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(1)あけぼの町

東北新幹線からローカル線に乗り継いで、車窓を流れる景色を眺めていた。
しばらく続いていた山と野原の風景が、トンネルを抜けると、急に海が迫ってきた。微睡むような淡い青空のもと、細波の立つ海面は、にぶい陽光を吸収して黒っぽく輝いていた。
小宮良平は46歳になる。今もって独身である。背は低いが小男というほどでもなく、中肉、なめらかな頬をしている。会社では総務部門に所属して、経理システムのプログラマーが専門である。
本人が自覚しているところでは、何の取り柄もないが、強いて言えば一人で行う作業が得意であり、逆に人前で自分の意見を述べるのが苦手である。
唯一自慢できることと言えば、グルメであるということだ。
彼は無趣味で贅沢品にも興味がなく、母ひとり子ひとりの質素な生活を送っていたが、食べ物だけはこだわりを持っていた。それは多分に、料理教室を開いている母親の影響だ。

つい先日、東京本社から地方の工場へ転勤辞令が下りた。職場の人間関係に疲れきってウツ状態にあった良平にとって、むしろ良いタイミングだったのかもしれない。辞令を出されたとき人事部長から、1年限りの転勤と言われていた。しかし仕事の進捗次第では、もっと長くなる可能性もあった。



列車はスピードを落として、目的の駅に到着した。
キャスターバッグを持ってプラットホームに降りる。
駅員一人の駅舎を出たときは、東京の喧騒から遠く離れたことを実感した。
ほんのりした春の陽気に触れ、地方都市特有の、ゆったりとした時の流れに包み込まれた気分だった。

あけぼの町は、海と山に囲まれて、自然環境に恵まれた町である。
町の主要産業は、良平がこれから働く光学機械メーカーの工場ひとつである。
すぐれた自然環境と安い労働力を求める会社側と、過疎化を食い止めようとするあけぼの町の利害が合致して、5年前に新工場が稼働したのだ。
ほかの産業といえば、昔からの漁業、農業、林業などが細々と営まれている。
観光施設に乏しいが、山裾の小高い丘に石垣が見え、その上に3層の山城が聳え立っている。戦国時代のものだという。その山城と対照的に、海に最も接近した丘の上には、白亜の立派な灯台が立っている。

良平はキャスターバッグを引いて、駅から町のメイン通りに出た。
スーパーや町役場、郵便局、派出所などがひと固まりにあり、通りの先に進むと生活利便施設や民家が混在して立ち並んでいる。大きな建物はスーパーぐらいで、あとは民家の規模とさほど変わらない。
途中大きな石の鳥居があり、道路はアスファルトから石の舗装に変わった。その石畳を300メートルほど歩くとT字路に突き当たり、正面はうっそうと木の生い繁る古い神社である。
これから良平の宿舎となる「あけぼの荘」は、T字路の角にあった。民宿の家庭的雰囲気とホテルの機能性を備えた宿泊施設、と人事部に聞いている。

あけぼの荘の玄関に入ると、受付に人は見当たらない。カウンターの上に「ご用のお方は――」の表示板、そしてベルがある。チンと押す。しばらくして中年の女性が奥から出てきた。
良平が名乗ると、女は明るい声で言った。
「あら小宮さん、工場から連絡が入っています。お早いお着きでしたね」
小川春江と名乗る女将は、良平と同年代くらい、さっぱりした明るい性格の持ち主のようだ。
まずは良平の使う部屋に案内された。
2階の角部屋で10畳ほどの洋室である。窓から向かいの神社が見える。南面した中庭側は掃き出し窓とベランダがある。
ツインベッドが部屋の半分を占め、ベランダ側には、事務机兼用のカウンターが設置されている。入口横のクローゼットは、そこそこのスペースがあった。
さっそくクローゼットに上着を吊るし、キャスターバッグを置く。室内にトイレは無く、1階と2階にある共用トイレを利用することになっている。

