■ 血の絆/風の新之輔U - (四)
(四)
障子を開けると夜の大川を眺められる、風流な部屋であった。どこからともなく三味の音が聞こえてくる。上品な客が多いらしく、場末の飲み屋で聞かれる馬鹿笑いや下卑た声がまったく聞かれない。
ここは浅草寺近くの料亭である。
部屋では、幕府奏者番の堀田備中守正俊、海滑藩側用人の堀昌之、それに風間新之輔が、密かに会合を持っていた。堀田は三十二歳の若さで、目端が利きそうな男である。
新之輔は、一連の事件の経過を説明したあと、その首謀者が目付の栗本重利である、と断言した。
「栗本重利の下で動いていた小沢直作は、昨夜、斬殺体で見つかりました。おそらく口封じのために殺されたものと思われます」
備中守は眉をひそめた。
「そうなると、真相を語る者が消えたか。栗本重利は酒井雅楽頭さまの覚えもめでたく、滅多なことでは罪を問えぬぞ」
堀昌之が言った。
「なにか確たる証拠でもあればよいが」
「それも難しいとなると――」
備中守は独り言のようにつぶやいた。「密かに葬るしかないか」
それに対して、新之輔が静かに言った。
「拙者にお任せあれ」
「しかし、栗本は用心深い。いつも身辺は、厳重な警備を敷いていると言うぞ」
「なにか手立てが――」と堀。
ふいに新之輔が言った。
「城中ではどうでござる」
備中守と堀が仰天した。「城中だと!」
新之輔は重ねて言った。
「拙者を城中に入れてくだされば、誰にも気づかれずに弑することができます」
新之輔の頭の中には、新造の技があった。新造は、首藤宗定の命により一子頼宗を密かに弑した。そのとき薄刃の凶器を使って、他殺と分からぬ技を使った。その技を伝授してもらおうと思ったのだ。
備中守は新之輔の顔をじっと見た。
「そのほうが出来ると言うのなら――いいか、絶対にしくじりは許されないぞ。そうでなければ、わしの首が飛ぶ」
堀田正俊が先に帰ったあと、新之輔と堀昌之は残って酒を酌み交わした。
「あんな約束をされて良かったのですか?」
堀が心配そうに言った。
「大丈夫です。拙者に考えがあります」
新之輔は言って、安心させるように微笑んだ。
二人はそれぞれの思いを含んで、顔を見合わせた。
新之輔は、保科正之に似た上品な顔立ちの老人を見ていると、息苦しくなった。無意識に手を伸ばし、堀の身体を抱き寄せていた。
腕の中で堀が、息を弾ませた。そっと唇を重ねた。熱情が募ってくる――。
ほどなく、肉の交わりが始まった。
――*――
堀田備中守は会津藩上屋敷に行って、保科肥後守正之に会っていた。
話を聞いて、肥後守は言った。
「雅楽守のことを考えれば、栗本重利を密かに弑するしかないのは分かる」
肥後守は腕組みを解いた。「しかし、新之輔は元藩士とは言え、御城に上がったことがないであろう。腕は立つとしても、無事役目を果たすことができるのか?」
「ご懸念には及ばぬかと――。拙者の近習として控えの間に待機させます。部屋の見取り図も見せておきます」
「しかしのう、あれは医師の小壺芳美を殺されたのだ。私情に走らねばよいが」
「それも大丈夫でございます。風間新之輔には、太いくぎを打ち込んでおりますから」
太いくぎを打ち込んでいると聞いて、肥後守は驚いた表情で備中守を見た。
一呼吸おいて、気を取り直したように言った。
「いいか、風間新之輔を死なせてはならぬ。あれはまだこの世に必要な男だ」
「それは重々――」
堀田は答えながら、なぜ肥後守がそこまで風間のことを気にかけるのか、訝っていた。
藤堂一馬は、深川の茶屋の二階で酒を飲んでいた。馴染みの女がお酌をした。
(女の奢りで酒を飲むとは、おれもこの頃、品下がってきた)――と、ふと思う。
剣の道を究めようと、ひたすら闘い続けてきた。それでも、未熟、煩悩、邪心、わが身を顧みれば、今だ凡人の域を出ない。(――まあ、いいか)
一馬はぐい飲みを一気にあおると、女の手を掴み、引き寄せた。
「相手をいたせ」
――ほどなく女の善がり声が上がった。
乱れた息が治まると、女は気だるげに男を見上げた。
男は繊細な双眸にも関わらず、強靭な肉体をしていた。精力も人一倍強い。しかし女は、男の内にある鬼のような怨念と妄執を感じた。
武士が地位と栄達を求め、商人が富と繁栄を求め、男と女が互いの肉体を求める――それとは違った、ほかの何かを強く求めているように感じた。ひょっとしたら、何かに取り憑かれているのかも知れない――。
女はそれ以上、考えるのをやめた。――男がふたたび求めてきた。
柳生左馬之助は、身内で血が湧き立ってくるのを覚えながら、通りを歩いていた。
(なんとしても、風間新之輔を斬る)
御目付は、風間新之輔が企てをことごとく邪魔したと怒っていた。それに義兄を殺された個人的恨みもあるようだ。
