目 次
残影/風の新之輔U - 第二章 江戸の闇
一丁の辻駕籠が夜の街を走っていた。御城の北側の起伏の多いところである。
やがて、元飯田町のあたりで停止した。出てきたのは顔を頭巾で覆った侍だった。その侍は駕籠が走り去ると、ゆったりとした足取りで坂を上り、寂びれた風情の屋敷の中に入って行った。寄合旗本竹内惣九郎の屋敷だった。
あるじは隠居した六十代の老爺で、だいぶ耄碌が進んでいる。そのために用人の好き勝手になって、屋敷内ではときどき賭博が開かれていた。
敷地は雑草が生い茂り、屋敷とは別棟になった一軒家に明かりがあった。
侍は一軒家の前で頭巾を取った。小沢直作、江戸幕府の徒目付である。整った顔立ちだが目つきが冷たかった。
家に入ると、十五人ほどの修験者が車座になって酒を飲んでいた。いずれも良く日焼けして、筋骨たくましい身体つきをしている。
「小沢直作と申す。笹井宝山どのに会いに来た」
小沢が名乗ると、大柄な男が立ち上がった。
「お待ちしていました。どうぞこちらに」
奥の部屋に行くと、がっちりした体格の男が、江戸の略地図を見ていた。左眼の上に刀傷がある。男は小沢を見て、声をかけた。
「おお、来られたか。伊勢屋の首尾は上々だ」
「して、金は」
「猪牙舟で浅草の花川戸まで運び、船宿の地下に隠してある」
「それはご苦労でござる」
「あとは、出雲屋ですな」
「伊勢屋同様、手の者を潜り込ませ、五年かけて準備してきた。しばらくのあいだ様子を見て、動くときは迅速にお願いしたい」
「重々承知している。ところで、そちらで戦える人間は何人おられる」
「今は旗本の息子とその仲間、五人くらいでござる。なあに、江戸は浪人者が多い。金さえあればいくらでも集まる」
「数よりも質。兵を操れる人間が必要だ。ほどなく導師も江戸に来られる。そのときに、ご相談しよう」
「承知した。拙者もあのお方に伝えておく。では、連絡はこれまで通り」

(一)

新之輔は広い座敷で、保科肥後守正之と対面していた。
「戦国の世が離れてくると、武士は腰に刀こそ差しているが、心根は武士でなくなった。今や時代の主役は、金を動かす商人になりつつある。そんな中、奉行所の役方は町人たちとの交流が仕事なだけに、金の魔力に晒されている。当然の如く、腐敗も進んでいる。
そのほうは、南町奉行所の寺内頼母や杉山甚八を知っているな」
肥後守は静かな口調で話しだした。
御前がなぜ町方の名前を知っているんだ、と新之輔は内心驚いた。
「存じておりますが、二人が何か――」
「いや、二人とも金に毒されていない男たちだ。そのほうは町方の者でないが、この者らと協力して、腐敗の巣を探ってくれ」
「町方の者でなければ、拙者の身分はどのようなものでしょうか」
「二人の飲み仲間と言うことでどうじゃ」
「――?」
新之輔の怪訝そうな顔を見て、肥後守は笑った。
「まあそう硬く考えず、ぼちぼちやればよい」
大した用事でもなかった。わざわざ呼び寄せたというのは、裏に何かあるのだろうか。
新之輔は和田倉御門を出て、帰り道を歩きながら訝った。

碧雲亭に戻ったとき、汗を含む着物が暑苦しい。二階にあがって窓を開けると、江戸湊の汐の香りが濃く漂ってくる。
じっとりとした暑さが、梅雨の終わり頃やってきた。
新之輔は思い切って、着物と下帯をとって、生まれたままの姿になった。両手を広げ、窓外の海に向かって大きく伸びをする。いくぶん爽快な気分になった。
「新之輔さま、夕餉のご用意ができて――」
階段を上ってきて声をかけたところで、嘉平は息をのんだ。

階下におりると、医師の芳美と弥助が来ていた。二人は新之輔に頭を下げた。
「今日はご馳走になります」
嘉平が菜箸を手にして言った。
「今日は蕎麦ではなくうどんにしました。暑いときに熱いものを食べる。逆のようですが先生がおっしゃるに、身体にいいそうです」
醤油つゆを入れた土鍋に、うどんがぐつぐつと煮立っている。それに椎茸と蒲鉾、くわいを入れ、ネギを足した。
最後に芳美が持ってきた、芝海老の天麩羅をのせた。いい匂いがする。
「さあ、できました。熱いからお気を付けて、お召し上がりください」
「こりゃあ、うまい」
皆、ふうふうしながら食べた。

新之輔は浅草寺へ出かけた。その帰り、御蔵前までやって来た。
江戸の町に陽が沈もうとしていた。夜風が気持ち良かった。このあたりは米蔵が立ち並んでいる。昼間はあれほど賑わっていた人の姿も消えた。大通りは奉行所の夜回りがあるとはいえ、夜の江戸が安全なわけではない。
お――新之輔は、立ち止まった。
前方の横町から走り出た黒い影が、こちらに向かって近づいて来る。背は低いが、足の運びから、子供ではないようだ。顔を伏せているのでよく分からないが、目だって鼻の大きい男だった。その影は新之輔の横を通り過ぎるとき、小声で言った。
「旦那、急がないと、人ひとりの命がなくなりますぜ」

