■ 血の絆/風の新之輔U - (二)
(二)
山に入って一年以上が経過した。
巡り巡って季節は冬。相変わらず寒かったが、少しずつ和らいできている。木の枝に降り積もった雪が、時折音を立てて落ちた。
山のそこかしこで、冬の終わる兆しが現れ始めた。木々の周りの雪が解け、雪解けの水が流れる。そしてほどなく、草木が一斉に芽吹くだろう。
新之輔は山刀を腰に帯び、手造りの弓を持って山を登った。
雪が積もった斜面の下方に一匹のキツネがいた。色褪せた毛並みからすると、年老いたキツネのようだ。それに右の後ろ足を痛めているのか、少し足を引きずっている。
――そのとき目を感じた。
自分に向けられたものではない。
見渡すと、白一色の中でそれを見つけた。雪をかぶった茂みの下に、つがいらしい二匹の山犬がいた。獰猛な山犬に狙われれば、老いたキツネの命は風前の灯火だった。
素早く動くものを狙うとき、二つの方法がある。一つは、相手の動きより速い攻撃をする。もう一つは、相手の動く先を狙って攻撃する。
山犬が飛び出したとき、新之輔はとっさに弓矢を放った。矢は山犬の顔を擦り、反れて後続の山犬の腹に突き立った。
先頭の山犬が足を止めて、新之輔の方をまっすぐに見た。右目のあたりに血が滲み出ている。矢が擦った傷だ。
わずかな時が流れた。次いでその山犬は、倒れた連れの様子を見るように鼻で嗅いだ。斜面の下では、キツネが物音に気付いて逃げ去っていた。
新之輔はそっと背後の林に身を引いた。
草庵に戻る途中、何かが走る気配を感じた。足音からして、群れを成しているようだ。先ほど傷を負わせた山犬の仲間なら、事態は深刻だ。
新之輔は、万一山犬に遭遇した場合を想定して、山の数か所に避難場所を用意していた。ここからだと右手の山の端の崖だ。そこは小高い岩地になっていて、枝を削った木槍を十本ほど用意してある。
新之輔は山刀を握りしめると、地を蹴った。
背後に獣の息遣いを覚えた。振り向きざま、山刀を横に薙いだ。飛びかかろうと宙に浮いた山犬の腹を裂いた。
ついに崖の縁に出た。
真下に白い水煙の立つ滝壺が見えた。水面まで相当の高さがある。
端に並べた木槍の上に、雪が積もっていた。雪を払い、木槍を手にした。
不気味な唸り声をあげ、山犬の群れが新之輔を取り囲んだ。十数頭はいる。山犬は牙をむき、距離を縮めてきた。
新之輔は山刀を左手に、右手は木槍を構えて攻撃に備えた。
顔に傷がある山犬がそろりと前に出て、前脚をすくめた。山犬の頭のようだ。
山犬が宙に飛んだ瞬間を捉えて、右の木槍を投げた。木槍は、山犬の開けた口を貫き通した。他の山犬たちが一斉に迫った。
選択する余地はない。新之輔の身体が背後の虚空に躍り出た。空中でふと、海滑城から海に飛び込んだ記憶が蘇った。
新之輔は浅い水に浮いて、意識もうろうとしていた。額を岩にぶつけたのか、頭が割れるように痛い。
――?何かがいる気配を感じた。
闇のかなたから、白いぼうっとしたものが近づいてきた。身体が水から河原に引き上げられるのを感じた。手足は痺れたように動かない。
何かが、額やわき腹の傷ついたところを舐めている。その気持ちのよさに、身体中の力を抜いた。頬に呼気を感じた。そっと目を開けると、初老男の顔が間近にあった。細面の優し気な顔をしている。
新之輔は何か言おうとしたが、声が出なかった。意識が遠のいていく――。
次に目覚めたとき、野草が敷き詰められた床に寝ていた。山中に設けられた、草庵のようだ。そのとき、老人らしい男の声がした。
「ようやく目が覚められたか」
よく日に焼けた老爺がいた。皺だらけの顔の中で、細い素朴な目がこちらを見ている。
小柄な体を包む服装から、山の者と分かる。
老爺は言った。
