目 次
残影/風の新之輔U - 第一章 碧雲亭
浅草御門近く、柳橋の桟橋に一隻の屋根船がとまっていた。
船体が桟橋にぎしっと接し何者かが乗り込んだ。障子戸が開けられ、頭巾で顔を覆った男が中に入ってきた。
先に来ていた南町奉行所与力、小西半四郎が平伏した。船宿が用意した膳が二つ並べられているが、半四郎はまったく手を付けていない。
「顔を上げよ。先にやっておればよいものを」
頭巾の男はゆったりと向かいに座った。
屋根船が、大川の中ほどに出た。誰かが盗み聞きしようにも、不可能な位置だ。
「それで、伊勢屋のほうはどうだ」
「万事滞りなく進んでおります」
「万全を期して、急ぐでないぞ」
「はっ、それは重々」
「川上久蔵にもよく申しておけ。あれは功を焦りすぎる」
「ははっ」
「ところで、支障を来しそうな者はおるか」
「今のところ現れておりませぬ。もし現れても、辻斬りに見せかけて葬ります」
「おぬしは念流をやっていたな」
「川上も念流をやります。奴は、奉行所随一の使い手と目されています」
「そのために川上を入れたのだ。奴の使い道は、力仕事だ」
そこまで話して、男は障子戸を開け、船頭に向かってひと言「戻れ」と言った。それから小西に向けて言った。
「ことが成就すれば、あのお方がおぬしを引き上げてくださる。せいぜい精進しろ」
屋根船が桟橋について、男が船から出て行ったあと、半四郎は初めて酒に手を付けた。男の言うあのお方は知らなかったが、幕府の重鎮ということだけは理解していた。

同じころ、ここは京都嵐山近くの寺。庭はよく掃き清められて、古刹の雰囲気がある。
薄暗い堂内に、線香の匂いが漂っている。
本尊を前に、修験僧笹井宝山が黙然と座っていた。禿頭にふてぶてしい顔立ち、左眼の上あたりに切り傷の跡がある。
やがて本堂奥の裏戸が開けられ、何者かが入ってきた。影は柱の裏でとどまった。
「そのほう一人か」
年老いた柔らかい声が問うた。
「ははっ」宝山は低頭した。
「誰にもつけられていないな」
「十分気をつけました。手の者にも話しておりませぬ」
「ふむ。江戸のほうは動き出すようじゃ。お前達もそろそろ出立してくれ」
「承知いたしました」
「わしもおっつけ後から参る。重ね重ね申すが――」
声がしばし途切れた。「江戸への道中も、十分気をつけてくれ。そうでなくとも、本家が胡散臭い目でみておる」
「邪魔者は斬りますか」
「それはまずい。本家はお前の顔を知っている。それに東山宮も油断がならない爺だ。そんなのをいちいち斬っておれば、きりがないわ」
声が途絶えて、かすかに歩き去る音が聞こえた。
しばらく待ったあと、宝山は低い声を出した。
「聞いたな」
暗闇から、二つの声が同時に聞こえた。「――確かに」
「では出立の準備をせい」
言うと宝山は立ち上がって、堂を後にした。

(一)

「ほう、これは――」
二階の雨戸を開けた途端、窓外に広がる思わぬ展望に、風間新之輔はあとの言葉が出なかった。横にいる町医者、小壺芳美も同じ思いである。
一面の海が、陽光を反射して白くきらめいていた。ここはもう大川(隅田川)の河口ではなく、江戸湊の海だった。広々とした海に面して、北東は霊岸島の一角、越前松平家の大きな屋敷が見える。その手前、南の突端に御船手の組屋敷がある。視線をめぐらすと、南東には深い緑の石川島、その南は佃島の漁師町である。
口入れ屋の喜久蔵から話を聞いたときは、さほど期待していなかった。さる大名のご隠居が妾を囲っていたが、本人が他界してそのまま空き家になっていると言う。家は八丁堀から南に抜けて、本湊町の稲荷横にある。あたりは鉄砲洲と呼ばれる一帯だ。
使われている材木は太く、全体にどっしりとした佇まいを見せている。強い風が吹けば飛んでいきそうな長屋とは、重量感が違う。家主は、見た目の豪華さより、実質の耐久性に金をかけたのだろう。
一階に台所と板の間、畳部屋が二間、二階に三畳の小部屋と六畳の部屋、四畳ほどの納戸がついている。贅沢にも檜張りの小さな湯殿まであった。裏庭には井戸があり、奥は浪避けの高い堤防に遮られているが、天井の高い家なので、二階にあがると前の景色が開けて見える。また一膳飯屋や湯屋が近いのも便利だ。

