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残影/風の新之輔U -  (三)
(三)

新之輔は芝の小料理屋で、肥後守に会っていた。
「日光社参では、ご苦労であった――」
肥後守は礼を言った。それから藤兵衛に「二十両ほど渡せ」と言った。
すかさず藤兵衛が言った。
「恐れながら、十両でよろしいかと」
「ほう、それは――」と肥後守。
「諸物価の高い江戸でも、一日二分も払えば破格の賃金と思われます。ましてや、宿代その他経費はすべてこちらで負担してござります。今回は八日分として四両、宇都宮宿での働きに六両、合わせて十両でございます。これでも破格の手間賃と思われます」
(藤兵衛の奴、余計なことを言いおって。それにずいぶん細かい――)
新之輔は内心舌打ちしたが、黙っていた。
肥後守が鷹揚にうなずいた。
「おう、そうであるか。では十両としよう」
新之輔はぶすっとして頭を下げた。
そのあと酒と料理に手を付けた。
まつたけとしめじ料理、菊の花の吸い物、イカの刺身と焼きさば――。秋の味覚を堪能して、新之輔は少し機嫌を直した。

町医者の小壺芳美は、嘉平と秋明が新たに始めた蕎麦屋で晩飯を食べたあと、弥助と連れたって八丁堀の家に向かっていた。
弥助が話しかけた。
「先生、新之輔さまがお戻りになるまで、待たなくて良かったのですか」
「お前は、いらん気を遣わなくてもいい。今宵、新之輔さまは、芝のお殿さまに会われている」
芳美と新之輔の間では、保科正之は芝の殿さまということにしていた。
弥助は、色白上品な顔と、福々しい身体をしている。そんな小者が、童のように可愛らしい小さな医師に付き従う姿は、通りすがりの人間から見れば奇異にも見える。
家の前で伊勢屋の番頭、松右衛門が待っていた。
「松右衛門さん、何かご用ですか」
芳美が訊くと、松右衛門が揉み手をして答えた。
「ああ、やっと戻られた。実は旦那さまが、脚が痛くてどうしようもない、と言われるので、取り急ぎ参ったところです。もう遅い時刻ですが、どうか旦那さまを助けてやってくれませぬか」
札差の伊勢屋は、あるじの弥太郎が死罪になったあと、奉行所の恩情によって息子の梅吉が跡を継いで商売を続けていた。梅吉は若いのに脚のしびれやむくみを訴え、芳美はそれを診立ててやっているのだ。
いわゆる江戸患い(今でいう脚気)と呼ばれているものである。町医者たちは、江戸独特の風土が奇病を生んでいると見ているが、芳美は違う考えを持っていた。江戸の人間が、白米ばかり食べているから罹る病気ではないか、と思っていた。その証拠に、稗や麦を食べる近在の百姓たちに、江戸患いはない。
「だから、稗や粟、麦なども食せば直る、と言っているのに――」
芳美はつぶやいて、弥助に向かって言った。「弥助、わたしはこれから、松右衛門さんと出かける。お前は家で休みなさい」

伊勢屋の前に行くと、松右衛門は頭を下げた。
「では、手前はここで失礼します」
「おや、お店には行かないのかい」
「はい、仕事は終わりましたので、長屋に戻ります」
松右衛門が歩き去るのを見送って、芳美は店に入っていった。
あるじの梅吉が出てきて、芳美の顔を見て驚いた。
「あれ、先生。今夜はなにかご用ですか?」
「えっ、梅吉さんが、お呼びになったのではないの――」
芳美は、キツネにつままれたような気分だった。
そのとき、芳美の背後を見て、梅吉がはっと息をのんだ。頬被りした男たちが、ずかずかと店に入ってきたのだ。

その夜、江戸の街で火の手があがった。それも位置を変えて、次から次に、火の手があがって行く。明らかに付け火と思われるものだった。
物見台の半鐘が、けたたましく鳴りだした。街の住民が着の身着のままで、表に出てくる。悲鳴や泣き声、呼びかう声が溢れた。
「どけどけ、どけーっ!」
町火消たちが、ものすごい勢いで通りを突っ走る。
大きな風呂敷包みを背中に、逃げ惑う者。子供を背負って荷車を引いた家族連れ。ただ、うろうろとさまよう老人。通りは人であふれかえった。

銀座にある両替商の出雲屋では、店の全員が証文や帳簿類、金貨銀貨を納めた金箱などを裏の土蔵に運んでいた。
「土蔵の中は火を寄せ付けない!はやくしろっ!」
出雲屋のあるじ吉兵衛が、手代たちを必死で急き立てている。
そのとき表のくぐり戸が開き、頬被りした男たちが入ってきた。全部で十五、六人いた。いずれも縞の半着に腰ひもを巻き、股引きに脚絆――人足風体だった。怪しいのは、腰に一本差しである。
先頭にいる、がっちりした体格の男が刀を抜いて、野太い声で言った。
「命が惜しくば、一か所に集まれ!」

火事騒動が収まるに二日かかった。
その間に、二つの大事件が起こっていた。
札差の伊勢屋と両替商の出雲屋に、賊が押し入り、蔵の千両箱をすべて盗み出しただけでなく、店にいるもの全員を殺したのである。
とくに出雲屋の殺しは陰惨だった。店の者を蔵に押し込めて、油をまいたあと火をつけたのだ。蔵に閉じ込められた者たちが死に至るまで、阿鼻叫喚の地獄だっただろう。

