(つむぎ)でした。それ以来、着物を着て飲み歩くことは、一切やめにしました。

だが、懇意にしている飲み屋の親父が、人を集めて忘年会を開く段になると、一緒に参加しようと、会費を二人分、払いこみました。そして、新しい着物を一そろい誂(あつら)えてくれました。下着のふんどしから、草履、足袋、肌襦袢、襦袢(じゅばん)、袷(あわせ)、羽織、袴(はかま)、そして博多帯まで一揃いです。この時、着物をワンセット買い揃えるののは、相当の出費になることを、はじめて知ったのです。

着付けは親父自身がやり、足の先から頭のてっぺんまで、何度も寸法を見ては、合わせました。袴の紐を最後に結んで、「よし」と背中をぽんとたたきます。そして忘年会の始まる前に、親父の希望で、一緒に写真を撮ったのです。

親父の教育は、粘り強くて、行き届いています。そして、何より現場主義でした。失敗しても決して責めることはありません。人の性格を注意深く観察して、何度も分かるまで教え込む。そんな方式でした。自分の事は、なにもかも放り出して、面倒を見てくれた3年間を振り返って、確かにそうだったと思います。特に、家族のありがたさを教えてくれたのは、親父(おやじ)でした。自分の父親、母親がしてくれたように、面倒を見る。それが基本でした。

親父の希望で、40歳過ぎに家庭を持ってみて、どれほど大変かが分かるようになりました。男は家庭を持って初めて男になるのだ。遊びはまったく別のことさ。それが親父の口癖で、持論でした。自分は「やもめ暮らし」のくせに、さびしいと口に出したことは、一度もなかった。

初めて会ってから三年間で、下着から、靴下、ワイシャツ、背広、コート類まで、身の回りのものは、知らぬ間に整えられ、統一感のある「親父好み」に代わっていきました。

よく聞かされて、耳にタコができたのは。次のような短い言葉でした。

「必要以外のことは口にするな。」

「十分に考えずにものは言わない方がいい。」

「人の悪口は言うな。」

「噂話はまともに聞くな。」

こまごまとした教訓が、なんども聞くうちに自分のものになっていきました。社会を一人で生きていく上で必要な知恵でした。幼いころ父親に死別し、家族のぬくもりに触れることがほとんどなかった青年にとっては、得がたい教訓で、これが家族に蓄積された生きる知恵だと、後になってよく分かりました。

明らかに、本当の倅になったのだと思いました。一時的な遊びの相手などでは
ない。息子が増えたというのが親爺の気持ちでした。痛いほど分かったので
す。経済的には、決して豊かではない貧乏絵描き。でも犠牲を払うのは、いつ
も親父の方でした。そんな画家の家計の厳しさは、迂闊(うかつ)にも、後に
なって、ようやく気づくことになります。

うまくやっている画家は、マスコミにもよく取り上げられ、羽振りもいい。芸術至上主義は、その対極にある考え方です。親爺は、もともと商売には関心がない人で、簡単に言ってしまえば、売るための絵は、描かない人でした。だから、家計はいつも火の車です。展覧会で金賞を獲得しても、公民館や学校、福祉施設などが望めば、ただで寄贈してしまうのです。それでは、暮らしが成り立たない。分かり切ったこですと。周りはいつもハラハラしていました。でも生まれつきの性分です。だから、誰にもどうすることもできないのです。

もともと九州の博多出身の博多っ子です。子供のころは経済的に恵まれていま
した。苦労せずに育ったからだと思います。七人兄弟の末っ子で、父親が50歳
近くになって授かった子供だから、憎かろう筈(はず)がありません。小学校
を卒業するまで、父親の布団で一緒に寝ていました。父親は小太りで、越中ふ
んどし一つで休む習慣です。ちびで、やせで、病気がちの子供だったおやじ
は、母の作った浴衣を寝巻き代わりに、同じ布団で一緒に休む。酔っ払った父
親のちんぽをいじったこともありました。でも親爺の父親は、一切、知らん振
りで、されるままにしていたと言います。

九州はもともと、男尊女卑の強い地域です。旧家の当主は、女子供とは別の寝
所で休む普通です。お膳も別に
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