■ 血の絆/風の新之輔U - (三)
(三)
江戸の町に入ると、懐かしさが込み上げてきた。まず、本湊町の碧雲亭に行った。
「いらっしゃい!」
紺の暖簾をくぐると、若い娘が笑顔を浮かべ、はきはきとした声で言った。そこで新之輔の顔に気づき、「お帰りなさいませ」と言い換えた。初という名の娘だった。
前は臨時雇いだと嘉平は言っていたが、今も店で働かせているようだ。
嘉平が奥の作業場から出てきた。涙をにじませている。新之輔が、おう、と声をかけると、一瞬顔をくしゃっとして抱きつこうとしたが、客がいる手前、ぐっと我慢した。
「お帰りなさいませ。もう一年半ぶりですよ」
嘉平は何か言いたそうだったが、新之輔はあっさりと言った。
「積もる話は夜にしよう。秋明は出かけているのか」
「ああ、秋明さんは半年ほど前、ここを出ました。怪我が治ったあと、しばらく店の仕事を手伝ってくれていましたが、あの世に行く前に旅をしたいとか――」
そこで嘉平は、娘に声をかけた。「お初、新之輔さまにお茶を入れてくれ」
嘉平の出す細切り蕎麦の人気が出たのか、店は結構繁盛していた。新之輔はしばらく店にいたあと外に出た。腰には、以前、肥後守から拝領した脇差を帯びていた。
船場亭に行くと、ちょうど杉山甚八が来ていて、勘三郎と酒を飲んでいた。
「おう、新之輔。しばらく見ぬ間に顔が締まって、鋭さが増したな」
「それになんだか、仙人のように浮世離れして見えます」
「ああ、神々しさがある」
「近寄りがたいですね」
矢継ぎ早に言う甚八と勘三郎に、新之輔はあきれ返った。
「久しぶりに会った挨拶がそれか。まあ二人して、からかってろ」
新之輔に酒を注いでやりながら、甚八が言った。
「おぬしはすっきりした顔をしているが、こっちはくすぶり続けだ」
「ほう、くすぶる理由があるのか」
新之輔が言うと、甚八は周りを見て声を潜ませた。
「例の事件だ。肝心の黒幕がまだ残っている。おぬしが盗賊どもを一人残らずぶっ殺したおかげで、手掛かりがまったく無くなった」
「それはすまぬことをした。盗まれた金は見つかったのか」
「まだ見つかっていない。千両箱で二十個以上あるのだ。運ぶとなると、人の目につきやすいと思うが」
三人から少し離れた席で、一人の老武士が酒を飲みながら、新之輔たちの様子をそれとなく窺っていた。髪に霜を置き、六十年配と見えた。
次の日、新之輔は板橋宿まで足を伸ばした。秩父の山で重吉に聞いた、縫という娘を探すためだ。手がかりは、十八ぐらいの歳で縫という名前、それに寺の名前は分からぬが秩父の尼寺にいた、というだけである。
土地の庄屋に聞いて、いくつか該当しそうな農家を一軒一軒尋ねた。八軒目で縫の伯父にあたる農家を尋ね当てた。しかし、そこに縫はいなかった。
「縫はここに来たけど、すぐ出て行った。踊りと三味を習いたいと言っていたが、それは無理だべ。どこぞの旅籠で、飯盛女でもやっているのではねえか。女が一人で生きていくのは、それしかないからの」
真っ黒に日焼けした男は、農作業をつづけながら言った。
江戸に行けば仕事がある。地方であぶれた者や百姓の次男三男が、一旗揚げようと集まってくる。浪人者もそうだ。すべての大名が集まる江戸に行けば、仕官の口があるのではないかと期待するのだ。
これらすべては、男たちである。
男がいれば、女が要る。しかし江戸には女が少なく、男の半分もいない。性欲を発散させられない男が多い。そんな男たちのために、遊郭があった。
しかし遊郭はただひとつ、吉原である。
そこで町奉行の支配を受けない、品川や板橋、千住などに岡場所が出来た。そこは宿場町である。表立って遊郭とすれば代官所の手前、まずい。そこで旅籠の飯盛女という体裁をとって、女に客をとらせた。それが大いに当たり、これらの旅籠は、江戸から遊びに来る男たちで賑わった。
板橋宿にある旅籠屋を端からあたって、ようやく縫のいる旅籠にたどり着いた。
新之輔は部屋を取って酒を頼むと、縫を名指しで呼んだ。
やって来た女は、重吉の話から十八ぐらいの歳のはずだが、それ以上に老けて見えた。よほど苦労したのだろう。それでも涼やかな目元に、初々しい名残はある。
「秩父の山に住まう、重吉という爺を知っているか」
縫はハッとした顔をしたが、素直にうなずいた。新之輔は縫に、一朱金を渡した。
「今日は遊びに来たのではない。お前の話を聞きに来た」
