戻る / 目次 / 次へ

2日目

昇は目覚めたとき、いつもと違うものを感じていた。なにかものすごい充実感。掛け布団をめくると、信じられない光景を目にした。パジャマの前が、大きくテントを張っていた。こんなの10年ぶりくらいだ。慌ててパジャマのズボンを脱いだ。ズボンのゴムが引っ掛かって、突起物が弾んだ。
昇はさっそく、横の布団で寝る千秋を揺り起こした。
「叔父さん、起きて。すごいものを見せてあげる」

二人は8時に宿を出て、新潟へ向けて走り出した。水上インターチェンジから関越自動車道に入り、新潟の県境を超えてたところで、越後川口サービスエリアに寄った。
広い駐車場の端は高台の散策路になっていて、ここから信濃川の雄大な眺めが望める。サービスエリアを遠巻きにしたように、複雑に曲折した河川敷がつづき、その合間を縫って大河がゆったりと流れている。
「ほう、これはすごい!まるで360度のパノラマ映像を見ているようだ。ここに寄った甲斐があった」
昇が感嘆の声を上げた。
その横で千秋が嫌味を言った。
「これで、今朝起きたてに見せつけられた生々しい穢れが、きれいさっぱり浄化された気がする」
「あれっ、叔父さん。それって私に対するやっかみでしょう。ま、82歳じゃ、立つこともないだろうけど」
「何を言う!わしだって朝立ちすることがあらあ」
「夢の延長線上でね」

サービスエリアを出て関越自動車道を走り、長岡ジャンクションで北陸道に入った。しばらく走って、三条燕インターチェンジで下りて、北方文化博物館に向かった。このあたりはのどかな田園風景が広がっていた。
北方文化博物館は、広大な敷地を擁する純和風の屋敷である。
入場料を払って屋敷内に入ると、白髪の小柄な爺さんが玄関のところにいた。よほど暇なのか、こちらに寄ってきて、館内の案内をしましょうか、と言う。千秋が面倒くさそうに断ろうとする前に、昇が「じゃあお願いします」と頼んだ。
老人は、案内人にありがちなぺらぺらとしゃべるのではなく、必要なところで簡潔に説明するので、好感が持てた。

「ここは新潟の豪農、伊藤家が代々使っていた屋敷です。それを昭和21年に、北方文化博物館として寄贈されました。戦後の私立博物館としては、第一号になります」
「だったら、二号さんはどちらなの?」
千秋が軽口をきいて、それを訂正するように、昇が訊いた。
「ここの敷地はどれくらいの広さですか?」
「全敷地で8,800坪になります」
今度は千秋が真面目に聞いた。
「ところで、さっきあんたは広瀬と名乗ったが、今夜わしたちが泊まる宿も広瀬館とか言ったな」
老人がまじまじと千秋の顔を見た。
「これは偶然の一致だ。私はその旅館の関係者で、そこに寝泊まりしています」
「じゃあ、宿でお会いするかもしれませんね」
横から昇が言った。「失礼ですが、広瀬さん、お歳は?」
「私が今もってここの案内人を務めているのは、年寄りの冷や水と言われそうですが、今年82歳になります」
昇と千秋が顔を見合わせた。
「じゃあ、それも偶然の一致です。この人も82歳ですよ」
昇が千秋を差して言った。
老人が思わず千秋の手を握って、握手した。それからおずおずと尋ねた。
「あのう、お二人はどういった関係でしょう?」
「親密な関係です」
千秋が平然と言って、あわてて昇が訂正した。
「叔父と甥の間柄です。この人はちょっと変人に見えるでしょうが、私の母の弟にあたります」
「誰が変人だ」千秋がにらんだ。

北方文化博物館を出ると、次は瓢湖(ひょうこ)に向かった。ここは10月から翌年の3月にかけて、白鳥の飛来地として知られている。
瓢湖は住宅地と田畑地の境目にあった。二人は車を止めて、水辺の公園を歩いた。白鳥の数はまだ少なく、代わりにカンムリカイツブリほかの野鳥が、水面のあちこちにたたずんでいた。
歩きながら千秋が言った。
「博物館の爺さん、よほどお前に気があったみたいだな」
「どうしてそんなこと言うの、叔父さん」
「だって、ハエ取り紙のように、お前にベタベタくっついていたじゃないか」
「ぼくは別に、気にならなかったけど」
「あれは変態爺だ。どことなく歌舞伎の女形の雰囲気があった」
「そうかなあ。品の良い穏やかな顔だと思ったけど」
「お前なあ――」
千秋は言いかけて、気を取り直した。「ヘギそばを食いに行くぞ」



