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■ 血の絆/風の新之輔�U -  (五)
(五)

燕が飛び交う季節になった。
その日、碧雲亭に柴田藤兵衛が訪ねてきた。すこし痩せたようだが、顔艶はよかった。
素朴をにじませた人当たりの良い顔、目元がすこしやつれていた。
新之輔と藤兵衛は、お互いの変化を読み取ろうとするように、しばし見合っていた。
先に口を開いたのは新之輔のほうだった。
「藤兵衛――すっかり治ったようだな」
「ああ――おぬしは以前より精悍になった。だいぶ山で修行したようだ」
「見た目よりも心のほうだ。精神的に成長したと思う」
「それにしては心遣いが足らん。江戸に戻ってきたのなら、なぜ挨拶に来ん。御前は怒られていたぞ」
「だから――これから行こうとしていたところだ」
「ほう、それはよかった。ちょうど御前がお呼びだ」
「――」

新之輔は保科肥後守正之の前で、両手をついて神妙に挨拶した。
「ながのご無沙汰を申し上げておりました。江戸に戻りましてござりまする」
肥後守はおだやかに返した。
「ふむ、元気そうだな。山の生活はどうであった」
「はっ、大自然に包まれて、身も心も清められたように思います」
「刀は帯びていないようだが、どうした」
「拙者は、あまりにも多くの人を殺めました。これからは、攻めよりも守りの剣にしようと考えております。ですから、御前にいただいた脇差があれば充分でござります」
「ふむ、いい心がけだ、と言いたいところだが、隠密働きにはちと不便だの」
新之輔は背筋を伸ばして、姿勢を正した。
「そのことでござりますが、考えるところあり、しばらく御前の隠密働きは、休ませていただきたく存じます」
肥後守はあっさりとうなずいた。
「そちが申すのであれば、仕方ないのう。では約束してくれ。そちは前の剣を、闘いの最中に折ったそうではないか。万が一、その剣が叩き直されて戻ってきたら、そのときは余のために働いてくれ」
折れた剣は、旗本屋敷に放置したままだった。それが元の形になって戻ってくることなどありえない。新之輔は内心にんまりとして、返事をした。
「承知いたしました。剣が戻りましたら、御前のために働かせていただきます」

会津上屋敷を退去したあと、和田倉御門を出て辰の口の角を曲がったところで、ひとりの侏儒にばったりと出会った。新之輔が背の高いせいもあろうが、その男はおそろしく背が低い。四尺(120センチ)ほどだろうか。
際立って大きい鷲鼻が、顔の中心にでんと構えている。爺顔だが身のこなしから見ると、実際の年齢は、ずっと若いのだろう。ふっくりと太目の身体つきをして、手足は短くて太い。目だけが邪気のない、澄んだ瞳をしている。
その侏儒は、新之輔をまったく気にかけず、さっさと前を通り過ぎて左に曲がり、八代洲川岸を歩いて行く。どことなく作られた所作が感じられる。
新之輔には、その侏儒が和田倉御門へ入るのを、方向転換したように思えた。物陰からじっと窺っていると、侏儒は立ち止まってそっと背後を見た。
(やはりそうであったか)新之輔は、これまで何度か影を見た侏儒と同一人物である、と確信した。
侏儒がこちらに引き返してきた。新之輔は物陰からさっと通りに出て、よう、と言うように手を上げた。侏儒はバツが悪そうな顔をして、歩いてきた。
「いつぞやは世話になった」
新之輔が声をかけると、侏儒は何のことだ、というような表情をした。この期に及んで惚けるとは、人を食った人物である。それに案外、新之輔好みの顔付きをしている。
新之輔は話を続けた。
「一度おぬしと、酒でも飲もうかと思うていた。拙者の住まいは、すでに知っているであろう。暇なときに尋ねてきてくれ」
「それは――身の危険を感じますので、ご遠慮させていただきます」
「ほう、拙者と会うのに、身の危険を覚えるか。なぜだ」
侏儒はずけずけと答えた。
「風の噂に聞きました。ヘソから下に人格が無いお人だと」
新之輔が呆気に取られていると、侏儒は頭を下げて、和田倉御門のほうに歩き去った。

江戸の町は掘割が縦横に巡らされ、陸上を歩くより水上を船で行くほうが楽である。
向こう岸を結ぶ渡し船、目的地まで運んでくれる猪牙舟、飲食を楽しむための屋根船があり、川沿いには船宿が数多くある。
そのひとつ、山谷堀の船宿の二階で、新之輔は老いた陰間の菊丸に会っていた。菊丸を訪ねて湯島に行くと、それならちょいと船遊びをしましょう、と山谷まで来たのだ。
「菊丸は裏情報に詳しいと聞いたが、侏儒で知っている者はおるか」
「それは何人か存じております。どういったご用です」
新之輔は、和田倉御門であった男の人相風体を話した。
「多分その男は、両国広小路の見世物小屋で投剣芸を見せている侏儒だと思います。名前は小紋」
(やはりそうか)新之輔は確信した。旗本屋敷での戦いのあと、傷ついた藤兵衛がその名を言っていた。そのとき、うっかり口を滑らせた風情だった。
芝田藤兵衛と小紋、小柴秋明、そして保科正之の繋がり――。これでは新之輔の行動は、すべて肥後守に筒抜けのはずだ。
新之輔は訊いた。
「その小紋について、もう少し教えてくれ」
「そうですね、歳は四十を過ぎたくらい。私が思うに、小紋は見世物小屋で働いていますが、その実、幕府の隠密じゃないでしょうか」
菊丸はおどけた表情をした。「これはわたしの勘。――それから一時期、芳町の陰間茶屋にいました。といっても陰間ではなく、金剛でしたが」
「金剛?」
「つまり陰間の世話係です。身の回りの世話をしたり、陰間が客に呼ばれて茶屋に出向くとき、付き人として布団を運んだりする役目です。陰間が客を取れるよう仕込むのも役目のひとつですが、小紋には無理でした。なにしろマラが大きすぎて、とても入れることなど出来なかったそうです。その当時は仁王マラの侏儒なんて呼ばれて、奥女中などに人気があったようです」
「侏儒なのに、そんなに大きいのか」
「ええ、新之輔さまといい勝負です」
「なんでその侏儒の大きさを知っているのだ」
菊丸は小さい身体をくねらせた。
「いやだな、新之輔さま。そんな無粋なことを言ってないで、さあ早く、この爺を抱いてくださいよ」