「この部屋が、一番広い部屋なんですよ」
女将は無邪気に笑うと、部屋を出て廊下を歩いた。
2階はすべて客室で6部屋ある。5部屋はツインベッドルーム、のこり1部屋は和室で急のお客さん用という。
そのあと1階の食堂に案内された。宿泊室の数からみれば広すぎるようだ。
「ここは宿のお客さまだけでなく、外部のお客さまも来られるの。あとで紹介しますけど、腕の良い板前さんがいますわ」
食堂には独立した店の名前が付けられていて、『無法松』という。外部から直接出入りするガラスドアの上に、名前入りの暖簾が掛かっていた。
あけぼの荘で働く従業員は、住み込みの女将と板前の二人きりで、日中は近所の主婦がパートで手伝いに来る、という。

あけぼの荘の弱点と言えば、建物内に入浴設備がないことだ。横にある町営の銭湯を利用しなければならない。
銭湯は1回100円という格安料金で、タネ明かしをすれば、町の外れにある廃棄物処理工場の排熱を利用して、地層からくみ上げた鉱泉水を熱し、パイプで送り込んでいるからだという。この泉質は町の自慢で、美肌効果があり、神経痛や胃弱にも効くそうだ。

夕方までに時間があったので、すぐ前の神社に参拝した。石柱に宝亀山神社と名が掘られている。境内は掃除が行き届いて、宮司の人柄をうかがわせた。
クスノキやイチョウの大木が数本あり、幹の太さから数百年の歴史を感じさせる。賽銭箱に奮発して415円(良いご縁)を入れ、本殿でお参りしていると、中年男に声をかけられた。
「こんにちは。ここの宮司をしています」
「あ、こんにちは。今日から、そこのあけぼの荘でお世話になる小宮です」
宮司はよほど話好きなのか、冗談交じりに言った。
「私の名前はイカリですが、猪を狩ると書きます。ひょっとしたら私の先祖は、猟師だったのかも知れません」
言って、ハハハと笑う。
男は中肉中背、良平と同じくらいの年頃だろう。色白のみやびた顔立ちをしているが、着ている衣服はウールのセーターにジーンズ、およそ神主らしからぬ風采だ。
良平の疑問に気づいたのか、宮司はあっさりと言った。
「私がそれらしく見えないとお思いでしょう。神主の衣装を身につけるのは、神事のあるときだけです。普段は面倒なので、こんな格好をしています」
言ったあと、ふたたび笑った。
そして頼みもしないのに、神社の由緒を語りだした。「創建は17世紀初め、江戸時代初期の頃です。祖神は須佐之男命をお祀りしています。神社の名前の由来は、背後に宝亀山がありますから、考えるまでもありませんが、実はもうひとつあるのです」
宮司は、案内しましょう、と言って本殿の裏手のほうに向かった。
小さな池があって、縁のところで苔むした岩の壁から水が湧き出している。
「下のほうをご覧なさい。二つの米俵に乗っかった亀が、湧き水に向かって首をもたげているように見えませんか」
岩の表面が長い年月の水に晒され、砂質層の脆弱な部分が削り取られて、三つの岩に別れている。二つの丸い岩と、その合間から、先端が丸みを帯びて上に伸びた岩だ。
言われてみれば米俵と亀に見えるが、良平は直感的に別のモノを想像していた。――男の竿とタマタマ。
「どうです、米俵と亀で宝亀につながるでしょう?」
宮司は言って、悪戯っぽく良平の顔を見た。
(実際はどう見えるか知ってるんだ――)
好き者の宮司にあきれて、良平は苦笑した。

宮司と別れたあと、スーパーまで歩いて、取りあえず必要な日用品を買った。
買い物袋を抱えながらあけぼの荘に着くと、玄関先で女将が二人の男と話をしていた。年配の男と若い男――女将が良平に気づいて声をかけた。
「あら、今お帰り?ちょうど良かった。これから同宿人になるので、皆さん紹介しますね」
年配のほうは椙田和善62歳、背は低いがあんこ型のどっしりとした体つき。若いのは堀井哲夫38歳、肩幅が広く背が高いスポーツマンタイプである。二人とも漁師だという。共によく日焼けして、見るからに健康体だ。
「皆さんあけぼの荘で馴染みだから、スギさん、テッちゃん、と呼んでるの。あ、私はハルさんよ」
女将は言って、良平のほうを見た。「あなたは何て呼ぼうかしら?」
初めから馴れ馴れしすぎると思ったが、良平は仕方なく答えた。
「ぼくも良平――下の名前でいいです」
「じゃあ、まだお若いから、良ちゃんね」
女将――ハルさんは、さらっと言うと、付け加えた。「スギさんたち、これから銭湯に行くんだって。良ちゃん、ご一緒したら?」
良ちゃんと呼ばれることにまだ違和感があったが、良平は素直にうなずいた。

