■ 残影/風の新之輔U - (四)
(四)
吉野屋に泊った夜中、ふと人の気配を感じて、新之輔は目を覚ました。
襖がすっと開かれ、店の主、忠左衛門が部屋に入ってきて枕元に座った。そのまま新之輔の顔をじっと見ている。
新之輔が目を開け半身を起こすと、忠左衛門はいたずらを見つけられた子供のような顔をした。
「拙者になにか用か?」
新之輔が尋ねると、あるじは恥ずかしそうに目を伏せていたが、思い切ったように口を開いた。
「何者かが襲ってくるかと思うと、夜ひとりで寝るのが怖くて――」
(だったらなぜ、甚八の忠告を受け入れて、隠れ家にでも移らないのだ?)
そこであるじの目つきに気づいた。新之輔は訊いた。
「拙者と寝たいのか?」
一夜限りの情事とは割り切れない、底知れぬ悦楽だった。見かけは凡庸な老爺なのに、新之輔を狂わせる妖しい裸身を隠していた。
滑らかな温もりと吸いつくような締め付け――。背後から貫入しながら、無意識に菊丸と比較していた。忠左衛門も陰間だったということを考えれば、男を悦ばせる玄人の技があるのだろう。
悦楽にも踏み込んではいけない領域がある。その領域に呑み込まれてしまったら、一生抜け出せなくなるだろう。
新之輔はこの夜、忠左衛門と肌を合わせながら、その領域にしばしば足を踏み入れた。
小壺芳美は、吉野家の横にある古着屋に、往診で来ていた。
腰の治療を終えたあと、古着屋の主人は声を潜めて言った。
「隣の忠左衛門さんは昔、陰間茶屋にいたのを、先代が引かせて養子としたのです」
芳美は納得した。道理で忠左衛門の立ち居振る舞いが、どことなく柔らかいと思った。
「最近、用心棒で寝泊まりするお侍、たしか風間新之輔さまとおっしゃいましたが、男前で立派な身体をされています。ひょっとしたら忠左衛門さん、そのお侍としっぽりと濡れごとをしているかも知れません」
主人は下卑た笑いを浮かべた。
対照的に芳美は、むっつりとしていた。
吉野屋に泊るようになって、五日目の夜だった。
――む、来たな。
直感で分かった。戸を開ける物音があるわけでもなく、人の気配もない。眠りの底に冴えた感覚があって、いつでも瞬時に働かせられるものだった。
新之輔は刀を取って奥の部屋に入ると、忠左衛門を揺り起こした。
「押し入れに隠れていろ」
ささやき声で言うと、忠左衛門はすぐ事態を察して、素直に押し入れに入った。
裏庭に面した雨戸が、かすかに擦られる音がした。新之輔は縁側に出て、雨戸のすぐ横に潜んだ。
雨戸が開けられるにつれ、月光が影を床に映した。賊の手にする白刃がきらめいた。
新之輔は無言で踏み出し、賊の脾腹に刀の柄を突き入れた。ついで賊の身体を、庭の方に突き倒した。
ほかに二人いた。剣を手にし、浪人者の風体をしていた。
「誰に頼まれた」
新之輔は声をかけた。
突然現れた新之輔の姿に、男たちはうろたえているようだ。戦うか逃げるか、そんな心の迷いが手に取るように分かる。
「答えぬなら、こちらから参る」
言った途端、右の賊が切り込んできた。それを軽くいなし、峰打ちで相手の肩を打った。残りの一人は、とても敵わないと思ったのか、裏木戸のほうに逃げた。
知らせを聞いた勘三郎親分が、吉野家に駆けつけてきた。遅れて、勘三郎の手下から報を受けた、杉山甚八がやってきた。
捕らえた賊二人は、後ろ手に縛って自身番屋に連れて行かれた。
新之輔が言った。
「あの二人は金で雇われた浪人者だ。何も知らんと思う」
甚八が腕を組んで言った。
「どうせ、そんなところだろう。しかし、ここまでやるとなると、敵はそうとう焦ってきたな」
「伊勢屋のあるじは、悪事に加担しているのでしょうか?」
勘三郎が訊いて、甚八が応えた。
「それはどうだかな。一応被害者の立場だが、千両箱五つ位の損じゃ、数年で取り戻せるだろう。よし、明日、伊勢屋に行って、揺さぶりをかけてみるか」
次の日、杉山甚八は勘三郎を連れて、札差の伊勢屋に行った。
六十に近い伊勢屋弥太郎は、商人というより庄屋を思わせる、土に根付いた素朴な風格があった。
「本日はどういったご用件で――」
「うむ、善助のことだ」
「そのことでしたらもう、川上久蔵さまに――」
「話したって言うんだろう」
「ええ。それにご迷惑をかけました旗本の皆さまには、損害額をお納めし、お詫びの印も――」
「たっぷりとばらまいたらしいな」
「もとはと言えば、手前どもの奉公人の不始末でございますから――」
「そうなのかい?」
「えっ!」
よほど心に刺さったのか、伊勢屋の手がわなわなと震えだした。
話すのは、いつも勘三郎の役目である。同心の杉山甚八は少し離れたところから、訊かれている者の顔の表情をさりげなく見ている。これはお調べのときの、二人の決まりのようなものである。
勘三郎は、はったりをきかせた。
「おれは、善助が首を斬られる前に会ったんだぜ」
「――」
勘三郎は、伊勢屋の顔をじろりと睨んだ。
「善助は金を盗んでいねえ。店の金も無くなっちゃあいねえんだよ。そうだろう?」
「な、何をおっしゃいます!」
伊勢屋は弾かれたように立ち上がった。じっと立って居れないのか、柱にしがみついて、わなわなと震えている。