ふと前方から、風に紛れて人の声が聞こえた。争っているような声である。
「何をするのです。通してください」
一町ほど先の道に、人の影がある。丸っこい身体つきの男を囲むように、数人の男たちが立っていた。新之輔は歩を速めると、男たちに声をかけた。
「どうした?」
夜目にも人相の悪い男たちが振り向いた。
「ああん、痛い目に会いたくなければ、さっさと消えちまいな」
ごろつきの言い草は、どこも同じだ。新之輔は内心にやりとした。
「年寄り一人に大の男が五人掛かりか。それがしが相手をしてやる」
「なにおっ!」
戦いは、容易に決着がついた。新之輔に叩き伏せられた男たちは、「野郎、覚えてろ」と捨て台詞を残して逃げ去った。

襲われていた男は、油問屋吉野家の主人、小平忠左衛門と名乗った。五十半ば、でっぷりと肥っていた。襲ったのは見知らぬ男たちで、忠左衛門を船で連れて行こうとしていたらしい。
忠左衛門を店まで送り届けたのち、本湊町に戻る途中、天水桶の陰から声がした。
「先ほどの曲者ですが、神田川の上流方面に逃げて行きましたぜ」
最前見かけた影と同じ声だった。

二日後、新之輔はのんびりとした足取りで、芝の街道筋を歩いていた。どこかの旗本の侍が、遊びがてら増上寺を訪れたように見える。
この辺りは、会津藩の中屋敷や下屋敷に近い。もともと、参詣に来た善男善女の休憩どころが多く、近頃は大きな会席茶屋も出来ていた。
店の前で、一人の武士が立っていた。芝田藤兵衛だ。
藤兵衛は新之輔の前に歩み寄って、軽く頭を下げた。
「お待ちかねです」
ひとこと言ったが、誰が待っているとは言わない。この男はいつ会っても春のような温和な雰囲気に包まれている。
藤兵衛は先に立って、店の暖簾をくぐった。一般の人など滅多に入ることのできない、高級店である。話は通じているらしく、坪庭に面した離れに案内された。
二人して座敷の前の廊下に膝づく。
「風間新之輔さまお見えにございます」
「通せ」
部屋の内から聞きなれた声が聞こえた。
藤兵衛が襖を開けると、座敷に燈された百目蝋燭の明かりが射した。座敷奥、松を描いた屏風の前に保科正之が座っていた。酒席は設けているが、女はいなかった。
肥後守が求めているのは典雅な作法ではない。それでも新之輔はかしこまって、膝行しながら部屋に入った。
「姿を変えての忍びだ。堅苦しい挨拶は抜きにしよう」
「心得ております」
「まず、喉を潤せ」
肥後守が言って、すかさず藤兵衛が新之輔の杯に酒を注いだ。三人は酒を酌み交わした。少し場が弛んだところで、肥後守が新之輔に訊いた。

「そのほう、伊勢屋の事件を知っているか」
「瓦版で見ましたが、詳しくは存じません」
札差伊勢屋の手代善助が、店の金を五千両横領して死罪になったという事件だ。しかも公金だったという。
札差とは、武士の俸禄米を換金する業者である。江戸幕府の直属の家来である旗本や御家人は、給料を米でもらっている。この米は幕府の直轄領から送られてきた年貢米で、武士の代わりに米の受け取りと換金を請け負っていたのが札差である。浅草には幕府の米蔵が集まっていて、浅草御蔵または蔵前と地名でよばれていた。
「して、あの事件をどう見た」
肥後守の問いに、新之輔は考えながら言った。
「一介の手代が一人で、五千両もの金を横領できるものでしょうか?もしそうだとしたら、きっと黒幕がいたはずです」
「ふむ、誰しもそう思うな。しかし、善助一人が罪を着せられて斬首された。盗まれた金も出てこないのに、町奉行はそれで一件落着と見た。なんとなれば伊勢屋が損害金を賠償し、それに色を添えて迷惑料まで関係者にばらまいたからだ」
聞いていて新之輔は、怪しい動きを感じた。
それを察したように、肥後守は話しだした。
「実は一昨日、町奉行の牢屋見回与力、影山新伍という者が殺された。影山は刀も抜いておらず、一太刀で殺されていたという状況から、襲ったのは武士と見ていいだろう」
肥後守はしばし口をつぐんだ。
「影山は、善助を大番屋から牢屋敷まで送り、死刑までみとった男だ。これから見るに、どうやら町奉行所の中に闇の部分があるようだ。それに幕閣内でも怪しい動きをしている者がいる。しかし、町奉行と目付にはそれぞれの領域がある。両方同時に調べるわけにはいかないのだ」
肥後守は新之輔の顔を真っ直ぐに見た。
「そこでそのほうの出番じゃ」
なんとなく雲行きが怪しくなってきたので、新之輔はとぼけた。
「はっ?」
「はっ、じゃない。幸いそのほうは、南町奉行の者と面識がある。彼の者らと協力して、闇の部分を暴いてくれ」
奉行所内の闇の部分や千代田の御城まで絡んでいるとすれば、容易なことではない。
そこでつい、思ったことを口にした。
「しかし――そのような調べは、なんで目付にやらせないのでしょうか」
途端、叱られた。
「たわけ!それではすべてが表沙汰になるではないか」
御前のひと言に、新之輔は首をすくめた。(でもなんで、一介の浪人者のおれがやらなければならないんだ)と思ったが、今度は口に出さなかった。
「そのほうは先だって、吉野屋のあるじが、暴漢に襲われるのを助けたらしいな。案外、そのあるじも、伊勢屋の事件に絡んでるかも知れんぞ。となると、そのあるじを護るのも、その方の役目だ」

芝から本湊町へと戻りながら、新之輔は不思議に思っていた。吉野屋のあるじを助けたことを、なぜ御前は知っているのか。それに江戸の街や奉行所内のことについても、よくご存じだ。これは御前のもとで働く密偵がいるとみて、間違いないだろう。
しかし、柴田藤兵衛のほかに、知っている顔は思い浮かばなかった。
[21/02/04 07:26 神亀]
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