銭湯の建物に入ったところで、アルバイト生らしい若い女がいて、そこで入湯料の100円を払った。
左右に別れて男湯と女湯があり、それぞれ青と赤のノレンが掛かっている。
脱衣室に入ると、スギさんとテッちゃんは手慣れた様子で服を脱ぎ、さっさと浴場に入っていった。
垣間見た二人の逞しい裸体に、良平はどぎまぎした。
スギさんの分厚い肉体と図太い男のモチモノ。背の高いテッちゃんは、筋肉質の肉体とカリ高のモチモノだ。まさに海で鍛えた漁師の肉体である。
裸になって浴場に入ると、先に入った二人が肩を並べて湯に浸かり、こちらを見ている。良平は股間を湯で流して、そっと湯船に浸かった。熱めだが、我慢できないほどでもない。少し茶色みをおびて、まちがいなく温泉の湯である。
「どう、なかなかいい湯だろう」
テッちゃんが話しかけた。
「確かにいい湯です。体の芯から温まってくる気がします」
良平はお愛想を言った。それよりも、二人に比べて生白い、自分の体が恥ずかしかった。
スギさんとテッちゃんは、あけぼの荘の一部屋に同居しているという。しかも二人とも独身である。よほど仲が良いのか、浴場でも並んで椅子に腰かけ、体を洗い合っている。
日焼けして逞しい二人の後ろ姿を見ていると、つい男同士の愛を想像してしまう。しかし二人の素振りには、背徳めいたところは微塵もない。むしろ海の男のカラッとした男らしさを感じる。

銭湯から戻って、自分の部屋でパソコンに向き合っていると、「御飯ですよ」とハルさんの声が聞こえた。
1階におりて食堂に入ったとき、3組ほどの先客が食事をしていた。どうやら町内の客のようだ。スギさんとテッちゃんがやってきたので、4人掛けの同じテーブルについた。
ビールで乾杯していると、ハルさんが白髪頭の爺さんを席に連れてきた。頑固そうな顔と筋肉質の体つき、すでに80代に入っていると思われる。
「この店の板前、篠田厳さんよ」
ハルさんは紹介すると今度は老人に向かって言った。「ゲンさん、この人が小宮良平さん。今日からここで生活を始めるの」
皺の多いゲンさんの目が、良平の顔を見て、わずかに見開かれたように思えた。老板前は黙って頭を下げ、そのまま厨房のほうに引っ込んだ。
「愛想なしの頑固者だから、ごめんなさい。でも料理の腕前は超一流よ」
ハルさんが申し訳なさそうに言った。

この日の晩飯は、この地方では珍しい水だきが出た。
白濁したスープ出汁、鶏の骨付きもも肉と手羽に、キャベツ、長ネギ、ニンジン、エノキ、水菜が入っている。
骨からの肉離れが良く、鶏肉の旨みが口中にじゅわっと広がってくる。
旨い!
良平は思わずうなった。
初めて食べる料理だが、濃厚かつあっさりした滋味深いスープが、病みつきになりそうなほどうまかった。
途中、ハルさんが顔を出したので、料理を褒めた。
ハルさんは我がことのように嬉しそうだった。
「ゲンさんが若いころ、九州の博多で覚えたらしいわ。スープは、鶏ガラだけを丁寧にアク取りしながら、何時間も煮込んで作るの。それに新鮮な鶏のぶつ切りをぐつぐつと炊き込む。この料理に費やしたゲンさんの労力は、相当のものよ。だから、じっくりと味わいながら頂いてね」
ゲンさんの料理する品目は、日替わりメニューだが、基本は地産地消だという。そのため、あけぼの荘の裏の畑で野菜類を栽培している。シゲさんやテッちゃんが釣ってくる魚も食材にされる。そして時々、今夜のように特別メニューの料理が出されることもある。
「それは全部、ゲンさんの気分次第よ」とハルさんは朗らかに笑う。
うまい料理は人生を豊かにする――むかし誰かが言っていたような気がする。
とにかく良平が幸せな気分になったことは、確かである。

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25/01/01 06:38 神亀

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