■ 風の新之輔第一部 - 第一部豊の国(七)
(七)
お医師どの――お医師どの――。
声とともに板戸を叩く音がした。
薬研(やげん)を使って漢方薬を調合していた芳美は、ふと顔を上げた。
「庭のほうだな。――惣吉、ちょっと見てくれぬか」
「はい、旦那さま」
惣吉が土間に下りて、裏側の木戸を開けた。
「ひえーっ!」
聞こえてきた惣吉の悲鳴に、芳美は立ち上がった。
「どうした、惣吉」
土間に行くと、見知らぬ老爺が、濡れて血だらけの男の身体を支えている。男の顔を見て、芳美は驚いた。「新之輔さまっ!」
新之輔を肩で支えた老爺が、すかさず言った。
「小壺芳美どのですね。旦那さまの手当てをお頼みします」
芳美は診察室として使っている板の間の隅に、大きな木の台を設えていた。患者を寝せて診察するときに使うものだ。
その木の台に新之輔の身体を横たえた。作業を手伝う老爺は、昌造と名乗った。前に新之輔が言っていた、屋敷の用人だ。
新之輔は気が緩んだのか、台の上で意識を失っていた。
芳美は小者に指示した。
「惣吉、釜いっぱいに湯を沸かしてくれ。それから、八味活血散を白湯に煎じて、持ってきてくれ」
芳美はまず、新之輔の身につけている衣服をすべて脱がせて、傷を調べだした。全身、七ケ所の金創を受けていた。とくに右脇腹の傷が深かった。おそらく槍に刺されたものであろう。
それに、どれほどの血を失ったのか心配だった。目を閉じた新之輔の顔は、死人のように色を失っていた。
最初に右手首の矢傷に取り掛かった。矢は手首を貫通しているが、骨は傷ついていないようだ。
芳美は医療道具の中から、小刀を取りだした。それを使って手首から突き出た鏃の根元の部分を、慎重に切り取った。
そこで横にいる老爺に言った。
「昌造さん、ご主人の手首を押さえていてください」
芳美が何をするのかに気付いて、昌造は新之輔の右手の肘と掌の部分をしっかりと握った。
芳美は矢羽側の柄を掴むと気息を整え、一息に引き抜いた。
「うっ!」
鋭い痛みに、新之輔が意識を取り戻した。
惣吉が沸いた湯を入れた手桶を、診察台の横に置いた。それから椀に入れた薬湯を持ってきた。
先に薬湯を新之輔に飲ませた。
「さあ、新之輔さま、これを飲んで」
新之輔が飲みやすいように頭を支えてやり、椀を持って口許に近づけた。八味活血散は解毒作用があり、また活力を湧き立たせる効果がある。
新之輔が飲み終わると、芳美は手拭いを湯に浸し、軽く搾ったあと、傷の周囲の汚れを取った。
芳美は作業をしながら、小者に言った。
「惣吉、琉球古酒を持ってきてくれ。傷口を消毒する」
琉球国で作られた火入れした酒で、壺の中で何年も寝かせた強烈なものだった。めったに使わないが、芳美はとっておきの消毒剤にしていた。
ただし、消毒効果は抜群だが、傷口に沁み込んで猛烈な痛みを伴う。
芳美は消毒する前に、新之輔の口に手拭いを噛ませた。
「かなり沁みますよ。いいですか、いきますよ」
傷口に酒を注ぐと、新之輔がくぐもったうめき声をあげた。歯を食いしばり、顔一面に脂汗が浮いている。
医師が新之輔の治療をする間、昌造は外に出かけた。
片腕には、新之輔の着ていた羽織と袴を丸めて抱えていた。どちらも刀で切り裂かれ、血に染まって、もはや使いようがなかった。
外はすでに暗かった。
昌造は芳美の家を中心に、まわりの様子を探った。曇り空で、月は隠れていた。どの家も暗く、通りも明かりひとつ見えない。
使用する灯りは、蝋燭(ろうそく)や灯油(ともしあぶら)であったが、蝋燭は高価すぎて滅多に使われなかった。また灯油にしても、芳美の家は行灯に使う余裕があったが、庶民は灯油を買うほどの金が無く、暗くなれば床に入る、という生活習慣だった。
昌造は、新之輔を見つけた砂浜のほうに行ってみた。松明の灯りが見当たらないところを見ると、藩は夜の捜索を取りやめたのだろう。
今度は城を挟んで反対側の海岸のほうに行った。城門や大名屋敷の前は常夜灯があるので近寄れず、かなり大回りになった。
反対側の海は砂浜ではなく、ごつごつした岩が連なっていた。海岸線の先のほうは、山が迫っている。
昌造は持ってきた羽織と袴を、人の目につきやすい岩場に、少し離して置いた。風や波に持って行かれないように、布地の裂けた部分を尖った角に引っかけ、石を噛ませた。
明日、追っ手が布地に気付けば、新之輔はこちらの海岸から陸地にあがって、山に入ったと思われるだろう。
(弥平たちは無事、羽室山に逃れているだろうか?)