「このお裁きは、お奉行さまがなされたもの――それを今さら申されても――もう蔵には金が残っておりませぬ」
「だったら蔵を見せて貰おうじゃねえか」
「そ、それは――」
あとはさめざめと泣きだした。
杉山はしばらく見ていて「邪魔したな」とひとこと言って、座敷を後にした。
(ちっ、遅くなってしまったぜ)
杉山甚八は本所から深川に向けて、堤沿いの下の道を歩いていた。すぐ横は田圃が広がっていて、稲の葉がさらさらとなびいている。
ふと前の木立の影から、川上久蔵が現れた。川上は黙って刀を抜いた。
甚八も刀を抜きながら言った。
「伊勢屋に泣きつかれたか。影山さまを斬ったのはお前だな。今度は、おいらが邪魔者になったってわけだ」
川上は答えず、剣を脇構えにして、じりっと間を詰めた。
そのとき、背後の気配に気づいて川上が振り返った。
そこに風間新之輔の姿があった。
「やはりな。次は杉山さんが狙われると思っていた」
そこで甚八に声をかけた。「杉山さん、ここはわたしが相手をする」
「ああ、任せたぜ」と甚八が剣を引いた。
「ひとつ聞きたい」
新之輔は刀の柄に手をかけたまま言った。「善助を拷問したのはお前か」
川上がせせら笑った。
「それを聞いて、なんとする」
「善良な町人を罪人に仕立て上げ、そのうえ惨い拷問までするのは犬畜生にも劣る行いだ。もしおぬしがやったのなら、善助の最後の言葉をかなえるまで」
「けっ、小賢しいことを言いおって」
川上の剣気が募った。
新之輔は刀を抜き、正眼に構えた。右足をわずかに出し、左足は自然な形で曲げて、十分踏み込んでいけるだけの弾みを溜めている。
二人が対峙したまま、時が止まったようにみえた。
ふと、二人の間で木の葉が散った。それが合図であったかのように、川上が三間の距離をひと飛びに詰めてきた。
新之輔は四肢に蓄えていたばねを、一気に解放した。
右の首筋めがけて斬り込んだ相手の剣をはね返し、左へすり抜けながら胴を撫で切った。
腹から脇にかけて切り裂かれて、川上の動きが止まった。
「弱者の恨み、思い知れ!」
新之輔はためらいなく右の首筋を撃った。半ば切断された首から、鮮血がほとばしり出た。川上は声もなく絶命した。
日差しは強いが汗ばむこともなく、すでに秋に入っているのを気づかされる。時おり、両国橋の下から吹き上げてくる風は、ひんやりとして潮の匂いを含んでいた。
急に空が暗くなってきたと思うと、大粒の雨が降り出した。
「風間の旦那――」
声のした方を見ると、岡っ引きの勘三郎親分が番傘をささげて、近づいて来た。五十過ぎの年齢だが、むやみに十手風を吹かせることもなく、地元の評判も良い。
勘三郎は頭を下げた。
「先だっては、杉山の旦那を助けてくださって、ありがとうございます」
新之輔のほうに傘を差しかけた。「なあに、夕立です。雨はすぐにやみますよ」
ひとつ傘のした、二人は連れたって柳原通りを歩いた。並んでいると、頭一つ新之輔の背が高かった。
「こりゃあ、相合傘だ」
勘三郎が軽口を叩いた。道に水溜りが出来、ぬかるんできた。水溜りを避けようとして勘三郎がよろめいた。新之輔が差しかけた番傘の柄に手をかけた。
二人の手が触れ合った。勘三郎の太った身体がびくっとした。
気まずさを振り払うように、親分は言った。
「冷えてきました。熱燗でもやりますか」
「だったら碧雲亭に来てくれ。下り酒が入ったと嘉平が言っていた」
本湊町の家に行くと、嘉平が笑みを浮かべて二人を出迎えた。
ずいぶん明るくなったな――勘三郎は思った。川から助け上げた当初は、表情が暗かった。それが今は、別人のように弾んだ表情を見せる。新之輔さまの影響だろうか。
「昨夜、小西半四郎さまが何者かに斬られました。わき腹と肩に刀傷がありましたが、肩のほうは胸にまで達する、凄まじい傷だったそうです」
勘三郎は話しながら、新之輔の空いた盃に酒を注いだ。
「口封じか――」
新之輔がつぶやくと、勘三郎はうなずいた。
「寺内さまや杉山の旦那は、そう考えています」
奉行所内の闇の部分が口封じされたとなると、いよいよ黒幕は、幕府の中にいるのか。
肥後守は、幕閣内にも怪しい動きをする者がいる、と言っていた。新之輔が考えをめぐらせていると、勘三郎が言った。
「伊勢屋の弥太郎は罪を認めました。取り調べでは、小西さまの指示に従った、と繰り返すばかりでした」
「弥太郎は、金の行方は知らなかったのか?」
「善助が捕らえられる前の晩、六人の男たちがやってきて、その者らに金を渡したそうです。五人は頬被りをして、人足風体の格好をしていましたが、身の運びから武芸者じゃないかと思ったそうです。それを指揮していたのは坊主頭の侍で、左眼の上に傷跡があったそうですが――」
勘三郎は酒で喉を湿らせた。「伊勢屋は若い頃、熊野三山で一年ほど修行した変わった経歴があるんですがね、その侍の格好をした坊主頭の男は、修験僧じゃないかと言うんです。ちょっとした仕草や上方訛りがあることから、何となくそう思ったそうです」
「修験僧か――」
新之輔は考え込んだ。
勘三郎が思い出したように言った。
「そういえば吉野家の番頭が言っていました。いつになく店の前で、修験僧を見かけるようになったと」