気持ちをほぐすために、女にも酒を飲ませた。それからおもむろに話をした。
「おまえは尼寺にいたらしいが、寺の名前は何という」
「へえ、慈安院っていいます」
「お前が仕えていた尼は、海滑藩の奥女中をつとめたお伝の方か」
縫は警戒するような目で新之輔を見た。
「心配するな。それがしは風間新之輔と申す。寺を襲った賊どもの仲間ではない。お伝の方は海滑藩にいたお方だな?」
「へえ」
女はおずおずと返事をした。どうやら新之輔を信用したみたいだ。
「寺を襲った賊で、なにか思い当たることはないか」
「とくにございません。お伝の方さまが亡くなられた次の夜、いきなり襲ってきて――」その時のことを思いだしたのか、縫はブルッと身を震わせた。
「賊はどんな格好をしていた」
「全身、濃い柿渋茶色の服を着ていました。それに、見るからに恐ろしげな顔をしていました」
以前、新之輔を襲った三人の男たちも、同じような色の服装だった。新之輔は、質問を続けた。
「何人いた」
「さあ、良くは分かりませんが。十人くらいはいたと――」
新之輔は、女に空いた杯を渡して、酒を注いでやった。
「お伝の方の最後を看取ったのは誰だ」
「お医者さまとわたしがいました。それにお侍が二人――」
「なにっ、侍がいたのか。名前は分かるか?」
縫は少し考えて、首を振った。
「おとっちゃんなら知ってたと思うけど――行方が分からなくて」
女の顔がゆがんだと思うと、涙をにじませた。
「お前の父親は、海滑の出身だと申していたな。名はなんと申す」
「多七です。おとっちゃんは、お伝の方さまの具合が悪くなったんで、江戸に知らせに行ったんです。そしたら二人のお侍が来ました」
新之輔は考え込んだ。
多七は江戸の海滑藩に、知らせに行ったのだろう。でもなんで、お伝の方が亡くなったあと、寺の者が全員殺されたのだろう。考えられるとしたら、口封じしかない。
では、何が漏れるのを恐れたのだろうか。
新之輔は縫に訊いた。
「二人の侍は、お伝の方から何か聞いていたか」
「へえ、お侍たちは人払いして、しばらくお伝の方といましたから、そのとき話をしたと思います。でも内容は、まったく分かりません」
そこで縫は、ふと思い出したように言った。「そういえば、お侍の一人はお伝の方のことを、叔母上と呼んでいました」
新之輔は、縫にもう一枚、一朱金を渡して言った。
「もしお前の父親と会うようなことがあったら、それがしを尋ねるよう言ってくれ。江戸本湊町の碧雲亭という蕎麦屋にいる。小さな稲荷神社の横だ」
碧雲亭に戻った夜、新之輔は嘉平を抱いた。
久しぶりだったので、いつもは慎ましい嘉平は、乱れに乱れた。新之輔の身体の下で、声を出して泣いた。
嘉平が落ち着きを取り戻して、眠りについたあと、新之輔は縫に聞いた話を、思い返していた。お伝の方に関わるあの秘事は、今も鮮明に覚えている。
「できませぬ。お上は、拙者が女を抱けぬこと、ご存じのはず」
「相手の顔も見えぬ闇の中だ。爺の顔を思い浮かべて、やれば良いではないか」
「それでも――できませぬ」
「たわけ者!海滑藩のためだ。死ぬ覚悟でやれっ!」
――首藤宗定の声が蘇る。信じられないような命令。お上の長子である頼宗の正室、孝子と交わって懐妊させろと言うのだ。
お上は「頼む」と頭を下げ、新之輔は断り切れなかった。
あの夜、お伝の方は新之輔に薬を飲ませた。
最初は何とも感じなかったが、しばらくすると身体の芯が熱くなり、下腹部に力が漲ってきた。下帯が突っ張って、歩きづらかったのを覚えている。
そしてあのとき――闇の中で横たわる、頼宗の正室孝子の寝姿。新之輔は、お伝の方に導かれるまま、孝子に覆いかぶさった。孝子は薬でも飲まされているのか、死んだように眠ったままだった。
新之輔は恐怖にがくがくと震えていた。母者や姉者の悲鳴が聞こえてくる。
それでも彼のヘノコは、かつてなかったほど硬く隆起していた。
「さあ、お入れなさい」
お伝の方がうながした。
新之輔は目をしっかりと閉じ、湿った裂け目にあてがった。
腰を押し付けると、ふいに雁首が熱い滑りに覆われた――。
押しよせる過去の恐怖を封じ込めようと、必死で爺を思い浮かべた。
(――爺)
爺の温顔が浮かんでくる。ヘノコが熱いぬめりに呑み込まれた。
新之輔は息詰まる衝動に駆られて、激しく腰をうねらせた。
(爺――爺――)
噴気が募ってくる。高く、高く――ふいに身体がビクンと揺れ、男の生命(たね)が弾け飛んだ。