愛欲の海(11)

画家の爺様との愛の話

おちょぼぐちの妙

画家の爺さまのセックスは、何といっても「おちょぼ口」です。皆さんも何のことか分かりませんね。形のいい小さなおちょこ(猪口)のような口が、おちょぼ口です。分かっている人には当たり前の話ですが、キスをしてみなければ分からないよさなのです。

おちょぼ口の裏側には、ビロードのような、ぬめぬめした幕がついています。それにぬるっと当たると、脳に激震が走ります。キスの良さは、そのぬめぬめ次第なのです。ざらっとしていたら、快感にはなりません。相手もぬめぬめの唇なら、もう最高なのです。

このサイトを始めた安寿さん(このサイトの初代マスター)から聞いた話です。付き合ったお父さんは、キスが抜群の人でした。とろけるようキスは、死んでも忘れない味だったそうです。そのお父さんがどれだけ上手だったか、私には分かりません。でも、もちろん、おちょぼ口です。

忘れられないキス、相手の唇に触れた瞬間は、誰も忘れられないのです。もちろん、触れるだけの簡単なキス。ディープではありません。相手の様子を見ながら、眼を見て交わす、軽いキスです。気持ちを確かめながらチュッと触れるだけのキス。でも最高の味なのです。

フケがずっと好きだった私。最初のキスは、画家の爺さんとのキスでした。絵を教えてくれる爺さんです。初恋につながるキスの話です。絵を描くのなら、まずデッサン。石膏の像を引っ張り出しました。キャンバスに、早速、描いて見せる。実物教訓ー実際に目の前でやって見せて、手を取って教える教育です。

ダビデ像を何度も見て、石墨(すみ)でスケッチを始める。お手本を何度も何度も見る。その手際が段々分かるようになります。最後には人間の身体を描く段階です。画学生なら若い女のヌード。爺さんの場合には、爺さんと同年代の、60代の男の身体です。

アトリエには、昔の武士の裸の写真が飾ってあります。画学生のために、恥を忍んで、裸体を曝している画像です。多分、経済が逼迫して、家族のために、モデルを引き受けたのだと思います。明治の初めの頃の、東京芸大、西洋画教室の話だったと思います。

大変な混乱期でした。生活のすべを持たない下級武士が、生活の資を稼ぐことは容易ではなかった時代です。画家の爺さんのアトリエになぜその写真があるのか。絵描きの爺さんの絵のモデルが、どこかで手に入れて、たまたま持って来たものなのでしょう。

画家崩れの男が、夜店あたりで手に入れた写真なのでしょう。画家の爺さんが、それを見て、わずかな代金で引き取った筈のものです。今、そのモデルは、爺さんのアトリエで、私の絵の対象になっています。引き締まった裸体をスケッチするのは、間違いなく私です。

 老化(フケ)の裸体

もちろん照明がある訳ではない。普通の日光が裸体全体に当たって、光と影を作っています。それを石墨でキャンバスに写し取るのです。なかなかうまくいきません。初心者の悲しさですね。画家の爺さんが、じれったそうに、それを見ています。でも手は出せない。

大事なのは、光と影のコントラスト。それがあれば、立体感が鮮明になります。顔の造作も、肩の曲線も、胸の肉の付き具合も、腹筋の様子も、すべて影の付け方次第です。光と影をかき分けることがポイントなのです。悲しいかな勘所(かんどころ)が分からねば、前には進めません。

爺さんはモデルの肩を軽く押して、向きを変えます。斜めになった裸体の尻から腹の線が、くっきりと、目に入ります。早く写し取らねばと焦りますがうまくいかない。真正面に見えるのは男の身体。陽物は下を向き、その上に短い一文字の恥毛がくっきりと見えます。

60代の男性です。白い恥毛が混じるのは当然の事です。綺麗に刈り込んでありますが、男の腰部には、白い皮膚と恥毛が作る微妙なバランスがあります。不思議な存在感です。画家の爺さんは、いとも簡単に、それを写していく。シンプルだが、大した表現力なのです。

30分で休憩です。洗いざらしの浴衣を纏って、モデルの爺さんは休憩をとります。お茶を飲んで、たばこを一本吸う。それからまた裸に戻ります。ふと煙草を持つモデルの指先が、動く不思議を、目にしました。物の形は動くもの。それを捉えるのは更なる困難です。

そうだ。色と形を正確に見て、さらに動く形まで模写せねば、絵画にはならない。私は、到底、画家には到底なれないと気づいた瞬間でした。画家の爺さんの複雑なすごさを、垣間見て、爺さんにリスペクトが生じた瞬間でもありました。思わずため息が漏れました。

ものを見る目。それをキャンバスに写していく手。描かれたデッサンと実際の物とを比較して、修正する脳。目と手と脳。三つの物が複雑に絡んで働く不思議。それが画家という存在の妙だと知りました。厄介な存在との出会いです
[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b