戻る / 目次 / 次へ

(1)裏通りの店

浦和駅から埼玉県庁にいたる、いわゆる県庁通りに面して文化会館がある。大小のホールや展示室、会議室を備え、例年数多くの文化的行事が催されている。特にホールの音響の良さは定評があり、オーケストラやコンサート、落語寄席など年間スケジュールはぎっしりと埋まっている。大小二つのホールに挟まれたL字型の庭園は、設計コンセプトの「憩いの場」「散策の場」にあるとおり、人の流れをゆったりと包み込むように造られている。

さてお話のメイン舞台はこの文化会館ではなく、裏通りの小さな居酒屋である。蔦の絡まる古風な3階建てビルの1階にあり、店の名前を陶仙房という。
店はそこそこ繁盛していた。文化会館のすぐ裏という場所柄、客層も一定している。11時から14時までのランチタイムは、地元企業の従業員や文化会館を訪れる馴染み客が多く、16時から21時までの居酒屋タイムは、県庁職員や外郭団体の職員が仕事帰りにちょいと立ち寄る。
人気の料理は、40代後半の料理人、植木悠平の作る釜めしだった。一人用の小さな釜で米と具材を一緒に炊き上げ、釜のまま供する炊き込みご飯だ。この店の特徴は、鉄釜ではなく土鍋を使っていることである。
シイタケ、魚介、鶏肉、野菜など、具材は季節に応じて工夫を凝らし、醤油、ミリン、特製出汁などの味付けがまた、絶妙の味を引き出している。
旨みとこくの柔らか角煮どんぶり、春キャベツの豚バラ炊き、鶏と筍の炊き込みご飯、深川めし風あさりご飯、雑煮風鍋焼きうどん――。その日仕入れた、旬の食材に合わせて、即席で料理するお任せメニューである。
店の内外装は民芸調で、使っている食器類も古風な味わいがある。これも陶芸をやっていた料理人の趣味である。それは陶仙房という店の名前にも窺える。

これだけ見ると、この店は料理人ひとりで持っているように思えるが、店主もまた客から絶大な人気がある。
愛川孝志は50代後半、男っぷりの良い顔と立派な体格をしている。皆にはマスターと呼ばれているが、親しい人間はアイちゃんと呼んでいる。脱サラ組で、ある大手企業の部長だったが、女房と離婚したのち転職した。長年住み慣れた女房の実家を出て、今の店の3階に借家住まいしている。普段はもっぱら電話当番とレジ、それに出前持ちをやっている。
ほかにトシと呼ばれる従業員がいる。40代半ばだが、顔も体つきも可愛らしい風貌の男だ。トシは料理の手伝いをしたり、来客の応対をしたり、レジの当番をしたり――いろんなことを器用にこなしている。少し変わり者で、初心っぽい見た目に反して、辛辣な事でも平気で言って相手をからかう。といっても、これまでの経験から学んだのか、弄る相手は選んでいるようだ。

居酒屋陶仙房は、この三人三様の男たちによって営業されているが、あまりガツガツした商売っ気もなく、むしろ客との交流を楽しんでいるように見える。その雰囲気が反映されてか、ここに来る客も常連客が多く、彼らは陶仙房を憩いの場としているようだ。

さてここでちょっと寄り道して、三人の過去を振り返って見よう。

戻る / 目次 / 次へ

26/09/07 16:18 神亀

top / 感想

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b