■ 風の新之輔第一部 - 第一部豊の国(六)
(六)
梅雨が明け、通りも紫陽花の紫から百日紅の紅に色変わりした。とたん、物の影もくっきりとして、海滑の城下町はまばゆい日差しに包まれていた。
その日は朝から城内に、緊張感が漂っていた。
藩は収入を上げようとして、いくつかの制度改革を行ったのが、百姓やほかの領民たちの不満を募らせていた。
その急先鋒にいたのが、首藤宗顕だった。宗顕は民百姓の声を聞き、彼を慕ってくる若い藩士たちを啓蒙し、そして藩に対して厳しい意見を具申しようとしていた。
その具申書を携えて、今日、首藤宗顕が城に来るのだ。
対する藩主の首藤頼宗は、あくまで強硬路線を突っ走ろうとしていた。
頼宗と叔父の宗顕が顔を合わせたとき、何が起きるのか。
いまや一触即発の状態だった。
家老の長尾将左衛門は近習たちを前に、どんなことがあっても宗顕さまをお上とふたりきりにさせるな、ときつく達しを出した。
そして新之輔だけを別室に呼んで命令した。
「よいか、宗顕さまが無理やりお上に会おうとしたなら、かまわぬ、切り伏せよ。これはお上も承知の上意である」
下城する昼七つの刻(午後四時)が迫る頃だった。
ふと異様な気配を感じて、新之輔は立ち上がった。遠くで言い合う声が聞こえてきた。そして静かになった。
新之輔は仕切りの襖に近づくと、近習部屋に声をかけた。
「何事か?」
「分かりませぬ」と緊張した声が返ってきた。
新之輔は仕切りの襖を開けた。若い近習がふたり、緊張した面持ちでこちらを見ている。
(――来る)
新之輔は近習部屋の向こうに、人の来る気配を感じた。
「ふたりともこちらに来い。お上をお守りするのだ」
新之輔は鋭く言うと、近習部屋に向いたまま後ずさりして、肩衣を外し、足袋を脱いだ。足袋を履いたままだと、いざという時、畳に足を滑らせる恐れがあるからだ。
そのまま奥の襖際まで後退して、頼宗に声をかけた。
「お上」
「――何事じゃ」
不機嫌な声が聞こえた。
「宗顕さまが参られたやも知れませぬ。近習ふたりをそちらに寄越します。何かあれば奥の出口から外へ――」
(お逃げください)と言おうとして、言葉を変えた。「――出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
自意識の強い頼宗を考慮した言葉遣いだった。逃げろなどと言えば、怒り出すだろう。
襖を開けて近習たちがお上の部屋に入ると、素早く襖を閉めた。それから近習部屋に移った。
そのとき、向かいの襖が開いた。
首藤宗顕が立っていた。左手に朱塗りの太刀を持っている。
ふたりは部屋の中央で対峙した。
新之輔も大きいが、宗顕も大きい。髪を総髪にして、眼光が鋭かった。
「そなたが風間新之輔か。強いそうだな」
宗顕は鋭い目つきで新之輔を見た。「それに、大きな男だ」
「――」
「そこをどいてくれ。頼宗に話がある」
「通すことは出来ませぬ」
言ったあと、新之輔は腰を落とし気味に、脇差の鯉口を切った。
「ほほう、脇差で余の相手をいたすと申すか」
宗顕はのんびりと言った。「ならば力ずくで通るしかないのう」
悠然とした態度で、宗顕は羽織を外し、膝を立てて左右の足袋を脱いだ。
立ち上がると、刀を抜いて鞘を投げ捨てた。
そして正眼に構えた。
先ほどまでの雰囲気が一変した。
全身に鋭い剣気がみなぎっている。
宗顕の構えを見て、新之輔は身体が総毛立つのを覚えた。真剣勝負をするのは久しぶりだった。
それに、心理的に戦い辛かった。首藤宗顕は顔の彫りが深く、兄の宗定の面影がある。
宗顕と対峙していると、大恩あるご前と戦っているような錯覚に陥った。
新之輔の逡巡を見てとって、宗顕が口を開いた。
「どうした、憶したか。ならばこちらから参る」
宗顕がすっと前に出て、間合いを詰めた。足さばきも見せない素早さだった。
剣の切っ先が新之輔の喉元に迫った。
かろうじて切っ先を払い、新之輔は円を描くように左に移動した。
これは、右利きの相手をするときの鉄則だ。相手が刀を使おうとすれば、脇が開いて隙が生じる。
脇差を下段に構えながら、新之輔は宗顕との間合いを測った。
