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■ 血の絆/風の新之輔�U - 第六章 風立ちぬ
ここは千代田の御城の内。
朝の評定会議が終ると、保科肥後守正之は、老中首座の酒井雅楽頭忠清を呼んだ。
「ちと、相談がある」
ところは城中参与の部屋。肥後守は前置き抜きに話しだした。
「二年前、江戸市中で起きた札差、両替商の押し込み強殺事件は、いまだ首謀者を捕らえていない。しかも盗まれた二万二千両もの金は行方不明だ。この件を鑑みると、どうしても慶安の変を思い起こす。賊どもは資金を集めて、幕府転覆の謀議を図っているのではないかと杞憂する。それともうひとつ、幕府内にも賊の手引きをしている者がいる、と思われる節がある」
雅楽頭は口を挟まず、黙って聞いていた。
肥後守はつづけた。
「ときどき使う者に、風間新之輔という男がいる。海滑藩の二代前の藩主、首藤宗定の落し胤だが、故あって浪人をしている。頭も切れて、腕も立つ。この男を使って、この件を調べさせようと思っている。どうか幕閣からも、便宜を図ってもらいたい」
「しかし、浪人者を使うのは、抵抗があります」
雅楽頭は渋ったが、肥後守は強く言った。
「いや、浪人者だからこそ、隠密行動ができる。幕府の人間を使えば、敵もすぐ気づく。それに新之輔は、南龍公とも面識がある」
雅楽頭が驚いた顔をした。
「南龍公も疑われておられるのですか」
「念のためだ。では、風間新之輔を使うことで、よろしいな」
「肥後守さまの御意のままに」
雅楽頭は頭を下げた。
重ねて肥後守は念を押した。
「それから、このことは極秘にしたい。雅楽頭どのの心の内に留め置かれよ」
「分かりました。ただし、若年寄だけには伝えておきまする」
「それは好都合だ。少し金がかかるからな」
二人の密談は終わった。
これまで四代将軍家綱を支えてきた、叔父の保科正之や寛永の遺老といわれる家光時代からの大老や老中が年老いたあと、若手幕閣があとを引き継いだ。その筆頭が、酒井雅楽頭忠清であった。
肥後守は幕閣内の勢力関係を見て、雅楽頭に相談する形を取ったのだ。

(一)

風間新之輔は、芝の海寄りにある会津藩の中屋敷に来ていた。これまで肥後守は、秘密を要する話は、御城の内にある上屋敷ではなく中屋敷を使っていた。そのことを知っている新之輔は、心構えしていた。
座敷で対面すると、肥後守は立ち上がって、「ついて参れ」とひとこと言った。
新之輔は、先導する御前のあとについて歩いた。長身の新之輔の視線から、小柄な御前の頭頂部が見える。
(だいぶ薄くなったな)ふと思う。

導かれた先は茶室だった。
新之輔の体格では、狭い入口から入るだけで一苦労だ。わずか畳数枚の狭い空間で、肥後守と膝を交えるような距離で向かい合う。
以前、情を交わしたことのある身体をすぐ前にして、艶めいた息苦しさを覚えた。
「余を襲うでないぞ」
新之輔の心を読み取ったように、肥後守がくぎを刺した。
肥後守の少し疲れたような顔を見て、新之輔は言った。
「ご心労、お察しいたします」
肥後守は、じろりと新之輔の顔をにらんだ。
「その言葉に真はあるのか。大井宿では賊を皆殺しにしおって。その方はただ、暴れたかっただけだろう。強すぎる精の捌け口にな」
「御前が昔のように衆道のお相手をしていただけたら、少しは過剰な力も抜くことができるのですが」
「嫌なことを思い出させるな。あれは悪夢であった」
肥後守は顔をしかめた。そこで改めて「次の仕事だ」と言った。
「御前は分別のあるお方ですから、一介の浪人者に、身に余るご命令は決して出さぬと信じております」
「そのほうの口から、分別という言葉が出てくるとは驚きだ」
「何を申されます。分別のある御前とお付き合いしてながくなります。分別は充分学んだつもりです」
肥後守はあきらめたように手を振った。
「もうよい。それで、受けるのだな」
「いくらでござります」
「なにい」
「報酬の話でござります」
「そんなことなら、藤兵衛に聞け」
「あれはしわい」とつぶやいて、新之輔は声に出した。「五十両いただきます。もちろん宿代その他経費は別にして」
「なにっ、五十両!」
肥後守は声を上げた。そして、あきらめたように言った。「それでいいんだな」
「ははっ!」
新之輔は意を強くして、返事をした。
肥後守は淡々として言った。
「そのほうに与える金子は、若年寄も了解して、幕府の勘定方から出る。安く収まって、勘定方も喜ぶだろう」
「御前――ちょっとお待ちください――」
慌てて新之輔が訂正しようとすると、それを遮って、肥後守は爽やかに言った。
「武士に二言はない、と言うのう」

