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紫陽花屋敷(1) |
![]() (1) 長兵衛はすきっ腹を抱えて、深川あたりを彷徨っていた。もう2日間、何も食べていない。食えない身に宿賃を払えるはずもなく、着の身着のまま、大川べりで野宿している。 グルルルルゥ――腹が物欲しげな音を立てる。 つい10日前までは、公儀御庭番の仕事に就いていた。そこそこの手柄も立てていた。それが忍びにはあるまじき失策で、お役御免となったのだ。 間違いの元は、大奥の警護についてからだ。ちょいとした経緯で、奥女中を抱いて善がり狂わせた。それが、色事に敏い女中の間で評判になり、引く手あまたの持てぶりになった。なにしろ男のいない女だけの御殿である。 女どもに誘われるまま、心地よく致していたが、ほどなく、伊賀忍びの監視網に引っ掛かってしまった。これは只で済むはずがない。なにしろ大奥の女どもは、公方さまお一人の所有物なのだ。 縄を打たれ、お頭の前に引き立てられた時は、死を覚悟した。 お頭は、長兵衛が子供のときから、修行の師となったお方だ。 忍びにはそれぞれの得意分野があり、それを子供のときから鍛えあげていた。 長兵衛の場合は針術であり、長じてからは性技だった。 小さな体に比べて彼のヘノコは異様に大きい。成人した今は、育ちすぎた松茸のように、カリの発達した禍々しい形状になっていた。 性技の訓練相手は、女だけではなかった。お頭の尻を犯して衆道の兄者役の訓練までさせられた。 忍びの世界に情は禁物だが、お頭は長兵衛が可愛くて仕方がない。 そこで恩情が働いた。 長兵衛を斬首したように偽装して、密かに追放処分にした。もちろん、長兵衛が生き延びていることが知れれば、お頭とて首が飛ぶだろう。 長兵衛は、長三と名前を変え、江戸の街で町人として生きることとなった。 忍びの術があれば、食っていく程度の銭を稼ぐのは容易なこと、とタカを括っていた。道場の師範代か大店の番頭くらいなら、すぐなれるだろう。 ところがどっこい、世間は甘くなかった。いずこも話を聞かず門前払いだ。 忍びの技は優れていても、見栄えが良くなかった。すでに頭は白髪交じりで薄くなり、皺の多い顔の中で、茄子鼻と大きな口だけが目立っている。おまけに風が吹けば飛ばされそうな小さな体だ。どう見ても四十初老の風体だ。 (2) 「何をされるのです!通してください」 澄んだ声が聞こえてきた。 角を曲がると、若い女の前に立ち塞がる四人組の男どもの光景が見えた。 女は地味な小袖を着て、小柄でほっそりとした姿形だ。 髭の男が娘に絡んでいる。 「そう邪険にしなくてもいいやないか。ちょいと小父さん達と付き合え」 むくつけき男たちに囲まれて、さぞや怯えていると思いきや、娘はそんな風でもなく、毅然とした声で言った。 「すみません、先を急いでいますので――」 「何をそんなに急いでいる。おや――」 髭の男は、下から覗き込むように娘を見た。「よく見ると、美人というより男前って顔だな。ま、それはそれでいいか。嬢ちゃん、何歳になる?」 「――十八ですが」 「かーっ、もう立派な大人じゃねえか。どうでえ、これからちょいと俺たちと、気持ち良いことやるか」 髭の男が娘の肩に手を伸ばした。 途端、男の体がでんぐり返って、地に叩きつけられた。か弱いと思っていた娘の見事な体術である。 「おわっ!」 ギョッとして、地に伏した仲間を見た他の三人が、身構えながら娘に迫った。 「このアマ、妙な術を使うぞ。気を付けろ」 そこで何かが飛んできて、ビシッと音がした。 「いてっ!」 先頭の男が、額を手で押さえた。 ここで長兵衛改め長三の登場である。 指ではじき飛ばした小石が見事命中したので、長三は気分を良くしていた。 「大の男が四人がかりで娘に絡むとは、見下げ果てた奴らじゃな」 声に威圧感を出そうとしたが、腹が減っているので、我ながら元気のない声になってしまった。 「おや、ナスじじいがしゃしゃり出おった。すっこんでろ!」 男がせせら笑った。途端、「いたっ!」と言って額を押さえた。 今度も礫が見事に命中した。 