■ 血の絆/風の新之輔U - (三)
(三)
縫は旅籠の裏庭で洗濯していた。そのとき虫の音を聞き、ハッとした。
立木の陰から、なつかしい父親の声が聞こえた。
「縫、元気なようだな」
「おとっちゃん!」
縫が振り向くと、慌てた声がした。
「そのまま洗濯をつづけろ。奴らが見張ってるかも知れぬ」
「奴らって?」
「寺を襲った者どもだ」
「――」
「ようやくお前を見つけた。いいか、一緒に暮らせる家が見つかったら、必ず迎えに来る。それまで辛抱してくれ」
「おとっちゃん、これまでどこにいたの」
「あちこちだ。半死の傷を負ったわしは、山寺の和尚に助けられた。そのあと伊香保の温泉で、半年ほどかけて傷を治した。それからお前を探す道中で、まだわしらを追っている者がいるのに気づいた」
「追ってる者って誰なの」
「海滑藩の者だ」
「――そういえば、前にお侍がわたしを訪ねてきた」
「なにっ!どこの者だ」
「風間新之輔って名前の人。背の高いお侍さんだった。どこの人か知らないけど、悪い人じゃないと思う。もしわたしがおとっちゃんと出会えたら、江戸の本湊町にある蕎麦屋を尋ねて来るように言ってくれって。小さな稲荷神社の横にある店。名前も言ってたけど、難しくて忘れた」
堀昌之は碧雲亭に三日滞在したあと、海滑藩の藩邸に戻っていった。その間、新之輔は堀に対して、あえて冷然とした態度をとっていた。
あのとき――苛立たしさと嗜虐的な気持ちで、堀の衣服を引き剥いだのだが、肌を合わせた途端、すっかり五十半ばの老人に魅了されていた。
肌は沁みひとつなく、ふんわりとして、どこまでも埋没するような柔軟性があった。
老人臭もまったくなかった。
それに堀を犯していると、保科肥後守を犯しているような気分になった。
それほど二人は、よく似ていた。荒々しく手籠めにするつもりが、いつしか心を込めて犯していた。
堀昌之が碧雲亭を去ったとき、なにか大切なものを失ったような気分だった。
その日、本湊町に戻ると、碧雲亭の前で腰の曲がった老爺が、店の中を窺っていた。
入ろうかどうしようか、迷っている風に見えるが、新之輔は不審に思った。いかにも老人を装っているが、ずっと若いのではないか。
心を決めたのか、男は店の中に入っていった。新之輔もその後につづいた。
男は木台の隅っこの席にいて、お初に注文していた。お初が新之輔に気づいて、明るい笑顔で言った。
「あ、新之輔さま、お帰りなさい」
そのとき男が、すばやく新之輔のほうを見るのに気づいた。
新之輔はずかずかと歩み寄って、男の向かいの席に座った。
「お初ちゃん、蕎麦を一つ頼む」
そして男に向かって言った。「それがしに用があるようだな」
一瞬、男は逃げ出そうとしたが、浮かした腰を落とした。それでも油断なく、店の周囲に目を配っている。
「心配いらん。おぬしに危害を加える者はおらん。それがしは風間新之輔と申す。要件はなんだ」
男はおずおずと言った。
「それは、こちらが訊きたいくらいで」
新之輔は思い当たった。そこで声を潜めて訊いた。
「縫の父親、多七か?」
男がそっと頷いた。
新之輔と多七は、場所を二階に移して、話をしていた。
多七は新之輔の素性を聞いて、少し安心したようだ。実年齢は三十八歳と言う。新之輔とそう変わらない。
「――では、お伝の方に会いに来た侍は、田上半四郎に間違いないな。もう一人の侍は誰だ」
「半四郎は小沢さまと呼んでいましたが、藩の者ではないようです」
新之輔は腕を組んで、考え込んだ。
「寺の者を皆殺しにするような、惨いことをしてまで守る秘密――。二人がお伝の方と何を話していたのか、それが問題だな」
「じつは――わしはそれを聞いております」
多七がぼそぼそと話しだした。「あのとき、虫の知らせのようなものを感じて、わしは天井裏に忍び込みました」
そこで新之輔のおどろいた顔を見て、説明した。「これでも若い頃は、海滑で里の者として修業しました――。お伝の方は甥の半四郎に、首藤七十郎をよろしく頼む、と言われていました」
「首藤七十郎――首藤宗顕さまのご長男の」
新之輔は、自分が弑した宗顕の顔を思い浮かべた。