しかし左馬之助にとって、そんなことはどうでもよかった。ただ風間を斬りたかった。
これまで二度立ち会って、二度とも邪魔が入った。次こそは――。
向こうから一人の侍が歩いてきた。足運びから、武芸の心得があるようだ。ちょうど背格好が、風間に似ている。よし、景気づけにまずあの男を血祭りに上げてやる。
左馬之助は刀の鯉口を切った。
やってきた侍は、ふと足を止めた。二人は三間の距離で対峙した。
侍が低い声で言った。
「おぬし、鯉口を切ったが、やる気か」
左馬之助はにんまりした。
「おう、ちょいと遊ぼうじゃないか」
侍は臆せず言った。
「そうなると命を失うことになるが、それでもよいか」
「おう、上等だ!かかってこい!」
怒声を上げると、左馬之助は刀を抜いた。
ところが相手は落ち着いたものだった。
「まあまて、ここは往来だ。そこの原っぱに移ろう」
二人は、葦の生えた水際の空き地で向かい合った。
すでに陽は風物に長い影を落としていた。時おりゆるやかな風が通ると、葦がゆったりと揺れて、葉に照る日差しが鈍く光る。
二人は共に下段に構えた。
侍が言った。
「ほう、おぬし、新陰流をやるのか」
「お前もな」
言って、左馬之助は名乗った。
「新陰流、柳生左馬之助」
「同じく新陰流、藤堂一馬」
柳生左馬之助の構えが変わっていく。太刀が下段から下八双へと移った。
「田舎侍が、おれの太刀を交わせるか。柳生流奥義、月影――」
左馬之助は最後まで言えなかった。
何の前触れもなく一馬の長身が、弾かれたように動いた。左馬之助の右脇を行くと見せ、急に左に方向を変え、そのまま通り抜けた。
左馬之助の横腹が裂け、その身体がぐらりと傾いた。
「戦いに言葉は不要」
藤堂一馬はひと言つぶやいた。
大政参与保科正之を中心とした臨時の会議が終わり、奏者番の堀田正俊は芙蓉の間に戻る途中、控えの間に寄った。
そこで新之輔と目を合わせ、そのまま立ち去った。
新之輔はさりげなく立ち上がって、移動した。
廊下の端に、目付の栗本重利の姿が現れた。新之輔は廊下の端にひざを折って控えた。
目付部屋に戻る栗本は、新之輔の姿に目もくれなかった。
栗本がそばを通りかかったとき、新之輔は目を落としたまま、低くつぶやいた。
「土御門通斎がよしなにと申しておりました」
栗本はふと立ち止まって、「なにか」と問うた。
顔を上げた新之輔の右手が、素早く伸びた。
栗本は何事か考えるような表情をし、ふいにひざを折って前のめりに倒れた。
そのときには、新之輔は、何事もなかったように歩き去っていた。
もし何者かが見ていても、何が起こったのか理解できぬであろう。それほど新之輔の動きは素早かった。右手に隠し持った薄刃の小刀で栗本の胸を刺し、一瞬後には懐に滑り込ませていた。
栗本の亡骸は、お城医師によって調べられたが、医師は首をかしげるばかりだった。
傷口はただ一か所、真っ直ぐ心の臓を貫いていたが、傷口が髪の毛程度しかないので、何による傷なのかもはっきりとしなかった。
預けた刀を腰に差して、新之輔が大手門を出ると、どこからともなく秋明が近づいて来た。ご隠居風の羽織着流し姿だ。この男が幕府の隠密だとは、とても見えない風情だ。
新之輔は言った。
「少し歩くか」
二人は江戸の街並みを通り、大川に向けて歩いた。少し遅れて歩く秋明の、細身の肉体を包む衣服がしなやかに動く。秋明には独特の色気があり、着こなしも粋だった。
「あれは――」
新之輔は足を止めた。
一町ほど先を、大人と子供が歩いている、と思ったら医師の弥助だった。薬箱を担ぐ供の小者は、侏儒の小紋だ。
「なんで、小紋が――」
新之輔がつぶやくのを見て、秋明が説明した。
「弥助さんが、小紋を雇ったようです。なにしろ小紋は――」
秋明は思わせぶりの表情をした。「まあ、弥助さん、あれこれ弄るのが好きですから」
小紋が巨根の持ち主と聞いていた新之輔は、顔をしかめた。
新之輔と秋明は、大川に面する堤まで来ていた。
夕暮れから薄暮へと変わる、微妙なときだった。紅の色が滲んでいくように、紺色に変わっていく。
「ああ――綺麗です」
秋明がつぶやいた。大川の河口一帯が薄闇に包まれた。この辺りはもう海と言ってよく、水面に細波が走っている。
感動したように眺める秋明の横顔を、新之輔はそっと見た。
「秋明、おぬし、これからどうするのだ」
「どうするとおっしゃいますと」
「嘉平のもとで店を手伝うのか。それとも御前のもとに戻るのかだ」
「もちろん、今のままでいるつもりです」
「つまり、おれの行状を御前に報告することもある、と言うことだな」
「えっ、わたしはこれまでも、これからも、そんなことをする覚えはございません」
「――秋明。ときどきおれは、抜き打ちにお前をぶった斬りたくなることがある」
「おお怖――」
秋明は身を遠ざけた。