「このナス野郎、何をやった!」 何度もナスと呼ばれて、長三は気分を害した。これはもう男たちを徹底的に痛めつけてやるしかない。 そのとき娘が前に出て、男たちと対峙した。 「お爺さん、怪我をしますから下がってください」 お爺さんと呼ばれたのには傷ついたが、娘の構えを見て感心した。武術の心得があるらしく、隙が無い。 男たちが懐から匕首を取り出したのを見て、これは面倒なことになった、と長三は思った。ごろつき四人をやっつけるのは屁の河童であるが、今は腹が減って力が入らない。万が一、娘が傷つけられでもしたら――。 (黒塀の高さは一間ほど、何とかなりそうだわい) 瞬時に判断した長三は、素早く前に出て男の股座を蹴り上げた。 次の瞬間、彼と娘の姿がフワッと浮き上がって、黒塀の上に立っていた。 これには、ごろつきどもだけでなく、娘も、何があったのか、と狐につままれた表情だ。 一連の動作を解説する――急所を蹴られた男が前屈みになる。次に長三が娘を抱えて、男の肩に飛び乗り、反動を利用して塀の上に飛びあがる。忍びにしかできない跳躍力だ。 「あっ、待てっ、下りて来い――卑怯者――逃げるな」 男たちが騒ぎ立てたが、長三はアカンベェをして、今度は娘を抱えて、塀の内に飛び降りた。 (3) 紫陽花の葉が茂る庭の片隅で、二人は初めてお互いの顔をまともに見た。 (ほう、これは――) 長三は内心驚いた。娘は品のある整った顔立ちをしている。色白の頬にぽっと桜色が差し、愛くるしく輝く瞳――先ほど十八歳と言っていたが、まさに青春の美の結晶といった風情だ。 「香奈と申します」 娘が名乗った。 「あっ、わしは長三といいます」 (それにしても――)長三は訝った。先ほど娘を抱えたとき、気づいていた。 ほっそりとした小柄な身体だが、腰骨の形は男のものだった。(娘の格好をしているのは、何か事情があるのだろう) 「私を抱えて塀に飛びあがるとは――お爺さん、すごい体術ですね」 香奈が感心したように言った。目は涼やかだが、警戒する色もある。 「これでも四十になったばかりでの。お爺さんと呼ばれるのはちょいと――」 長三がのんびりした口調で言うと、香奈は慌てた。 「あっ、失礼しました!」 言って、みるみる頬を赤く染めた。 そのとき屋敷のほうから声がした。 「ほっほっほっ、面白い二人連れじゃな」 声のした方を見ると、恰幅の良い男が縁側に立っていた。気配に気づかなかったとは、長三の不覚としか言いようがない。 男は禿頭で仏のように穏やかな顔をしている。身なりからすると坊さんではなく商家のご隠居のようだ。 「これは失礼いたしました。香奈と申します。塀の外でごろつきどもに絡まれ、無断で逃げ込んで参りました。お詫び申し上げます」 香奈は地面に正座して、深々と頭を下げた。清々しいほど律儀な態度だ。 「ほっほっほっ、お顔をあげなされ、お嬢さん。表の騒ぎには気づいておった。先ほど小者に言って、岡っ引きのところに走らせたところだ」 ご隠居は泰然と笑うと、長三のほうを見た。 「で、そちらのお爺さんは」 (お前こそ爺さんじゃないか)と思ったが、長三は町人風に答えた。 「へえ、長三と申します。お嬢さんとは、たまたま出会っただけで――」 そこで、爺さんと言われたのが悔しくて、付け加えた。「この春、四十になりました」 「ほう、お前さん、そんなに若かったのか。立ち話もなんじゃ、二人とも縁側に上がりなさい。――あ、わしは狩野泰山と申すものじゃ」 香奈はすなおに勧めに従ったが、長三はぼろ同然の服を気にしていた。 「わしはこのように汚れた格好ですから、庭にいるほうが気楽で――」 ご隠居は、長三を面白そうに見た。 「なら、風呂に入って着替えぬか。庭師の服でよければあるが」 そこで付け加えた。「わしは昼風呂が好きでな。湯も湧いている頃じゃ」 屋敷内に風呂があり、昼間から湯を沸かしているとは、ずいぶん裕福な生活をしているようだ。 そのとき、小柄でふくよかな老人が顔を見せた。 「勘三郎親分に来て頂きましたが、男どもは立ち去ったようで、親分も戻られました」 「そうか。あとで親分には、菓子折りでも付け届けておくれ。