「当夜、各地で火が上がったのは、賊どもの仕業と見ていいだろう。伊勢屋と出雲屋で行われた強殺盗難から目を逸らすためだ。これを見るに、賊どもは組織だった動きをしている。それに以前から入念な計画を立てていたようだ。火付盗賊改でも捜査に乗り出しているが、いいか、我が方も面子にかけて賊どもを追い詰めよ」
月番だった南町奉行所では、与力や同心全員を集めて、奉行の鈴木泰然が檄を飛ばした。そのあと町方が、それぞれの任務を果たすため、江戸の街に散っていった。

与力の寺内頼母は、手の者の同心たちに指示を出したあと、杉山甚八だけを残した。
頼母が思案顔で言った。
「どうもこの度の事件は、慶安の変を思い起こさせる」
慶安四年に由井正雪や丸橋忠弥が企てた事件である。計画では浪人者を集めて、江戸市中に火を放ち、騒動に紛れて幕府を転覆させようとした。しかし実際には、仲間内の密告により、計画は事前に露見して事なきを得た。
「火を放って、どさくさに紛れて金を盗む手口は、慶安の変を真似したものと思える。それに、動いたのは浪人者とみた――」
頼母は考え事を口に出して言って、話題を変えた。
「医師の小壺芳美が、伊勢屋で殺されていた。新之輔はこのことを知っているのか」
甚八は答えた。
「ええ、勘三郎が知らせに行きました。新之輔はかなり動揺していたようです」
「芳美は偶然居合わせたのだろうが、不運なことだ」
「それについてですが、おかしなことがありました」
「どういうことだ」
「芳美のもとにいた小者の弥助が言うに、あの夜、伊勢屋の番頭松右衛門がやって来て、主人の梅吉が脚の病で苦しんでいる、と芳美を店に連れて行ったそうです」
甚八は、ひと呼吸置いた。「ところが、伊勢屋で殺された中に、松右衛門だけの死体がなかったのです」
「――ということは、松右衛門は賊の手先ということも考えられるな」
「はい。今、岡っ引きたちを使って、伊勢屋を中心とした、周辺の聞き込みをやらせています。松右衛門の行方や経歴も調査中です」
寺内頼母は腕組みした。
「松右衛門が賊の手先となると、出雲屋にも手先がおったと考えたほうがいい。そちらを担当している垣内どのにも言っておこう。それにしても――」
頼母は首を傾げた。「賊は、なにか芳美も一緒に殺さなければならぬ理由が、あったのだろうか――」

岡っ引きの勘三郎は、手下の元八を連れて、賊に襲われた伊勢屋の周辺の聞き込みをしていた。
伊勢屋の向かいの油問屋の前に、男が二人いた。吉野屋の番頭吉蔵と、蕎麦屋の碧雲亭を手伝っている秋明とかいうご隠居だ。おおかた、皆殺しにされた伊勢屋のうわさでも、しているのだろう。
勘三郎が近づいていくと、二人が頭を下げた。
「親分さん、この度は大変なことが起きちまって――」
吉蔵が声をかけて、勘三郎はうなずいた。
「おう、そのことよ。おめえのとこは、伊勢屋の真ん前だ。伊勢屋が襲われた前後、なにか変わったことはなかったか。普段見かけねえ顔を見たとか――」
「さあ、それは――」
吉蔵は首を傾げたところで、何かに気を取られた「おや、あのお侍は」
ちょうど三人の若い侍が、伊勢屋の前を通り過ぎるところだった。勘三郎は先頭を歩く侍を知っていた。旗本奴の水木剛太夫だ。
血の気の多い旗本が、派手な服装をして徒党を組み、無頼を働いていた。大きな髷に髭を伸ばし、鎖帷子を着込んで、大通りを闊歩する。これを旗本奴と呼んでいた。
「あの侍がどうした?」
勘三郎が訊くと、吉蔵が確信ある口ぶりで言った。
「伊勢屋さんのところが襲われる前の昼間、あの三人のお侍を見かけました」
即座に勘三郎は、下っぴきに言った。
「元八、念のためにあの侍たちがどこに行くのか、後をつけてくれ。いいか、絶対に無理をするなよ」
「へい」
一声返事をして、元八が歩き去った。
そばにいた秋明が、天水桶の横からこちらを見る人影に気づいた。秋明が微かにうなずくと、人影がすっと消えた。

(畜生、どこまで行くんだ)
元八は三人の侍たちの後をつけながら、舌打ちした。三人は浅草御門の内に入ると、右折して柳原通りを神田川沿いに歩き、途中で南下して三河町辺りに出た。そこから外堀通りを西に歩き出した。
男たちは揃って胸元を広げ、肩で風を切って歩く。若い女を見かけると、冷やかしの声をかけ、下卑た高笑いをする。
親分は絶対に無理をするなと言ったが、言われるまでもなく元八は、近づいて危険を冒すつもりはなかった。とくに真ん中を歩いている奴、肉太の大柄な身体と気難しそうな顔をした侍は、見ているだけでも怖かった。
とうとう俎板橋を渡り、元飯田町までやってきた。侍たちは町を通り越し、九段坂の上の方に歩いて行く。
角を曲がったところで元八は、男たちを見失った。慌てて次の角まで走ると、ふいに侍が現れた。いつの間にか、背後にも男がいる。
髭を生やした大柄な侍が刀を抜いた。
「ネズミが一匹、引っ掛かったか。ちょこまかと小うるさい奴め」
元八は逃げようとした。しかしそれよりも速く、右の首に激痛が走った。
[21/02/18 06:15 神亀]
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