「起きることが出来るのなら、起きて飯を食べればよい。粥を用意している」
起き上がろうとしたが、わき腹と右太ももに激痛がして、低く呻いた。
「まだ無理なようじゃな。どれ――」
老爺は、新之輔の身体を支えて、上半身を起こさせた。それから手作りの木の台を持ってきて、それに新之輔を腰掛けさせた。
「わしは重吉じゃ。一人渡りの山の者だ」
重吉は、木の椀に粥を装って、新之輔に渡しながら言った。一人渡りは、山の仲間たちに追放されて、一人で生活する山の者だ。
「風間新之輔と申す。助けていただいて、かたじけない」
「なあに、あんたを助けたのはキツネだべ」
重吉が言うに、夕べ、沢伝いに狐火が並んでいた。次の朝、狐火が並んでいた先を調べると、新之輔が倒れていた、と言うのだ。
重吉の話を聞いていて、夕べ夢うつつに見た初老男の顔を思い出した。細面で優しげな眼をしていた。
「キツネは、人に化けることがあるのだろうか?」
「そらあ、ありますよ。それでよく人が化かされる」
「昨日、細面の優しそうな爺さんを見た」
「そうですか。ふつう、キツネというのは女に化けるものだべ」
「――」
「それで、キツネが化けた女と一晩寝たりすると、ひどいことになる」
「どうなるのだ」
「あまりの色っぽさに、骨抜きにされる」
重吉はいたずらっぽく笑った。「キツネは人の心を読み取る力がある。そんで、相手の好む人間に化けると言います。先ほどあんたは爺さんの顔を見たと言うたが、なんぞ訳があるんだべ」
新之輔は苦笑した。隠す理由もないので正直に言った。
「拙者は小さいとき、目の前で母者と姉が暴漢どもに犯され、殺されるのを見た。それが心の傷となって、爺さんしか抱けぬのだ」
重吉は、新之輔の傷口を水で洗い、蓬のしぼり汁を含ませた晒しで巻いた。熱を下げるため、薬草も煎じてくれた。あとは粥を食べ、体力が治してくれるのを待つだけだ。
重吉はひとり生活で、よほど人恋しいのか、新之輔に向かってよく話をした。
「二年ほど前、一人の小娘が河原に流れ着いておった。ちょうどあんたと同じような状態じゃった。流れに着物を脱がされたか、裸同然の姿でな。わしは草庵に連れ帰って、娘が元気になるまで世話をしてやった」
重吉は股座を掻いた。「これがまた、キツネが化けたかと思うほどの器量良しでの。十六と言うておったが、うぶな中にも男を狂わす何かがあった。それでわしは――」
ふたたび股座を掻いた。「――その小娘を犯した」
重吉は照れ臭そうに笑った。
「六十過ぎの爺さんが、餓鬼のようにマラをおっ立ててな。――娘は縫と言った。山寺で尼さんの世話係をしていたが、その尼さんが死んだ。次の夜、恐ろしげな男たちが大勢やって来て、寺の者を皆殺しにした。縫は大怪我を負った父親に助けられて、かろうじて逃げ延びた。父親とは離れ離れになって、どうなったか心配だ。――そんなことを話していたな」
「それは不運なことだ。して、寺の名は」
新之輔が訊くと、重吉は首をひねった。
「さあ、それは聞いておらぬが。確か父親は、豊後の国、海滑の出身と言っていたが」
「何っ、海滑。して父親の名前は?」
「それも聞いてない。――お伝――そうだ、尼さんの名前はお伝の方と言っていた」
「お伝の方――」
新之輔は考え込んだ。新之輔の知っているお伝の方は、海滑藩の奥女中で正室孝子の世話係だった。(しかし、そんな偶然が――)新之輔は重吉に訊いた。
「その娘、縫はどこに行ったのだ?」
「板橋に行くと言っていた。母親の里が板橋にあって、百姓をやっているそうだ」
新之輔が歩けるようになると、重吉は、新之輔を連れて川を下った。流れのすぐ横に、岩で囲まれた湯だまりがあった。その上に、雨露をしのぐ簡単な草庵が組まれていた。湯だまりには、竹樋から清澄な湯が、とうとうと流れ込んでいた。
