■ 残影/風の新之輔U - (五)
(五)
芳美と弥助は、医師と小者の関係だが、二人だけの時は仲の良い兄弟のようだった。
五十五歳と六十一歳、弥助のほうが六つ年上だが、立場上、芳美のほうが年上のような口利きをした。
午前中の診察を終え、めずらしく暇のできた昼下がり、ふたりは家にいてのんびりと過ごしていた。
「先生はもう五十五歳になるというのに、身のこなしがお若い。わたしなんか、歳の差以上に老けてみえます」
「それはお前、しっかり身体を鍛えて過ごすのと、ただ怠けて過ごすのとの違いだよ。年寄りでも、鍛錬を続けておれば、いつまでも相応の若さは保てる」
「では、どうやればよろしいのですか?」
「ふむ、人それぞれに身体の作りが違う。一概に言えないが、身体の筋や肉を伸ばしてやることは、誰にも効果のあることだ。例えばこうだ」
芳美は両足をまっすぐ伸ばして座り、そのまま上体を前に倒してぴたりと頭をつけた。
「わあ、柔らかいですね!」
弥助が感心して、喝采をあげた。
それに気をよくしたのか、今度は足を広げて、頭を前につける。それも頭どころか、胸までも畳につける。
「これを斜めに倒したり、身体をひねったりする」
芳美は言いながら、さまざまな動きをする。見ている弥助にとっては、とても真似できない動きだ。弥助は感心したように言った。
「これで先生が、新之輔さまの大きなヘノコを受け入れられる訳がわかりました」
弥助は寺の小坊主をやっていた頃、和尚の夜伽をした経験があるので、大人のヘノコを尻に受ける苦しみは十分知っていた。
しかし芳美は、弥助の言葉を違う意味に受け止めた。怖い顔で弥助をにらみつけ、咎める口調で言った。
「おまえ、なんで新之輔さまのヘノコが大きいと知っているんだ」
「いやですよ、先生」
弥助はあわてて手を振った。「たまたま湯屋で、新之輔さまと行き合わせただけです」
新之輔は上野の森に来ていた。
大きな木に囲まれていると、生気が身内に充満するのを覚えた。気を己の内に取り込むことは、亡き昌造爺から教わった。
(いいですか、新之輔さま。樹木は気を放散させています。大きな樹ほど気の量も多い。この気を浴びれば、疲れが取れるし、腹も空きませぬ)
現代で言う森林浴のことである。
寛永寺本堂の横を歩いていた新之輔は、ふと何かを感じた。無意識に刀の鯉口を切った。あたりは雑木林になっていて、林の少し奥まった位置を、何者かが新之輔の動きに合わせるように、足音を忍ばせて移動する気配があった。
ゆったりと歩きながら、その気配を探った。動く者は新之輔の左後方にいる。
新之輔は足を止めると、声をあげた。
「何者かは知らぬが、出てきたらどうだ」
二本差しに裁着袴姿の中年男が、林から出てきた。見知らぬ顔だった。中背だが、鍛え抜かれた身体つきをしている。
男は黙って腰の刀を抜いた。その構えを見て、強敵だと瞬時に悟った。男の身体は地に吸い付くように柔軟に、しかも微動だにしないで立っていた。
「名を名乗れ。それがしを風間新之輔と知っての狼藉か」
「問答無用!」
男はひとこと言うと、じりっと間合いを詰めてきた。
新之輔はやむを得ず刀を抜き、少しずつ左に回った。
月が雲間に隠れ、あたりは急に暗くなった。
男の剣気が強まった。
来る――と思った途端、新之輔は踏み込んで相手の面を撃った。同時に男の身体も右に飛んで、新之輔の腕を撃ってきた。
二人は飛び離れ、再び構えた。男の額から、赤い血の筋がしたたり落ちている。わずかに新之輔の剣が速かったようだ。
血で見づらい筈だが、男は鋭く突きを入れてきた。
新之輔はすり抜けざま、胴を抜いた。確かな手ごたえを感じた。
向こうむきのまま動きを止めた男の手から、刀が落ちた。その身体が前に折れ、地に転がった。
家に戻ると、柴田藤兵衛が待っていた。会津藩の家士である。どうしてこの家を知ったのかと聞く前に、藤兵衛は宣言するように言った。
「明日、御前がお会いしたいと申されている」
この男とは以前、保科正之の命で会津若松まで旅をしたことがある。
会津若松に旅立つ前日のことだった。その日、新之輔は、会津藩上屋敷で保科正之に会っていた。
「これを持っていけ」
肥後守は一言いって、新之輔の前にふくさ包みを置いた。
「これは――金子」
「切り餅二つ。五十両ある」
「拙者は金扱いに慣れておりませぬが――」
「心配するな、指南役を用意しておる」