菊丸の濃密な奉仕を受けて、すっかり疲れ切って碧雲亭に戻ると、嘉平が嬉々とした顔で出てきた。
「ああ、ようやく戻られた」
よほど嬉しいことでもあったのだろう、嘉平は興奮から息を切らせていた。
「秋明さんが戻ってこられました!」
視線を転じると、奥の暗がりに小柴秋明が立っていた。いかにも旅から戻ってきたご隠居風の姿である。
「ご無沙汰いたしました。またこちらでお世話になります」
秋明は両手を膝につけて、丁寧に頭を下げた。
今や新之輔は、秋明が肥後守の手の者だと知っている。これでまた、自分の行動が御前に筒抜けになると思うと、いい気分がしなかった。
何も知らない嘉平が、無邪気に言った。
「秋明さん、またここで働いてくれるんですね。よろしくお願いします」

新之輔は二階の部屋で、秋明と話をした。
「秋明、ずいぶん長い間留守にしていたが、どこに行っていた」
「はい、あちこち旅をしておりました。最初は熱海に行って、湯治場で療養しておりました。一番遠くまで出かけたのは、出雲でした」
「なに、出雲まで行ったのか」
そこで秋明は、部屋に持ち込んでいた刀の拵え袋を手に取って、新之輔に渡した。
「どうぞ目利きをしてください」
新之輔は、拵え袋の結び紐をほどき、剣を取り出した。
黒塗りの鞘に太目の柄――剣を抜いて見た。
日本刀独特の反りを入れた形状だった。身幅はやや広く、逆に重ねは薄くして、刃通りをよくする工夫がなされている。刃紋はさざ波が如く美しく、そして鋭い光を放っている。殺気と気品を匂わせる刃だった。そして神々しくさえあった。
両膝をついた姿で、真っ直ぐに構えてみる。しっくりとくる重みがあった。表現しようのない力が湧いてくる。いかなる剣気も、易々と弾き返すような頼もしさを感じた。

新之輔は察知した。これは形こそ違え、前に持っていた剣だ。
振り返ると、秋明がうなずいた。
「折れた剣を、大和須佐之介さまが叩き直してくださいました」
(さすが須佐之介だ。見事な剣に叩き直してくれた)
精魂込めて焼き入れする須佐之介の姿が、目に浮かぶようだ。
「それから、この剣を渡すときの言伝を、須佐之介さまから預かっております」
「ほう、なんと」
「今度この剣を折ったら、ぶっ殺す――と言われました」
「いかにも須佐之介らしい。しかしこの剣の研ぎは――」
「熊野宮の円窓どのに研いでいただきました」
「なに、円窓どのは健在か」
円窓は、新之輔が世話になった永平寺の妙窓の弟である。
秋明は微妙な表情をして、静かに話しだした。
「円窓どのはだいぶ弱っておられましたが、新之輔さまの剣ならば、と快く引き受けてくださいました。一日かけてこの剣を研ぎ終えると、水を飲み、満足そうな顔で、疲れた、少し休むと言って床に就かれました。後ほど師を起こそうとしましたら、そのまま息絶えておられました」
「――」
新之輔は声を出せなかった。先ほど銀色の刀身に、神々しい気を感じたのは、死を賭して刀を研いだ円窓の思いだったのか。
新之輔は刀身を両手で捧げ持って、恭しく頭を下げた。

それにしても、秋明が折れた剣を持ってわざわざ出雲まで行き、須佐之介を探し当てて剣を打ち直してもらったこと。しかも、碓氷峠の難所にある熊野宮まで足を伸ばして、円窓に研ぎを頼んだこと。そこまでしてくれたことに感動した。
「秋明、なんでそこまでやってくれた。出雲まで出かけるなどと、並大抵なことではなかっただろうに」
「牢屋敷で助けていただいたご恩があります」
「あれはお互い様だ。それがしもおぬしに助けてもろうた。それにあの須佐之介が、只でやってくれたとは思えぬ。金もだいぶ使っただろう」
「それは、多少は――。なにしろ須佐之介さまのご家族は、十八人いるとおっしゃっていました」
前に聞いた時よりも増えている。(須佐之介の奴、相変わらず元気だな)
新之輔は言った。
「まあ、いいか。どうせ御前の出した金だろう」
秋明は特に否定もせず、何食わぬ顔をしている。
その表情が小憎らしい。
そこではたと、肥後守が言っていたことを思いだした。万が一、剣が叩き直されて戻ってきたら、そのときは余のために働いてくれ――と。
[21/10/15 09:06 神亀]
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