――ところでこの御仁を風呂に入れてやってくれ。臭くてかなわん」 泰山は言って、長三のほうを見ながら鼻をひくつかせた。 (4) 長三は竹べらと手拭いを使って、垢のこびりついた体をゴシゴシと擦った。毛髪にたまったフケも、手指で掻き落とした。 湯から上がったときは、赤ん坊の肌のように艶々としていた。 陽平と名乗る小者が、着替えと褌を持ってきた。服を渡すとき、長三の股間を驚いたように見た。無理もない。およそ小男には似つかわしくない、鍛え抜かれた長大なヘノコがぶら下がっているのだ。 豆狸のように可愛らしく、ほっこりとした小者を見て、長三はふと思った。 (この爺、ひょっとしたら、男に可愛がってもらってるのか) 小者が剃刀を使って長三の髪を整え、無精ひげを当たってくれた。 身はすっきりしたが、今度はすきっ腹が身に沁みた。 座敷に行くと掛け軸を前に、香奈がご隠居となにやら親し気に会話している。 「香奈さん、まだおられたのですか」 長三は娘に声をかけた。風呂に入っている間に帰ったものと思っていたからだ。 それに応えず、香奈は長三の顔をしげしげと見た。 「そんなお顔をされていたのですね」 「どこにでもある顔ですよ」 「渋くて男らしいお顔だと思います。ねえ、ご隠居」 香奈がご隠居に向けて、親しそうに微笑みかけた。ご隠居もそれに応えて、鷹揚に頷き返す。 二人の親しそうな様子を見て、一瞬、長三の胸の内で、ご隠居に対する殺意が芽生えた。(香奈さんに手を出したら、殺すぞ) それでも香奈に褒められると、くすぐったいような良い気になる。 「ところで長三さん、先ほどの様子では、満足に屋根の下で寝泊まりしていないようだが――職はあるのかね」 ご隠居が、唐突に聞いてきた。 「それは――ありますよ」 とっさに見栄を張ったあと、長三は秘密めかして言った。「天下のお役に立てる仕事をやっていましたが、今はそのう――休養中でして」 「天下の役に立つことと言えば――長三さんはお役人ですかな。それとも逆に、役人に追われる身だとか――」 穏やかな顔の中の小さな瞳が、一瞬、何もかも見通すような鋭さを見せた。 (油断ならない爺さんだ)長三は笑みを浮かべたが、いくぶん顔がこわばっている。「ご隠居、ご冗談を――」 「そうですよ、ご隠居。悪い冗談です」 香奈が横から長三の加勢をした。彼女が言うと、ふっと場が和らぐ。 「いやあ、これは悪いことを申した」 ご隠居は瞳から鋭い光を消して、穏やかな声で言った。「ところで休養中なら、どうだろう。しばらくこの屋敷に滞在して、わしに手を貸す気はないかね」 願ってもない申し出だったが、長三は何食わぬ顔で聞いた。 「手を貸すとは――何をやるんでしょう」 「なあに大したことではない。この屋敷は広いだけで、あちこちガタがきておる。だから修理して欲しいんじゃ」 そこで庭先を見た。「ほれ、紫陽花が明日にでも咲き始めそうじゃ。客が来る前に、修理しておきたい」 なんとなく長三が承諾したような形になったとき、香奈が頭を下げた。 「ではご隠居、私はそろそろ失礼いたします。絵のお話はいずれまた」 「おお、そうか。絵を習いたければ、いつでも来られい」 ご隠居は言って、長三を顧みた。「また先ほどの輩が現れるやも知れん。長三、香奈さんを家まで送ってくれ」 早くも小者に対する言葉使いだ。しかし香奈のお供をするのは、願ってもないこと。長三は嬉しさを押し隠して、香奈のあとに従った。 「先ほどご隠居と、絵がどうとか言われていましたが――」 香奈の家に行く道すがら、長三は訊いた。 「ええ、ご隠居は絵師をやられているのです。それでわたし、絵を教えていただこうと思いまして」 そのとき不覚にも、長三の腹がグルルゥと鳴った。もう空腹の限界だった。 香奈がそっと笑った。 「家に戻ったら、夕飯をご一緒してください」 |
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23/06/23 11:18 神亀
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