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(3)町の人々

翌朝、目覚めたときは、すっきりしない気分だった。どうやら昨晩、工場長につき合って飲み過ぎたようだ。
朝食を食べたあと、江上菊五郎とばったり出会った。そしていきなり訊かれた。「どや、分かったか」
「は?」
「は?やあれへん。昨日わしが出した脳トレや」
「ああ、あれ。調べてみたんですが、分かりませんでした。降参です。答えは何ですか」
例によって焦らされた。「どうしょうかなあ」なんて言いながら、なかなか答えを言わない。
業を煮やして良平が立ち去りかけると、あわてて江上が引き留めた。
「待ちいな。気になって仕事が手に付かんやろうが。仕方ないなあ。良ちゃんのために答えを教えてやるわ」
そこでもったいぶって「いいか、よく聞け。アンデス山脈にあるトンネルがどこからどこまで通じているか。答えは――入口から出口までや」
「――!」
「ついでに教えると、アンデス山脈に世界一長いトンネルなんてあらへんわ」

良平の手が無意識に伸びて、江上の頬っぺたを張った。
江上は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた表情でこちらを見ている。
「あっ、ごめんなさい!思わず手が出ちゃって――」
良平は謝りながらも、右手を振り上げ、二発目の用意があることを示した。
あわてて後ずさる江上を見て、満足した良平は立ち去った。

「昨日はありがとうございました」
出社すると、一番に工場長のところに行って礼を言った。
それから総務課に行き、自分にあてがわれたデスクについた。いよいよ本格的な仕事開始だ。
経理資料に目を通していくにつれ、昨日工場長から聞いた高木取締役の言葉が思い出された。(――会計処理がすこし杜撰なようだ)
少しどころじゃなく、大いに杜撰だった。そもそも帳票類の抜けが多い。これでよく会計監査が通ったなと思った。
これは相当の覚悟で改善していかなければならない。改善には強い抵抗も伴うだろう。それを押し切ってやっていく――果たして自分に、そんな強い態度が取れるのか?若干心配になってきた。

日曜日は工場が休日である。この休みを利用して、良平はあけぼの町の周辺を歩いて見ることにした。
まず町の大通りを神社とは反対側の、海に向かって歩いた。途中で線路に突き当り、左折して並行した道をしばらく歩くと、右手に遮断機のある踏切が見えてきた。その踏切を越えた先が波止場になっている。
漁は休みなのか、たくさんの漁船が停泊していた。海の先には2本の堤防が、左右から伸びていた。堤防には何人かの釣り人の姿が見受けられる。平日はこの堤防をすり抜けて漁船が海に出て行くのだろう。

波止場をぶらついたあと、町のほうに戻った。この前、クラシックの演奏を聞いた小広場にさしかかったところで、本屋に入った。
店内は薄暗く、気温の高い外気に対して、ひんやりと感じられた。比較的明るい店頭には、週刊誌や月刊誌などが並べられている。
奥のほうは、高い棚に古本がぎっしりと詰まっている。田舎町にしては、豊富なジャンルの古書である。ざっと見ていると、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見つけた。全8巻揃っている。テレビドラマ化されたのを見て、物語の概略は知っているが、一度じっくりと原作を読んでみたいと思っていた。
「なにかお探しですか」
穏やかな声が聞こえた。古い机の向こうに、コントラバスを弾いていた老人がいた。年の頃、70前後くらいだろう、コントラバスは腹に響く低音だったが老人の声はゆったりとして、聞いていて安らぎを覚える。それに古書に埋もれた姿は、店の雰囲気によくマッチしている。
「この『坂の上の雲』は、第1巻だけでも買えるのですか?」
良平の問いに、老人は微笑んだ。
「もちろんです。この時代の話が好きですか?それとも司馬遼太郎の作品が」
「あ、両方とも好きです」
良平は言って第1巻を購入することにした。ついでに少し話をして、父の情報を探ろうと思った。