遅い昼食のあと、福島潟に行った。
潟――海と切り離されて出来た湖沼――の多い新潟の原風景ともいえる所で、広大な草地と湖面が入り組んだところである。
ここには、道の駅ならぬ水の駅『ビュー福島潟』がある。らせん状の独特の外観をした建物で、回廊式に歩いて上階に行ける。
千秋がカメラを構えて、昇に手を広げさせ、ちょうど建物を抱えたアングルで、写真を撮った。
「よし、巨人の昇の撮影終了だ」千秋が言った。
施設は3階までは無料だが、4階以上は有料ゾーンとなっている。二人は入場料を払って上階まで行った。
この日は晴れていたので屋上展望台が解放されていた。昇は行くのを渋る千秋を説き伏せて、展望台まで上った。ここからは、福島潟全景と遠く山並みや海が、一望のもとに見られた。
外気に開放されたスペースだったので、臨場感があった。強い風が吹いて、屋上を転がり落ちるような恐怖感があった。高いところが苦手な千秋は、昇の腰にしっかりとしがみついて、早く戻ろうと騒いでいた。

この日の宿、月岡温泉に着いたのは、夕方4時頃だった。
きれいに水打ちされた玄関前で、いったん車を止めて荷物を降ろすと、昇だけ車を運転して敷地奥の駐車場に行った。
若い女二人が苦労して、大きなスーツケースを軽車の後部荷台から、降ろそうとしていた。通りかかった昇は、黙ってスーツケースを持ち上げて、地面に降ろしてやった。
昇が旅館のラウンジに行くと、すでに千秋がチェックインを済ませていた。
先ほど駐車場にいた女たちがやってきて、昇に微笑みかけて頭を下げた。それに気づいた千秋が、昇を肘で突いた。
「お前、また何かやったな。あの女たちの目つきを見ろよ」
「ええっ、私は何もやっていないよ。彼女らが勝手に挨拶しただけでしょう」
「ふん、絶対何かやってる。お前は昔から天然タラシだったからな。それは今も変わらんわ」

まず温泉に入ることにした。仲居が言うに、ご希望であれば50分間の貸し切りにすることも出来ます、と言う。千秋が、その必要は無い、誰でも自由に入ってもらってくれ、と断った。
「叔父さん、ひょっとして、さっきの女性たちが入ってくるのを、期待しているんじゃないの」
昇が茶々を入れた。
脱衣室には休憩用のソファーが置かれ、仕切り戸なしに浴槽に繋がっていた。
ここは硫黄泉で、美肌効果があるという。確かに、肌がつるつるしてきて、湯がやわらかい印象がある。
「失礼します」
声がしたほうを見ると、北方文化博物館にいた老人が、脱衣室に入ってきた。
浴衣姿の老人は手早く裸になると、温泉に足を入れながら言った。
「貸し切りではないと伺いましたので、お相伴に預からせていただきます」
小柄な老人の裸は、すんなりとして、少年のようだった。82歳と言っていたが、シミのないきれいな肌をしている。

二人きりのところに、老人が入ってきて、少し気まずい空気が流れた。それを打ち消すように、昇が老人に訊いた。
「あなたは、この旅館の関係者だとおっしゃっていましたが――」
老人がおっとりと答えた。
「ええ、前はこの旅館の主人をやっておりました。私が75歳になったとき、娘に宿の経営を任せました」
「博物館のほうは隠居仕事ですか」
「ええ、地元の方たちにはなにかとお世話になったものですから、ご恩返しの積りです」
途中で千秋が、先に風呂を出て行った。

「東京から来られたのですか?」
二人きりになると、老人が親しみを込めて昇に訊いた。
「いえ、私は神戸からです。埼玉の浦和に住む叔父と合流して、ここまでやって来ました」
老人がそっと昇の横に移動して、ささやくように言った。
「旦那さんは、本当にいいお顔をされてる。それに、叔父さんと仲が良くて、うらやましい限りです」
「叔父と会ったのは5年ぶりですよ――」
老人の肌が触れて、昇は言葉を切った。
すぐ間近に老人の存在を感じて、どぎまぎした。昇は、無意識に腕を伸ばして、老人の身体を抱き寄せていた。
二人の目が合った。少しの間があって、どちらからともなく顔を寄せて、唇を合わせた。

昇が部屋に戻ると、千秋がカジュアルウェアに着替えて、待ち受けていた。
「遅かったじゃないか。風呂で何をしてた」
「べつに。広瀬さんと話をしていただけだよ」
「腹が減った。飯にするぞ。早く着替えろ」
「着替えなくてもいいじゃないか」
「浴衣姿で行くのか。せっかくレストランでディナーを食べるんだ。紳士らしい服装にしろよ」
「叔父さん、女でも引っ掛けようってのか」
昇があきれたように言った。

宿の食堂に行って席に着くと、少し離れた席にラウンジであった若い二人連れの女性がいた。目が合うと、そっと微笑みかけてくる。
「あの女、お前に気があるみたいだぞ」と千秋が言った。
昇は顔をしかめた。
「冗談はやめてくれ。女の話は――いや、やめとく」
「おい、なんだよ。言いかけたことをやめるな」
「だから、女の話は聞きたくない、と言ってるんだ」
「そうか。だったらあの女をこっちに回してくれ」
「82歳の爺さんが、相手をするって言うの。アメリカじゃ、叔父さんのような人間をバッドボーイって呼ぶんだ」
「ボーイ?いい言葉じゃないか」
「日本語に直すと、ワルって言うんだ」

戻る / 目次 / 次へ

20/07/23 07:47 神亀

top / 感想

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b