年の離れた子供の教育は骨が折れる。自分の後継者にと考える向原は、誠司こそ自分の跡継ぎだと考えて、教育に全力を注ぐ。
社会による教育目標の違い
アメリカの高校生の生活に慣れるのは大変なことです。教育とは、社会に適応する人間を作りあげる仕事といってもいいでしょう。日本とアメリカでは大きな違いがあります。個性重視のアメリカと、社会重視の日本との違いです。物事を他人が分かるようにはっきりと話す。その前提となるのは、はっきりとした考え方です。個性を重視するアメリカと、人との協調を重視する日本社会との違いは、シンプルに物事を考えるか否かにあると、思います。
米国に来た当初、誠司には戸惑いがありました。日本で生まれ、日本社会で教育された誠司です。でも連れていかれたに西海岸では、言葉の壁があります。まず言葉になれ、現地の若者の文化に慣れねばと考えました。異文化適応、これは難しい課題です。でも誠司は何とか途を探さねばなりません。ここで生きていくためには、越えねばならない壁なのです。でも、もともと頭のいい彼のことです、機転の効く誠司です。
もともと厳しい環境で生き抜く力を持つ子供でしたた。働き始めたのは、わずか五年生のときです。大人がまだ寝ている時間に起き出して、新聞専売所に、深夜3時までに出かけます。夜の明かりが燈っている下町です。店のあるじは、奄美大島出身の初老のおじさん。いい人でした。子供が大人に交じって新聞を配る仕事は大変ですが、それをよく理解していましたした。だから最初の二週間、一緒に回ってくれました。
もちろん、おじさんにも事情は分かっていた筈です。まだ幼い少年が働きたいと言ってきた。何か問題があるに違いない。隣町の町内会ですから、直ぐに分かります。父親が死んで、収入の道を失った貧しい家庭。自分も島から出てきて、散々苦労した人間です。おじさんは、身体の小さい子供には、早朝はちょっとキツイかなと思いました。でも、家族が食べていくには、子供でも働くしかない。金がなければ、みな飢えて死ぬ。貧困の突きつける過酷さです。
二週間ほど配らせてみました。結果はやはりダメでした。尻ぬぐいは大変です。雇うのがどうしても難しいと分かったとき、おじさんは少額の金と子供用の辞書を子供に与えて、いいました。「もう少し大きくなったら、またおいで。そのときには配ってもらおう。それから4、5年経ちました。もういい頃だと考えました。そのとき、誠司は上原に出会ったのです。
向原は、腕一本で生きてきた男です。そんな男に出会ったのは、天の配材でした。もちろん後からそう思ったのです。人に頼らず出来ることは自分でやる。子供なりに考えて工夫もする。誰もほめてくれなくても、それがいいと思えば、そうするのです。それが誠司が身に付けたやり方でした。もちろん、学校で習ったものではない。貧しい境遇で、自然に学んだことです。
25歳も年の離れた上司は、少年には、まるで父親のような感じでした。でも、そんなことは気にならない。切羽詰まった状況でした。誰も助けてはくれない。辛いけど、言葉で口に出すこともできない。世間的な常識のない母親と祖母との悲しい生活です。それ以来、ずっと二人とも嫌いでした。一種のトラウマです。中学生まではよかったのですが、高校になると、もう何が何でも働かねばなりません。日本は、まだ貧しい段階でした。
向原は面倒見のいい上司でした。後進の育成は、誠司が初めでした。まもなく40というのに、伸之助には家族がいませんでした。彼が仕えたのは、会社の元社長一人でした。20歳年上の社長は、その時すでに60歳でした。彼の下(もと)で仕事を覚え、一人前に育ちました。還暦まじかの経営者は、不憫に思ったのでしょう。年の離れた部下の面倒を見るように仕向けました。苦労して人を育ててみよ。そうすれば、人間的に成長できるかも知れない。それが向原に対する年老いた元社長の、愛情の発露でした。
年の離れた子供の教育
人の面倒を見るのは、当然です。年の離れた子供の面倒は大変です。いろいろ事情が重なって、家族に恵まれなかった向原です。まず考えたのは、初心に戻ることでした。子供の気持になって見よ。教育は失敗の連続です。試行錯誤がなければ、教育ではない。苦労人の向原には分かりました。部下の育成経験が、なかった訳ではない。でも本気で取り組んだことなかったです。
カンの鋭い子供は、人の気持ちにも敏感に反応します。全部言わなくても、分かってしまうところがある。頭のいい子供だなと向原は思いました。大学で教職過程を取ったわけではありません。働きながら大学に通い、仕事の知識は、少しずつ身に付けました。学生運動が盛んな時代でした。休講も多かった時代です。夜学の仲間には、公務員もいました。クリスチャンだった
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[*]
感想