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血の絆/風の新之輔U


(在りし日)
寛永四年(1627年)五月五日、豊後の国、海滑藩士風間佳右衛門の屋敷では、端午の節供の飾りつけをして、長子の誕生日祝をしていた。邪気払いに菖蒲で屋敷の門を飾り、幟指物や吹き流しを高く掲げている。
昨夜から泊りがけで来ている海滑藩主首藤宗定は、目を細めて、元気によちよち歩きする幼児の相手をしていた。その横には、風間佳右衛門の妻、志津がしっとりと侍っている。用人は誰もいず、いかにものどかで、幸せそうな雰囲気がただよっていた。
部屋の外から声が掛かった。「殿、失礼いたします」
風間佳右衛門が七歳ほどの女子を伴って、部屋に入ってきた。女子は正座すると、両手を畳について丁寧にお辞儀をした。
「志乃でござります。この度は当家にお越しいただき、ありがとうございます」
女子のませた物言いに、宗定は相好を崩した。
「おう、志乃も大きくなったのう。母親に似て美人だわい」
そこで志津のほうを見て言った。「ちと佳右衛門と話がある。お前たちはゆっくりとしておれ」

首藤宗定と風間佳右衛門は、庭先の池のほとりに来ていた。
「この先、男子が生まれなければ、余の落胤として表に出さねばならぬ」
「御意――」
主君の言葉に、佳右衛門は言葉少なに返した。
宗定は多少自嘲気味に言った。
「そうなると、さぞかし須摩が騒ぎ立てるであろうな」
首藤宗定の正室須摩姫が、身籠っているときだった。生まれてくる子供が男であれば問題ないが、また女だったら真剣に考えなければならないことだった。
須摩姫は宮家の出で位も高く、嫉妬深い女だった。そのお陰で宗定は、側室を置いていなかった。須摩姫との間ですでに子供は二人いるが、いずれも娘だった。
十年ほど前、宗定は奥女中のひとりを見初めて、密かに情を交わしていた。その女が志津だった。その志津が宗定の子を身籠った。
須摩姫の嫉妬心の深さを知る宗定は、生まれてくる子の生命の危険を感じた。
宗定は女色だけでなく衆道も好んだ。そこで男色関係にある近習の風間佳右衛門を言い含めて、志津と婚姻させることにした。
以来、志津は佳右衛門と夫婦の契りを結ぶ傍ら、ときどき風間邸を訪れる宗定にも抱かれてきた。小柄で穏和な佳右衛門には子種が無かった。結果、風間家の二人の子供、志乃と新之輔は、宗定の血を継いでいたのである。
※徳川家光が、武家諸法度で大名の参勤交代制を定めたのは、寛永12年(1635年)であり、当時は江戸勤めがなかった。