老人の名前は堂元久徳、68歳。皆からはキュウちゃんと呼ばれている。
良平が、以前聞いた会社ОBの話をして、父の情報を探していると言うと「私と同年配くらいですか。あなたの風貌に似て、学識のある人ねえ――」
キュウちゃんはしばらく考えていて、口を開いた。「そういえば、キーさんと呼ばれていた人が、あんたに似ている雰囲気があったな」
良平は意気込んで訊いた。
「その方はどこに住んでいるのですか?」
「それが――」老人は眉を曇らせた。「2年前に亡くなりました」
望みが絶たれた思いだった。良平は、言葉少なに別れを告げて、店を出た。

外に出ると喫茶店の前で、ヴァイオリンを弾いていた白髪の老人と板前のゲンさんが、立ち話をしていた。店の前に自立看板があり、アルプスの山のロゴマークと喫茶アルプスの名前が表示されている。
「おや、あなたはこの前、演奏を聴いてくれた方ですね」
白髪の老人が、良平を覚えていて、声をかけた。
「すばらしい演奏でした。でも静かに聴いていたかったのですが、邪魔が入って――騒がしくて失礼しました」
良平が返事をすると、老人はやさしく微笑んだ。
「スナック万玉のマスターですね。あれは空気の読めない人ですから」
「菊の奴か」
黙って聞いていたゲンさんが、横から口を挟んだ。「あいつが困るようなことをやったら、わしに言ってくれ。お灸をすえてやる」
思わぬゲンさんの言葉に、良平は驚いた。白髪の老人が、まあまあと言うように話題を変えた。
「ところで、あなたは町の人ではないようですが、旅行で来られたのですか」
良平は、転勤でCOSMOの工場へ来たこと、あけぼの荘に宿泊していること、などを話した。
白髪の老人は聞き上手で、良平はいつになく能弁になっていた。
「それから宿の食堂で、ゲンさんの料理をいただいて幸せです。東京で料理教室をやっている母の影響で、私はグルメであることを自負していますが、ゲンさんの料理は、東京の超高級店に引けを取らない味だと思っています」
白髪の老人はいたずらっぽく目を輝かせた。
「本人の前でそんなことを言っちゃあ駄目ですよ。ゲンさんは頑固で武骨そうに見えますが、内心はデリケートなんですから。面と向かって褒められると、身の置き場に困ってしまいます」
たしかにゲンさんはそっぽを向いて、むず痒そうな表情をしている。
その白髪の老人は遠山清一郎、皆からはセイちゃんと呼ばれている。70歳で、ちょうどゲンさんより10歳若い。喫茶アルプスのオーナー兼ひとりきりの従業員だという。
「ここは豊山豊水――山の幸と海の幸に恵まれたところです。それをゲンさんが経験豊富な腕を振るって料理を作る。あなたはゲンさんの、どんな料理が食べたいですか?」
「まだこちらに来て日も浅いですから――」
良平は考えながら言った。「そうですね、やはりこちらの海で獲れた、新鮮な旬の魚がいいと思います。酢メシによく馴染みそうです」
話が弾んだところで良平は、本屋で訊いたように、彼らに父の情報を訊いてみることにした。
「小宮という姓は知りませんが、あなたの顔を拝見してると、記憶の底になにか引っ掛かるものを感じます。それが誰であったか――」
セイちゃんは考え込んで言った。ゲンさんは黙ったまま、良平の顔をじっと見ている。なにか気になることでもありそうな表情だ。
それでも結局、大した情報は得られず、良平は老人たちと別れた。

その日の晩飯は寿司だった。それも食堂の一画に急ごしらえのカウンターが設けられ、ゲンさんが目の前で握ってくれるのだ。
(えっ、ぼくのためにやってくれたの?)良平は昼間、老人たちと会話したことを思い出して、そう思った。(――でも、まさか)
寿司ネタはこの時期、近海で獲れる魚が使われていた。それにゲンさんの繊細な技が加わって、東京でも高級店でしか出されないような品がある。
サヨリの上品で淡白な味と滑らかな舌触り、アジはすっと包丁を入れてショウガとネギをのせ、シャリと脂がよくなじんでいる。出汁で蒸した白魚は、上にのせた梅肉との相性が抜群にいい。ヒラメは昆布締めしていて、ふっくらとした身とほんのり香る昆布風味が最高だ。
口に出さなくても、良平が感激している様子は、ゲンさんも分かっているようだ。皺の多い厳めしい顔の中で、細い目元が慈しみを含んで緩んでいた。
良平の横では、スギさんとテッちゃんが旺盛な食欲を見せて、ぱくついていた。(もっと味わって食べればいいのに)良平は思った。