新之輔は裸になると、湯にどっぷりと身を沈め、吐息をもらした。山籠もりで蓄積された疲労が、毛穴の隅々から抜け出ていくようだった。
一方、重吉は、新之輔の裸を見て畏敬の念に打たれていた。筋肉がよく発達して、まるで彫像のような肢体だった。神々しくさえ見えた。しかも股間には、禍々しいほど雁首の発達した、男の道具がぶら下がっている。
重吉が猪の肉を持ち帰った。必要な肉を切り、死骸は置いてきたと言う。あとは山犬がきれいに片づけてくれるだろう。
肉の臭みを消すため、味噌を湯に溶かし込み、摘んできた香草も入れた。ほどなく肉の旨そうな匂いがしてきた。二人は物も言わず、ご馳走にありついた。山の生活で、肉は貴重な栄養源だった。とくに猪の肉は精がつく。それが新之輔の肉体に現れた。へのこが生い立って、下帯の布を内側から押し上げた。
それを目にして、重吉が言った。
「若いだけに元気がいいのう」
そして思わぬことを言った。「尻で受けることはできぬが、口でしゃぶってあげよう」
面映ゆい思いがしたが、新之輔は重吉の申し出を受けた。
温かく湿った、滑らかな感触に包まれて、久しぶりに覚える衆道の味だった。ほどなく新之輔は、溜まった精を思い切り吐き出した。
重吉は、石には目があると言う。石の気が集まったところ、人間で言えば丹田にあたるところだが、そこを叩けば簡単に割ることができる。触るとほんの少し熱気がある、そこが石の目だという。
そして実際にやってみた。一斗樽ほどの大きさの岩を、鉈の峰で叩いた。岩の周囲に線が走り、真っ二つに割れた。
新之輔も試しにやってみた。破片が砕けて、手がしびれただけだった。
「石の気が集まったところを、読み取るんだ。ほら、ここだ」
重吉は、岩の表面の何の変哲もないところを指さす。そこを鉈の峰で叩くと、簡単に二つに割れた。
新之輔は、体力を取り戻すためもあって、毎日、石に向き合って鉈を振るった。石の目を読み取ることは、容易ではない。重吉は石工に教わり、何年も費やして技を会得したという。
石に向き合って十日ほど経ったとき、新之輔はついに石を二つに割った。石の目を読み取るのは、感覚的なものだった。石の表面の模様を見るのではなく、石の全体的な形を見て、石の気を感じ取るのだ。
それはちょうど、樹木の気を体内に取り入れる感覚に似ていた。
その後、新之輔がなんなく石を割るのを見て、それまでは優越感を見せていた重吉の目が、驚いた表情に変わった。
雪解け水で、水量は豊富になった。澄み切った水が陽光をきらめかせていた。水底ではすすーっと動く魚の姿があった。
傷は塞がれ、体力もついた。
新之輔は下帯を解くと、川で泳いだ。素っ裸だと爽快感がまるで違う。抜き手を切って四半刻ほど泳いで、河原にあがった。
新之輔は己の心に問うた。ここは人間より、山の動物が主役の領域だ。季節によって、さまざまに変化する。苛烈で荒涼とした世界が続いたあと、生命にあふれる豊かな緑の世界がやってくる。
この世界は、新之輔のすさんだ心を消し去り、新たな活力を生み出してくれた。そろそろ人間世界に戻るときだ。江戸の町――そこには新之輔が交わった、人々がいる。嘉平や秋明、勘三郎たち、それに肥後守や藤兵衛――。
新之輔は山を下りることに決めた。
(これでまた、一人だな)
風間新之輔が去ったあと、重吉はため息をついた。一人きりで過ごすのは慣れている。誰とも口を利かず、笑うことも泣くこともない。過ぎていく時に身を任せていると、心から感情が奪われていくような気がする。
手元には、新之輔が置いていった山刀だけが残っている。逞しくて素朴な男だった。別れたばかりなのに、新之輔のことを思うと、泣きたくなるような懐かしさを覚える。
いつしか重吉は、声に出して泣いていた。