「そうです。お伝の方は最後の床で、ご自分がずっと胸に秘めていたことを、告白されました――七十郎さまが、お伝の方の実の子であることを。宗顕さまの正室綾乃さまがお子をお産みになったとき、お伝の方も宗顕さまのお子をお産みになられたのです」
多七は一呼吸置いた。
「ところが、綾乃さまがお産みになったお子は、すぐお亡くなりになった。それで宗顕さまのご指示で、お伝の方のお子を取り替えられたのです。このことは、宗顕さまとお伝の方お二人だけの秘密とされました」
多七の話が終ったところで、新之輔は肝心のことを聞いた。
「お伝の方は――ほかの秘密について、話さなかったか?」
多七は自信をもって答えた。
「わしは最初から最後まで聞いておりましたが、お伝の方が話されたのは、七十郎さまに関わることだけでした」
ではお伝の方は、首藤家宗の誕生にかかわる秘密は、胸に秘めたまま他界したのだ。
新之輔は、少し安堵する思いだった。
堀昌之と室井正俊、そしていま多七の話を聞いて、海滑藩で起きていることの全容が見えてきた。海滑藩内で起きている二つの勢力争い――。
首藤家宗を推す城代家老の長尾将左衛門と首藤七十郎を推す次席家老の早坂甚内。この二人は、豊後の海滑城にいる。
そして江戸にいる留守居役の田上半四郎は、早坂派の一人。どうやら早坂甚内と田上半四郎は、亡き首藤宗顕の薫陶を受けてきたようだ。
田上は、三十四歳の若さで留守居役をやっている切れ者で、剣の腕も立つと評判だ。
天下泰平の世の中では、留守居役の役目も変わって来た。今の主な役割は、他藩や幕府との交渉ごとで、硬軟合わせた対応が必要である。世慣れた家臣でないと務まらない。
しかし、秘密を守るため尼寺の人間を皆殺しにしたという事実を見れば、この田上半四郎という男は、相当冷徹な性格をしているようだ。
新之輔は、多七と別れるとき言った。
「おぬしの知っていることは、敵方にとって相当の脅威だ。だからおぬしは、危険にさらされている。どうだ、しばらくこの家にいないか」
「お気持ちはありがたいのですが、わしにも潜むところがございます」
「そうか。何かあったらそれがしに連絡してくれ」
「はい、ありがとうございます」
多七は碧雲亭を出て行った。
定廻り同心の杉山甚八と岡っ引きの勘三郎は、両国広小路に来ていた。夕べ殺しがあって、四十前後の男の喉に棒手裏剣が突き刺さっていた。その聞き込みである。
勘三郎は住んでいる小網町周辺を縄張りにしているが、両国の界隈にも睨みが利く。
「旦那、ここですぜ」
勘三郎は、見世物小屋の前で言った。ここには投剣芸の芸人がいる。
「おう、ごめんよ」と言いながら中に入ると、四、五人ほどがたむろしていた。その中に一人の侏儒がいた。爺面で、妙に大きな鼻をしている。
勘三郎は、その侏儒に向かって声をかけた。
「おい、小紋、ちょっと話を聞きてえんだ」
二人は侏儒を見世物小屋から連れ出して、神田川の縁に行った。
「夕べ殺しがあった。仏の喉にこれが突き刺さっていた」
勘三郎は、証拠の品を小紋に見せた。「猪牙船に乗っているところを、川べりから投げて殺したようだが、こんな芸当が出来る奴に心当たりはねえか」
「変わった棒手裏剣ですね」
小紋は手裏剣をまじまじと見た。大鼻の上で、邪気のない澄んだ瞳が、好奇心にかられて輝いている。そして言った。
「わっちの知る限り、棒手裏剣で凄腕といえる奴は、一人しかおりません」
「ほう、誰だ」
勘三郎が意気込んで聞いた。
小紋が威張って答える。
「やだな、旦那。わっちですよ」
杉山甚八を見ると、目の前の侏儒をす巻きにして、神田川にでも投げ込みそうな目つきをしている。
勘三郎は、怒りを鎮めるように、ゆっくりと訊いた。
「他には思い当たらねえか」
「そうですねえ――」
小紋はずるそうな目つきで親分を見た。
「ただとは言わない」
勘三郎が、相手の思惑に気づいて、先に言った。
「幾ら、くださるんでしょう」
「今度おめえを盗みで捕まえたら、ただで見逃してやる」
「――」
少し詰まったが、小紋は言った。「ようござんす。では教えて進ぜましょう。そんな棒手裏剣は、昔、風魔衆が使っていたと思います」