■ 残影/風の新之輔U - 第三章 慶安の影
「肥後守と子龍が、そろって日光社参する。占筮(筮竹で占うこと)で好機と出た。幕府を揺さぶるいい機会だ、二人を血祭りにあげよ」
「しかし、相当数の警固の者が付いているのでは――」
「大名行列ではない。せいぜい付いて、侍十数人と聞く」
「出雲屋のほうはいつ動きますか」
「神無月に入ってやる。肥後守たちを葬ったあとだ」
浅草花川戸の小さな船宿で、二人の男が密会していた。店の老夫婦は、二人の客に酒とつまみを用意したあと、のれんを仕舞って店を閉めた。
客の一人は白髪細面、六十半ばほどの老爺である。京の陰陽師、土御門通斎と名乗っているが、本家との繋がりは不明である。
もう一人は笹井宝山、通斎より一足早く江戸に来ていた。
密談は四半刻で終わった。通斎は江戸の隠れ家としている船宿に残り、宝山は桟橋から猪牙船に乗って立ち去った。
笹井宝山は竹内惣九郎の旗本屋敷に戻り、奥の一軒家に向かった。藪で鳴いていた虫が、いっせいに鳴きやんだ。
部屋にいた修験者の一人が宝山に気づいて、立ち上がった。
「客人二人が奥の部屋でお待ちです」
宝山は、うむと頷いて奥に行った。
部屋には、徒目付の小沢直作ともう一人の侍が酒を飲んでいた。
「だいぶお待たせしたようだな」
「なあに構わん、酒を馳走してもらった」
小沢は言って、一緒にいる男を紹介した。「柳生左馬之助だ。名前の通り、柳生新陰流を遣う」
左馬之助が軽くうなずいた。年の頃三十くらい、体格のよい目つきの鋭い男だった。
「ほう、柳生の家の者か」
宝山が言うと、左馬之助が初めて口をきいた。
「遠い血筋でござる。柳生家のはぐれ者だが、腕は一番と自負している」
挨拶もそこそこに、小沢が本題に入った。
「与力の小西半四郎は左馬之助が斬った。これで町方の筋は絶った」
宝山が小沢をじろりと見た。
「もう一人の同心は、浪人者に斬られたそうじゃないか」
小沢は少し驚いたようだ。
「よく知っていたな。その浪人者は、風間新之輔という男だ。八丁堀の町医者と繋がりがあるまでは分かっている。心配ない、手は打ってある」
宝山はうなずいた。
「ふむ、それで伊勢屋のほうはどうだ」
「牢にいる弥太郎は死罪になるだろう。念のため、店の者たちも始末するつもりだ。蔵にはまだ六千両ほど残っているので、それもいただく。それより――」
小沢は声を潜めた。「出雲屋はいつやる?」
「十月だ。導師は、その前に肥後守と子龍を殺れ、と言っている」
「やるのか。日光には何人送る」
「五人ほどで闇に紛れてやる。気が弛みそうな帰路の宇都宮宿あたりだ」
「五人で大丈夫なのか」
「手練れを送る。道場稽古しか知らぬ侍など、相手にはなるまい」
小沢は締めくくるように言った。
「分かった。伊勢屋の店の者を始末するのは、出雲屋を襲うのと同時にやる。そのほうが町方の動くまえに片づけられる」
(一)
夏の陽が傾き、仕事帰りの職人や棒手振りの姿が増えてきた。
風間新之輔は、本所からの帰り道、ふと思い出した。
「そうか、今日は嘉平の帰りが遅いのだ」
碧雲亭に同居する嘉平が、品川の知人宅に行くので帰りが遅くなる、と言っていた。歩を緩めたところで、一軒の縄のれんが目についた。
新之輔は、ふらりと店に入った。
店を出たあと大川のほとりに来た。土手では夏草が風になびいて、ざわざわと耳障りな音をたてている。風と共に土埃が舞い上がった。
暗青色の雲が夜空に流れ、月が陰った。俄かにあたりが暗くなる。
ふと、新之輔は足を止めた。
暗がりの向こうに人の影がある。三人の男が近づいて来た。見知らぬ顔だった。着物、袴とも濃い柿渋茶色の異様ないでたちをしている。
新之輔は身構えて、刀の鯉口を切った。
三人は新之輔を囲むようにして、刀を抜いた。新之輔と知っての襲撃のようだ。
いきなり正面の敵が切り込んできた。だがそれは誘いだった。
刃を合わせに新之輔が踏み込むと、正面の相手はすっと退き、左右から無言の切込みが襲ってきた。
一刀をかわし、一刀を撥ね上げたとき、ふたたび正面の敵が踏み込んでくる気配に、新之輔は素早い一撃を送った。