肥後守が本題に入った。
「千住の寺に隠された金は、何者かの手によって持ち去られていた。賊の残党が持ち去ったものと思われる。二十二個の千両箱だ。運ぶのに、それなりの人数がいたのであろう。このままでは慶安の二の舞となる恐れがある」
肥後守が言う慶安とは、慶安四年に起きた由井正雪の乱のことである。三代将軍徳川家光が病死し、跡を継いだ家綱がまだ十一歳と幼かったことから、世情不安となった。
一方、武断政治により大名取り潰しが相次ぎ、巷では主家を失った浪人者が増えた。
これを背景に、江戸、駿河、京、大阪で同時に蜂起して討幕を考えた由井正雪は、結局、仲間の裏切りでとん挫して、事なきを得た。
「それだけではない」
肥後守は声を落とした。「今のご治世に不平のある、御三家や館林公が、次期将軍の座を狙われている。すこしでも世情不安が生じれば、家綱さまのご隠居を迫るであろう」
「家綱さまは、いかように考えておられるのでしょうか」
「あの方はお心が広い。いかに御三家や館林公が騒がれようと、構わぬ捨ておけ、と言われるだろう」
「では、そのようにされればよろしいのでは」と新之輔。
「――」
一瞬、肥後守は新之輔を睨みつけた。
「将軍家といえども内敵は多い。家光さまの代から仕えてきた我らは年老いた。今は、雅楽守らが必死に守っておる」
肥後守は息を継いだ。
「それはともかく、世の中に不穏な動きがある。先だって目付衆と町奉行、八州取締役代官で打合せしたが、確とした情報は得られていない。その方はまず紀伊に行って、南龍公の動きを探ってくれ」
そこで声を少し大きくした。「藤兵衛、新之輔と一緒に行ってくれ」
「承知しました」
部屋の外から藤兵衛が答えた。
「それから、夜は新之輔に気をつけてな」
新之輔が訊いた。
「御前、それはどういった意味でござりましょう」
肥後守はさらりと言った。
「どうも、へそから下のことは、そのほうを信用する気になれぬ」
何気なくも、胸をえぐられるひと言である。新之輔は聞き流すことにした。

会津藩の屋敷を辞して本湊町に戻っていると、往来を一匹のタヌキが歩いてくる、と思ったら口入れ屋の喜久蔵だった。
「これは新之輔さま」
「おう、しばらく会わなかったな。丁度いい、どこか長屋を紹介してくれぬか」
「ええっ、いまの家を出られるのですか」
「それがしではない。うちに仮住まいする親子が住まうためだ」
喜久蔵はホッとしたようだ。揉み手をしながら愛想よく言った。
「ほかでもない新之輔さまのご依頼です。命にかけてお探しいたします」
べつに命にかけるほどのことでもない、と思ったが新之輔は「では、頼んだぞ」と言って別れた。

碧雲亭に戻ると、店を手伝う多七を裏庭に呼んで、話をした。
「縫の容体はどうだ」
「はい、おかげ様でだいぶ良くなりました」
「それは良かった。ところでこれを受け取ってくれ」
新之輔は懐から二十両を出した。肥後守から旅の前金として受け取ったものだ。
「こ、これは――」
「気にするな。拙者の贔屓筋から頂いたものだ。縫の療養と将来のために使え。前に縫は踊りと三味を習いたいと言っておった。それから――」
多七の手に金を押し付けながら、付け加えた。「さっき口入れ屋の喜久蔵に、長屋を探すよう頼んでおいた。適当なのがあったら、そっちに移れ」
いま縫は、二階の三畳間に寝かせていた。

嘉平は二階のやわらかい光の中で、羽織に火熨斗(ひのし)をあてていた。新之輔の旅装を整えるためだ。
明日は旅に出るというのに、平和な昼下がりだった。嘉平の穏やかな横顔を見ていると、新之輔は気持ちが和んだ。
二階の出窓は、江戸の海を見渡すように作られている。この家は、さる大名のご隠居が妾を囲うために手当てしたと聞いているが、案外、肥後守がそのご隠居ではないかと思ったりする。今は強い日差しを防ぐために、よしずを下ろしているが、風が初夏の潮の香りを届けていた。
襖を開け放っているので、三畳間の床につく縫も、日の光を楽しんでいるようだ。
新之輔は縫に声をかけた。
「どうだ、縫。休むのなら襖を閉める。遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます。でも、眠くはございません。むしろ、日差しがありがたく感じております」
縫が半身を起こして、しっとりと返事をした。ずいぶん表情が明るくなったようだ。
嘉平が着物を折り畳みながら言った。
「今夜は秋明さんが、初ガツオをご馳走してくれるそうですよ」
秋明は意外な料理の才を見せて、近頃は嘉平の代わりが務まるまでになっていた。
江戸の人間は、はしりのものを重宝する。中でも初夏に房総沖でとれるカツオは、人気が高い。新之輔は早くも腹が鳴るのを覚えた。
[21/03/20 06:13 神亀]
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