寛文二年(1662年)の暮、風間新之輔は、新しい住まいを探していた。
同居する医師の小壺芳美が、手狭になった浅草寺裏の長屋から八丁堀に移り住んだ。四畳半と六畳の続き間である。同居人は、二人のほかに小者の弥助がいた。
昼間は四畳半を診察室にあて、夜は弥助が寝泊まりした。奥の六畳間は、新之輔と芳美が使ったが、新之輔は少々気まずい思いをしていた。
芳美は禿頭の可愛らしい顔をして、新之輔とは豊後にいるときからの衆道の仲である。
今も二人は、月に何度か艶めいた行為に及ぶのだが、声や物音が隣室に漏れるのは防ぎようがない。小者に聞かれていると思うと、つい行為も控えめになる。
そんな思いから、別の住処を求めたのだ。
たまたま、仕事の斡旋をしてくれている喜久蔵が、本湊町の空き家を紹介してくれた。店賃(たなちん)も九尺二間の長屋と同じ四百文というから、破格値である。
「新之輔さまなら信用できますから、このお値段なのです」
喜久蔵は、恩着せがましい口調で言って、付け加えた。「ただし、ひとつだけ条件があります。家主のことを、決して詮索しないことです。ですから店賃は、私のところにお持ちください」
喜久蔵は、新之輔がその家を借りるのは当然、といった口ぶりである。
店賃が安いのはなにも喜久蔵のお陰ではない。家主がそう決めたからだろう、と思ったが「まあ、一度見て見るか」と言って、口入れ屋を後にした。

「どうだ、先生、気に入ったか」
二階の窓から振り返って、新之輔は医師に聞いた。普段は昼から往診に出ているが、今日は予定がない。そこで小壺芳美が付き合ってくれたのだ。
問われた芳美は、穏やかな声で言った。
「造りはしっかりしてるし、この景色が見れるだけでも申し分ない。でも店賃があまりにも安いから、かえって気味が悪い。なにか裏でもあるんではないでしょうか?」
それはありうると思った。あの煮ても焼いても食えない狸親父のことだ、都合の悪いことは黙っている可能性がある。あとでばれても「あれ、言いませんでした?」などと、とぼけるだろう。
それでも二階からの眺望は捨てがたかった。新之輔の故郷、豊後の海を思い起こすからだ。
――ここはひとつ、喜久蔵にだまされてみるか。
窓は東向きなので、午後の陽は直接射し込んでいないが、それでも室内はじゅうぶん明るかった。新之輔は、医師の丸みを帯びた身体を見て、のんびりと言った。
「裏があっても、何とかなるだろう。それより先生、せっかく二人きりになれたのだ。ちょいと乙なことでもやるか」

この時代、人は年を取るのが早い。五十も半ばになれば老人である。髪は白いし、顔には無数の皺が目立つようになる。
しかし、小壺芳美は違った。禿頭の顔は艶々としているし、五十四歳の肉体もまだ充分みずみずしかった。
新之輔は老いた医師のやわらかい身体を抱いて、ひとときの情交にふけった。
ゆったりとした抜き挿しが、情の高まりと共に激しくなる。
「ああっ――新之輔さまっ!」
思わず声をあげて、芳美は畳に顔を押し付けた。とろけるように軟らかくなった秘肛を押し開いて、男の根が抽送しつつ、内奥で掻き回しを加える。
声を押し殺そうとするが、どうしてもすすり泣く声が洩れ出る。これまで数え切れぬほど交わったが、いつも未知の領域に連れて行かれそうな怖れが湧く。
「声をあげてもいいんだぞ。ここには弥助がいない」
芳美の耳元でささやいて、新之輔は年配医師の奥深くに突き入れた。
稲妻が走ったような鋭い快感が、芳美の小さな身体を貫いた。
「ひっ――ひいいっ!――ああ――もう」
心の叫びが口を突いて出た。と同時に、肉壺がキュウッとすぼまって、男をきつく締め付ける。芳美は頭の芯が真っ白になった。
新之輔が精を吐きだすのを覚えながら、芳美は男と男の官能の極みへと追い上げられ、気の遠くなるような陶酔の世界を彷徨った。

風間新之輔が江戸に来て、早くも二年が経つ。年明け一月には、三十七歳になる。浪人生活も二年になれば、すっかり身に沁みついている。
新之輔が海滑藩主首藤頼宗の陰謀に巻き込まれ、藩主血続きの首藤宗顕を弑して、豊後の地を逃れてから五年になる。逃避行の途中で出会った、心に残る人々。そして黒鉄衆との死闘。海滑藩との確執は、羽室の御前首藤宗定の死によって、一応解消した。
世は四代将軍徳川家綱の時代である。新之輔は、幕府の大政参与である保科肥後守正之と偶然のことから知己を得た。
肥後守とは不思議に馬が合った。肥後守は二代将軍秀忠の落し胤、そして新之輔は海滑藩主首藤宗定の落し胤、そんな同じ境遇が引かれあったのかも知れない。
肥後守から家臣にならぬかという誘いもあったが、新之輔は仕官を断った。その代わり、ときどき肥後守の依頼で隠密行動をとる羽目になった。肥後守は穏和でゆったりとした風情があるが、鬼にも羅刹にも豹変できる男である。これまでも新之輔にとうてい不可能と思えることを、平気で命令した。
肥後守の依頼を受けるのは煩わしいが、一方で礼金は有り難かった。浪人となって定職のない新之輔は、生活費を稼がなければならない。これまでは医師の芳美の家に同居して、なにかと世話になっていたが、いつまでも甘えてはおれなかった。
[21/01/25 07:29 神亀]
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