太刀と脇差では刃渡りが違う。脇差で太刀の相手をするには、どうしても間合いの内に入らねばならない。太刀の鋭い切っ先をかいくぐらなければ、こちらの刃は届かない。
ふたりが最初と入れ替わった位置にきたとき、新之輔はすっと退いて、敷居を越え、隣の部屋に入った。
新之輔は敷居から半間離れたところで止まった。この位置であれば、長い太刀の攻撃も限られてくる。上から振り下ろそうとすれば、鴨居に食い込んで太刀の自由が利かなくなるだろう。
そのことは、宗顕も気付いたようだ。
「ちっ、小癪な!」
宗顕は畳を蹴ると、真っ直ぐ突きを入れてきた。
それを避けて後に下がると、上から剛刀がうなりをあげて振り下ろされた。
新之輔は素早く刃を返して、受け止めた。
ガキンッ!
鈍い金属音が響いた。
刀の峰で受けたのが幸いした。刃で受けておれば、脇差は真っ二つに叩き折られていただろう。
宗顕が咬み合った刀を、上からギリギリと押し付けてくる。今度は刀の峰で受けたのが仇になった。脇差の刃が自分の顔に迫る。
新之輔は咄嗟の判断で動いた。上からの力に逆らわず背後に倒れ込んで、その反動を利用して相手の下腹部を蹴った。
足の先が急所に食い込んだ。
宗顕が激痛に、息をつめた。
新之輔は素早く起き上がると、宗顕の右に回り込みながら、脇差を水平に払った。
刃先が、ろっ骨の隙間を深く切り裂く手応えがあった。
宗顕は一瞬、何が起きたのか分からない驚いた表情をして、次いで苦悶の表情に変わった。そのままがっくりと膝を落とした。
人間は内臓まで切られれば、助かりようがない。
宗顕は諦観したように、新之輔を見あげた。
「か、介錯を――」
「承知――」
ひとこと言うと、新之輔は脇差を振って、宗顕の頸動脈を断ち切った。
新之輔は呆けたように腰を落とした。横にはうつ伏せになった宗顕の亡骸がある。あれほど覇気のあった横顔が、今や虚ろな表情をしている。
(これで良かったのだろうか?)
心の隅に、何かが引っ掛かっていた。宗顕は「頼宗に話がある」と言った。本当に意見だけする積りだったのではないか。いくら上意とはいえ、後味が悪かった。
人の気配に顔を上げると、大勢の藩士がまわりを取り囲んでいた。奇妙なことに、誰も声をかけてこなかった。
その背後から、藩主頼宗と家老の長尾将左衛門が現われた。
将左衛門は、畳に横たわる宗顕の遺骸と血刀を手にする新之輔を見やって、ついで信じられないことを叫んだ。
「風間新之輔!宗顕さまを切るとは乱心したか。おのおの、風間を逃がさずに切れ!」
(なにっ!)
新之輔は、長尾の言っている意味が理解できなかった。
不意に脇の下に鋭い痛みを感じた。
背後から繰り出された槍が、肋骨に当たって滑り、脇腹の肉を切り裂いたのだ。
新之輔は反射的に、背後にむかって脇差を振るった。
「ぎゃっ!」
悲鳴とともに、槍を持つ手を切断された男が、背後にのけ反った。その凄惨な光景に、頼宗と長尾将左衛門があわてて家士たちの背後に逃れた。
わき腹に刺さった槍を引き抜くと、別の男が切りつけてきた。それを横転びに避けて、相手の膝の裏側を切った。
男が悲鳴をあげて、仰向けに倒れた。
新之輔は男の落とした太刀を素早く拾うと、右手に太刀、左手に脇差を構えて、自分を取り囲む男たちを見やった。
このままでは不利だった。前後左右からいっせいに襲われれば、防ぎようがない。
男たちは、ふたりの仲間が切られたことで慎重になっている。
(機会は今しかない)
新之輔は手薄なところを目掛けて、二刀を振り回しながら攻め込んだ。
手足が本能的に動いた。
長身から繰り出される攻撃は、迫力があった。刃先が風を切る鋭い音を発し、触れたところで血しぶきが上がった。
新之輔自身も身体のあちこちに刀傷を受けたが、強い衝動に駆られているだけに、さほどの痛みも感じない。
わずかに血路が開いた。
新之輔はその隙間を走り抜けた。
前方に、頼宗をかばいながら逃げていく、小柄な家老の姿をとらえた。
(おのれ、長尾将左衛門。おれを罠にかけたな)
長尾が背後を振り返り、新之輔の姿を見て、仰天したように駆けだした。
(逃がすかっ!)