昌造は屋敷で働いていた小者夫婦の身を案じた。
時をすこし遡る――。
昌造は、昼七つ(午後四時)の鐘が鳴ってしばらく待っても、主の風間新之輔が大手門に現れないので、胸騒ぎを覚えた。
そのうち、徒侍(かちざむらい)が城中からやってきて、門番になにやら言ったかと思うと、門があわただしく閉じられた。
城中で何かあったのは確かだ。
不安を覚えた昌造は、町に住むある男のところに走った。
その男は四半刻(三十分)ほど姿を消して、戻って来たときには城内の情報を掴んでいた。
――風間新之輔が狼藉を働いた。抵抗したので、城の武士たちが総動員で追い詰めている――との情報だった。
昌造は、新之輔の閉門が解かれ再出仕が決まったときから、なにやら不安なものを感じていた。
(それが今日、旦那さまの身に起こったのか?)
たったひとりで城の武士たちを相手にしているとは、絶望的な状況だった。それでも昌造は、新之輔の強い意志と生命力を信じていた。
主人が生き残れるとしたら――昌造は知らずして、新之輔がとった逃げ道を思いついた。
昌造は走った。
屋敷に戻ると、小者の弥平夫婦を呼び、簡潔に事情を伝えた。そして、有事のために貯えた丁銀五十枚ほどのうち十枚を、老夫婦に与えた。
「長い間、世話になった。いいか、羽室山に逃れろ。村の長に、わしの名前を出せば、受け入れてくれる」
新之輔の狼藉に直接関係ないとはいえ、屋敷の用人であれば捕まって、厳しい詮議を受けるだろう。拷問に耐え切れず、命を落とすことも有り得る。それで、弥平夫婦を逃がしたのだ。
弥平たちが屋敷を出て行くと、素早く身支度を整えた。里の者の装束を身につけるのは、久しぶりだった。忍び刀を背中に差し、棒手裏剣は布に包んで、懐に入れる。旅に必要なものは、丁銀と一緒に大風呂敷に包み、腰に巻きつけた。もう屋敷に戻って来ることはないだろう。
すべてが整うと、昌造は城の裏手にある海へと向かった。
ほどなく、半死半生といった態で浜に泳ぎ着いた、新之輔の姿を発見したのだ。
暮六つ半(午後七時)――。
四カ所の大きな傷を縫合し終えて、芳美は深い吐息をついた。微妙な作業の連続で、集中し続けだった。それが済んで、急に疲労を覚えた。
(まだだ。まだ終わっていない)
芳美は自分に言い聞かせた。
金創に効く塗り薬を、すべての傷口に塗りつけた。それから惣吉の手助けを得て、新之輔の胸から腰まで、晒し木綿を巻きつけた。残った晒しは、適当な大きさに切って、傷のある腕や太ももに巻いた。
手当てがすむと、新之輔を奥の部屋に移し、芳美が使っている蒲団に寝せた。
新之輔はいつしか眠りに入っていた。
(今夜は熱が出るだろう。解熱剤を用意せねば。それに血をだいぶ失っている。滋養のあるものを食べさせなければ――)
新之輔の寝顔を見ながら、芳美はあれこれと考えた。
「惣吉、これから飯を炊いてくれ。新之輔さまが目を覚ましたら、お粥にして差し上げるように。それに、わたしも腹が減った。外出している昌造さんも食べたいだろう。だから多めに炊いてくれ」
小者に指示すると、芳美は薬研を使って解熱剤を調合しだした。
その頃になって、昌造が外から戻ってきた。彼は新之輔の様子を見たあと板の間に戻って来て、手拭いと水で診察台に付着した血を拭い始めた。
「昌造さん、それはあとで惣吉にやらせます」
芳美が言うと、昌造は作業を続けながら応えた。
「いえ、時が経てば血はなかなか落ちません。だから、早いうちに拭いておかないと」
確かにそうだった。結局、昌造のするに任せた。
惣吉が飯の用意をしてくれた。味噌汁と鯵の開きの焼き魚、裏庭で採れた野菜をお浸しにしたものが添えられている。晩飯を食べていなかった昌造は、またたく間に飯をたいらげた。
新之輔は寝ているので、そっとしておいた。睡眠こそ、体力回復に一番効果があるからだ。
食後、惣吉を先に休ませて、芳美は昌造と話をした。
まず昌造が、町で聞いた情報から、砂浜で新之輔を発見するまでのことを話した。
そのあと、芳美が考えながら言った。
「明日はお城勤めですが、わたしは休みましょう。医者の不養生で、風邪をひいたとでも言って」
しかし昌造は否定した。
「いえ、それではかえって怪しまれます。小壺どのはいつも通り、お城に出仕してください」
「でも、ここは海に近い。この辺の家を虱潰しに調べるかも知れません。わたしがいない間に、追っ手がくればどうします」
「小壺どのがおられても同じことです。先ほど外に出たとき、旦那さまの羽織と袴を、別の海岸に置いてきました。それが人目につけば、当面の探索の目は逸れるでしょう」
それでも芳美は悪い予感を拭えなかったが、黙っていた。
寝る段になって、寝具がないのに気付いた。芳美がいつも使っている蒲団は、新之輔が寝ている。押し入れに掻巻(かいまき。綿入れの夜着)があった。それを寝具代わりに使えるが、一枚しかない。
芳美が、はて、どうするか、と思案していると、昌造がこともなげに言った。
「それは小壺どのが使ってください。手前はかまいません。今夜は新之輔さまのそばにいます」
「ではお言葉に甘えさせて頂きます。もし新之輔さまになにかあれば、遠慮なくわたしを起こしてください」
そう言って、芳美は板の間に行った。