肥後守が声を上げた。音もなく隣室の襖が開き、四十代半ばの家士が平伏した。
「芝田藤兵衛だ。わが家中で勘定方をしている。体術も心得ている。見た目は凡庸だが、甘く見ると痛い目にあうぞ」
肥後守は言うと、新之輔から藤兵衛へと視線をめぐらせた。
「どうじゃ、ここで組み合うて見るか」
二人は無腰で向かい合った。部屋は二十畳ほど、組み合うに十分の広さがあった。
藤兵衛は、一見したところ、ごく平凡な成りで、鄙びたと言うか素朴さの際立つ人物である。固太りだが、すぐれて頑健には見えなかった。
組み合ってみて、意外に肉が柔軟なのに気づいた。しかも、体術の心得があるどころか、抜きんでて強かった。
藤兵衛はすっと身を寄せたと同時に、払い腰で投げ飛ばそうとした。
新之輔は身体をずらせてそれを防ぎ、逆に相手の身体を強引に抱え上げようとした。
すかさず藤兵衛が身をかがめ、足払いをかけた。新之輔が思わず床に手をつくと、手首を両手で掴み、脚を絡めてきた。
このままでは関節技を決められて、身動きできなくなる。新之輔はとっさに、空いた手で相手の股座を掴んだ。
「むっ!」
藤兵衛の驚きの表情が苦痛に変わる。――このままでは潰される。
ついに藤兵衛は声を上げた。
「参った!」
二人が形を整えると、肥後守が揶揄するように言った。
「新之輔、男の急所を攻めるとは、ちと卑怯ではないか?」
「道場の稽古でしたら、形にこだわるかも知れません。しかし、真剣勝負は戦さと同じ。拙者はいつでも戦さのつもりで戦っております」
だから卑怯未練はない――と言いたかった。
「ふむ、ものも言いようじゃの。藤兵衛は旅の間、その方の世話をする。だがひとつ言っておく。藤兵衛は会津藩の者だ。つまり、その方のものではないと言うことじゃ」
御前は何でそんなことをわざわざ言うのだろう。もうひとつ意味が分からなかったが、新之輔は神妙に頭を下げた。
柴田藤兵衛が帰ったあと、新之輔は上野の森で襲ってきた賊のことを顧みた。
誰の差し金だろうか。男が誰かの命で、新之輔を襲ったのはあきらかだった。
しかし、男の衣服には家紋が無く、素性のわかる物は身につけていなかった。ただ、五両の金が財布にあるだけだった。
その金で近くの寺に行って、男の菩提を弔ってもらった。
その夜、新之輔は人を斬った血の昂ぶりが治まらず、嘉平を床に誘って抱いた。
新之輔が朝餉を済ませ、湯屋へぶらりと出かけたあと、嘉平は椀と皿の洗い物をすすいで片づけ、裏庭の井戸端で下帯や肌着の洗濯をすませた。
一通りの家事を済ませ、ほっと一息ついていると、昨夜のまぐわいを思い出して、体中にざわざわとした切ない震えが走るのを覚えた。
これまで、内に秘めた想いをじっと押さえていた。新之輔さまには医師の小壺がいる。
ともすれば切ない思いに負けそうになるのを、ぐっと我慢した。
あのとき――絶望の淵から助けられて以来、新之輔さまに対する想いは、強くなる一方だった。
そんなとき、新之輔さまのほうから誘いをかけてきた。男はへそから下に人格が無いと言う。新之輔さまも同様だった。最初の内は、淫らな指によって慰められた。
そして、昨夜ついに結ばれたとき、あまりの嬉しさに、鋭い痛みも苦にならなかった。
惚れた男に貫かれる――それは法悦にも似た喜びだった。
湯屋から戻ると、新之輔は袴を身に着けた。これから保科正之に会うためだが、もうひとつは昨日のような戦いになれば、着流しだと裾が足に絡んで動きづらいからだ。
それで用心して、これからは袴を身につけよう、と思ったのだ。
鍜治橋御門から和田倉御門に向かっているとき、昨夜の襲撃者を斬ったときの感触が、まざまざとよみがえった。
この太平の世の中で、人が人を斬るということは、そうあることではない。
不幸なことに新之輔はそれを経験している。それも多数の人を――。
十五歳のとき初陣して、初めて人を殺したときの記憶が、今もって蘇ることがある。
敵大将の振りかざす刃をかいくぐって、刀ごとぶつかっていった。剣先が敵の喉に突き刺さり、ズグズグッと貫き通した。刃を通して、死の痙攣を感じた。
人の命が抜けていく――怖さの反面、股のあたりがむず痒くなるような感覚だった。
斬り合っているときは必死だが、あとで斬った人間の断末魔の顔が浮かんで、夜中に目を覚ますこともあった。それは何年経とうとぬぐい切れない心の傷だった。――母者や姉者が殺されたときのように。