新之輔は脇差を捨て、刀を片手に長尾めがけて突進した。
行く手に、槍を持つ新手が現われた。
「ちっ」
新之輔は直角に向きを変え、襖に体当たりして廊下に出た。そのまま庭に飛び降り、池沿いに走った。
池の背後に回り込んで、塀のところで息を入れた。
そのときになって初めて、背中や横腹、腕などに傷を負っているのに気付いた。血を失って、疲労がどっと押し寄せてきた。大きく息を吸い、細く長く吐き出して、呼吸を整えた。
槍部隊を先頭にした男たちが、じりじりと迫ってくる。
(このまま犬死にするのか)
新之輔は自嘲気味に思った。
家老と密談して、ほくそ笑む頼宗の顔が浮かんだ。頼宗は切腹を申し付けず、こんな卑怯な罠を仕掛けたのだ。
(おのれ、このままで済むと思うな)
強い怒りが力を生み出した。そして冷静に状況を把握した。
池が邪魔をして、藩士たちは左右の狭い空地からしか近づけない。左手は槍を構えたふたりが先頭に立ち、右は庭石が進路を遮って、先頭に立つのは槍を持つひとりだけだ。
新之輔は刀を右わきに引いて、右に走った。
あわてて男が槍を繰り出す。身体を沈め気味にかわして、槍の柄を掴んだ。すかさず刀を振るって、男の頸根に叩き込んだ。
「ぐ、うっ」
くぐもったうめき声をあげて、男が倒れ込む。
それに目をくれず、新之輔は刀を地に突き立て、男から奪い取った槍を両手に持つと、今度は左からくる敵に突進した。
槍対槍では、手足の長いほうが有利だ。新之輔の槍の先が男の胸を捉えた。横並びの男の槍が右腕をかすめたが、かまわず勢いのままに突き進んだ。
すさまじい力だった。
男の胸を貫いた槍は、背後にいるもうひとりの男の身体に突き立った。
信じられぬ光景に、藩士たちの動きが一瞬止まった。
新之輔はその隙を逃さなかった。
槍から手を離して反転すると、地に突き立てた刀を手にし、弾みをつけて庭石を踏み台に飛び上がった。
――巨体が宙を舞った。
そして、高い塀の上にふわりと着地した。
新之輔は塀の上を走った。
途中、塀が交差しているところがあったが、城の奥に向かうほうを選んで走った。
海滑城は、海に面した陸地の先端に立つ城である。最奥部は松林になっていて、その先は切り立つ崖で行き止まる。崖の下には鋭い岩が牙を剥き、波が当たって飛沫を立てている。
塀を走る新之輔目がけて、矢が飛んできた。新之輔の動きが速いので、狙いが定まらない。それでも一本の矢が、右手首を貫いた。
「くっ」
衝撃で刀を取り落した。
取りに戻るひまはない。
新之輔は苦痛をこらえて、そのまま走った。
松林が見えてきた。裏庭に飛び降り、松林目がけて走った。
大量の血を失って、意識が薄れてくる。
もはやこれまでかと思ったとき、崖のところに到達した。
はるか下に、岩を噛む白い飛沫が見えた。
背後から追手が迫ってきた。
(ええい、なるようにしかならんわっ!)
新之輔は覚悟を決めると、空中目掛けて飛び出した。