老画家の想い(1)

「愛欲の海に落ち込み、もがく人間のせつなさ、はかなさは絵になる。」

20歳以上も年長の老画家がいいました。今から20年以上も前のことです。
白いからだが上になり、下になり、脳天を突き抜けるような快楽の波が頂点に
達するとき、のけぞり、切ない思いが、まなざしや、しなる身体に横溢(おう
いつ)します。そのときの一瞬を画家の目が捉え、脳裏に焼きつけるのです。

「作品とは、そうして醸成(じょうせい)するのさ。焼き付けた姿を何度も、
なんども反芻しては、理想の姿に昇華する。それが職人の技というものだ。」

 親父の初恋

「目を瞑っていても、お前の姿は目に浮かぶ。それが絵描きというものだ。お
前の顔も、手も、足も、腹も、どこでも鮮明にまぶたに映し出せる。お前には
分からないだろうがな。どこをさすれば、お前がどんな風に身をよじるか。わ
しには見なくてもよく分かる。嘘をつくときのお前の癖、しぐさ、まぶたの微
妙な動きもわかるというものだ。」

親父(おやじ)に会ったのは、今からもう20年も前のことです。私が40歳で、
画家が60歳のときでした。浅草か、上野の飲み屋だったと思います。小柄で
静かな感じの人だから、最初は気にも留めなかった。いつもニコニコしてい
て、たまに会うと、ビールを注いでくれました。懇意にしていた飲み屋のマス
ターが、あるとき、Hさんが一緒に飲みたがっている、どうだ、もう一軒付き
合ってみないか、と耳打ちしました。それが交際の始まりでした。

しばらくは飲み友達でした。三ヶ月たったある日、今度、関西方面に出かける
が、お前もついてこないか、と誘われました。プロの絵描きだというのは、う
すうす分かっていましたが、あまり深く考えずに決めました。京都、大阪あた
りを回ることになると考えていたのですだが、切符の手配は親父が自らやり、
着替えだけをバッグにつめて、東京駅に向かいました。

だが、目的地は大阪ではなかった。名古屋で宿を取り、翌日、伊勢神宮に詣で
ました。それから志摩に行くといい出したのには、ちょっとびっくりしまし
た。旅のくだりはここでは省きますが、旅から戻ると、親父は急にまじめな顔
で宣言したのです。

「わしは、しばらくお前のことを第一に考えて行動する。」

私の目を見て、小柄な親父がはっきりといいました。それからというもの、飲
みに行くにも、買い物にも、必ずそばに小柄な親父の姿がありました。でも良
く分からないこともありました。本当は年寄りが好きなはずなのに、なぜ私な
のか。どうして20歳も年の離れた、親子みたいな私と付き合うのか。大(た
い)したイケメンでもない私に、親爺はなぜ近づいたのか。理由は分かりませ
んでした。

セピア色のかなり大きなパネルに、若いころの親父と感じのいい年寄りの姿が
映っています。その人物は洒落た着物姿です。パネルは寝室のベットの脇に立
てかけてあります。大きなダブルベットのそばです。もちろん、遅くなれば親
父の家に、しばしば泊めてもらうことになりました。親父は、そのころ一人暮
らしだったから、誰に遠慮することもいらなかったのです。私は昔から素裸
(すっぱだか)で寝る習慣ですが、親父は薄い下着を付けて寝ます。あるとき
寝室の写真について、直接、本人に質(たず)ねてみました。

「ああ、あれは最初の憧れの人。九州の博多で会社を経営して、道楽で謡曲を
やっていた人だよ。わしはそのお弟子の一人。ほら、お前にあげた袴、あれ
は、わしの師匠の形見だよ。」

老画家は、懐かしむように、並んで写っている年寄りの顔を見る。そして呟く
ように言いました。

「そうだ儂(わし)が30歳のとき。お前は今、40歳だから、それより10歳
も若いころの写真だ。その頃、わしは博多で役所に勤めていた。仕事になれる
とすぐ、仕舞(しまい)を習うことにした。その師匠は、なくなったわしの親
父の知り合いの一人だよ。親父は戦前、台湾で鉄道の総括助役のようなことを
やり、人脈も広かったから、その関係だったと思う。」

「そうだ。わしは、その師匠にかわいがられて、内弟子のような仕事までさせ
てもらった。奥さんもいい人で、わしはすぐに気に入られた。面倒見のいい人
でな。舞台の前、そして終わった時の着替えも、自然にわしの仕事になった。

 師匠は、舞台衣装に着替えるときは、素っ裸の越中一つになる。男でも魅
(み)せられるようなきれいな身体。白くて、ふくよかで、襦袢をつけて、裃
(かみしも)をつけて、袴をつける。小柄なわしが、一つ一つ着せていく。
 それが済むと舞台の袖で師匠の仕舞を注意深く見る。

舞台が引けたあと、師匠は衣装を脱ぐ。玉のような汗だ。素っ裸にして、背中
を手ぬぐいで拭く。それから奥さんの用意した、白い越中を後ろか
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