敵の腕を打つ手ごたえがあった。
くぐもった声をあげて、相手は後ろに飛んだ。と同時に、右手の敵が踏み込んできた。
三つの影は瞬時も、じっとしていない。連携した動きに、熟練の技がうかがえた。剣の使い方から、忍びの者のようだ。
しかし新之輔は、敵の動きのつながりが見えてきた。
正面の敵が切り込んできたとき、その動きに応じず、不意に身を沈めて左から切り込む敵の胴を払った。充分な手ごたえを感じつつ、休まず右に振り向いた。
すぐ眼前に白刃が落ちてきた。それを擦り上げるように刀を合わせ、相手の肩を切り下げた。間を置かず正面の敵が迫ってきたが、手負いで動きが鈍っていた。
新之輔の白刃が敵の面を撃った。
新之輔が本湊町の碧雲亭に戻ると、嘉平の横に小柴秋明がいた。亀の湯で、ときどき話を交わすご隠居だ。
「お帰りなさいませ」
嘉平が頭を下げたが、その顔は何か言いたそうだった。その横で、秋明が鼻を嗅ぐようにして、ささやいた。
「血の匂いがする――」
そこで気づいた。新之輔の着物の袖に血が付いていた。曲者を斬ったとき、返り血が付いたようだ。
「何者か知れぬがいきなり襲われて、撃退した。そのときの血だ」
新之輔は言って、嘉平を顧みた。「嘉平、何かあったのか」
「あ、いえ、実は――」
多少慌てて、嘉平はおもむろに話しだした。「蕎麦屋をもういちど始めてみようと思いまして――。秋明さんも店を手伝ってくれると申していますし、年寄り二人で小ぢんまりとした店を――」
「いいことじゃないか。川治屋から蕎麦打ちの道具を貰ってることだし」
新之輔はあっさりと認めた。「良ければ、この家を使ってもいいぞ」
「えっ、でも家主さんの了解を取らなければ――」
嘉平が言ってるそばから、秋明が口を出した。
「嘉平さん、心配いらないって。風の旦那がおっしゃっているんだから、遠慮なく使わせていただこうよ」
いつの間にか、風の旦那にされている。二人の様子を見て新之輔は、嘉平凧の糸を引いているのは、このご隠居ではないか、と思った。
昼下がりの江戸の街は、人がまばらだった。
歩を速めていると、ふと人の視線を感じた。何気なくあたりの様子をうかがうが、これといった人物は特定できない。ただ見られている気配だけが感じられた。
昨夜何者かに襲われたばかりなので、新之輔は用心していた。
肥後守が、今日はこちらに来いと言うので、会津藩の中屋敷に向かう途中だった。
汐留橋を渡り、芝口町の大通りから東に一筋入った通りを南に歩く。通りの東側は、武家屋敷の塀が一直線に伸びている。
かなたに西日を浴びて銀色に輝く、徳川家の菩提寺、増上寺の大屋根が見える。
新之輔は、ふと足を止めた。ちょうど会津藩邸の門が開き、供を従えた肥後守が、門前に止めた籠に乗り込むところだった。
籠が去ったあと、新之輔は見知った門番に訊いた。
「御前は出かけられたのか」
「いえ、御前はお屋敷におられます」
「先ほど、御前によく似たお方を見かけました」
庭に面した座敷で、新之輔は保科正之と対面していた。いつもの通り、柴田藤兵衛が御前の背後に控えている。
肥後守は言った。
「ああ、海滑藩のお側用人をやっている、堀昌之だ」
「海滑藩――それがしのもといた藩でござる」
「知っている。堀はしばらく余の影武者として、会津藩にいた。海滑藩の松千代が元服して家宗と名乗りだしたとき、堀をお世話役として送り込んだのだ。ちなみに家宗の一字は将軍家綱さまの家を頂いたものだ」
「それはありがたい。ひょっとして、御前のお計らいでは」
「もちろんだ。余とそのほうの仲だからの」
そこで肥後守はぐっと身を乗り出した。「そのほうが恩義に感じているのなら、今日の話はやりやすい」
新之輔は少し身構えた。
「どのようなことでござりましょうか」
「実は今度、子龍と日光社参に出向くことになった」
子龍とは、水戸藩の徳川光国(のち光圀と改名)のことである。肥後守が徳川の血を引いているので、二人は親戚筋になるが、話が合うのかしばしば交流していた。
「大げさな大名行列ではなく、少人数の旅立ちだ。だからその方に警護を頼みたい」