この数日、朝は快適に過ごせていた。
いつもは絡んでくる江上菊五郎が、食事時間を遅くずらしたようだ。
前にはずみで彼の頬っぺたを張ったことがある。次に会ったとき、「自分、暴力はあかん。――あかんで」と安全距離を保ちながら言った。
江上は、よほど痛い思いをしたのだろう。以来、彼は良平との距離を置くようになっていた。

この朝も一人で飯を食べていると、ハルさんが刺身の小鉢をもってきた。
ヒラメやサヨリ、イカの造り、さっと湯通しした、ワラビや花ワサビが添えられている。
朝っぱらから何とも豪勢な小鉢だ。
驚いてハルさんの顔を見ると、「ゲンさんの差し入れ。昨日の余りものを装ったのだって」と言ってウインクした。
「じゃあ、あとでゲンさんにお礼を言っておきます」
良平が言うと、ハルさんは否定した。
「それはよした方がいいわ。ゲンさん、やさしい人なんだけど、面と向かって礼を言われると、逆に怒った素振りをするから」
ハルさんはクククッと笑った。「おれは別に、おべんちゃらを言って貰いたくて作ったんじゃねえ――なんてね」
ふと喫茶アルプスのマスターの言葉を思い出して、良平は苦笑した。

それから数日後、良平は夕食のあと、スナック万玉に始めて行った。前に江上の頬を張ったことで、ちょっぴり後ろめたい思いがしていたのだ。
店はスーパーの裏側、ちょっとうら寂びれたところにあった。それでも、店の中に入って驚いた。10人ほどの客で賑わっていたのだ。
カウンターやボックスシート、それぞれの席が客で埋まっていた。奥のステージでは年配の男がマイク片手に歌っている。
カウンターの奥から、江上菊五郎が手を挙げた。それから客たちの席を詰めさせて、端にひと席あけてくれた。
「わあ、良ちゃん、来てくれて嬉しいわあ」
彼は注文も聞かず、良平のグラスにビールを注ぎながら言った。「ここではうちのこと、菊ちゃんて言うてね」
良平は止まり木に尻を落ち着けて、店の中を見回した。驚いたことにスギさんとテッちゃんの姿もあった。客は皆、男ばかり。それも、良く日焼けした顔ぶれが大半だ。漁師が多いんだろうか。ふと思った。

「で、良ちゃん、うちのことどう思う?」
声をかけられて、カウンターの向こうの菊ちゃんの顔を見た。目がキラキラと輝いている。なにかを期待している目つきだ。良平はしぶしぶ返事をした。
「いいと思いますよ」
「いいやて!」菊ちゃんは目を見開いた。
「自分は『い』を二つ重ねただけで、このうちを表現できると思てんのか!この魅力あふれる菊ちゃんを。ええ、本気で思てんのか!」
また始まった。うんざりしていると、横の席にいた頭の禿げたおっちゃんが、助け舟を出してくれた。
「まあまあ、菊ちゃん。ちょっと落ち着こうよ」
「落ち着けって、それはできへん。うちはワイルドに生きてんやから。人生終わりに近い年寄りと違うわ」
「ちょっと待て!俺の人生が終わりに近いだって」
「訂正。おっちゃんは、もうとっくに終わってるわ」
「なにお、この豆大福!」
二人の会話は険悪なわりに、ちっとも怒っていない。そのへんが、菊ちゃんの店の繁盛している原因かもしれない。

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25/01/03 06:18 神亀

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