目 次
あけぼの町物語(後編) - 第7章 葛竚マ(5)
(5)

次の水曜日。
週末しか顔を見せない英彦が、この日は珍しく一成に同行していた。勤めている会社を、休んだと言う。
ふたりは、神田橋界隈を歩いていた。
「懐かしいなあ。このあたりは、以前住んでいたことがあるんだ。あっ、ちょっと待って」
英彦は途中で立ち止まった。ビルの狭間に、小さな社(やしろ)がひっそりと立っていて、わきの幟に、「出世不動尊」と書かれている。
英彦は社の前に行って、両手を合わせた。
「若い頃は毎朝、出勤する前に、ここでお参りしていたんだ」
一成は、デコちゃんの意外な一面を見た思いがした。
「ふーん。で、ご利益はあったの?」
一成が訊くと、英彦はあっさりと答えた。
「勿論あったさ。これから行くところも、あって欲しいな」

目的の事務所は、軒を接して立ち並ぶ古いビル内にあった。
狭いエレベーターに乗って、5階で降りると、すぐ目の前に事務所のガラスドアがある。
質素な事務室を通って、案内された斎田会長の部屋に入ったとたん、ふたりは事務室とのギャップに驚いた。
さほど広くないが、持ち主の個性を強烈にアピールした部屋だった。
濃茶色の分厚いカーペットに、赤いローズウッドの鏡板張りの壁、その一面を占める棚には、高価そうな壷などの陶器類や古めかしい写真が飾られていた。それらをブラケットの明かりが、柔らかく包み込んでいる。
部屋の奥、窓際に重厚なマホガニー製のデスクがあり、その向こうに白髪小柄な老人が、ちょこんと座っていた。
斎田宗春、80歳。関東一円に展開する、レストランチェーン店の経営者だ。いかにも利発そうな小作りの顔の中で、二重瞼の小さな瞳がいたずらっ子のように輝いて、大きな鼻が味わいのある風格を見せている。

一成が英彦の紹介をして、今日来た用件を遠まわしに話し出した。
その間、老人は押し黙って無表情に、一成の顔から英彦の顔へと視線を移す。
一成は、話し辛くて仕方がなかった。
いっぽう英彦は、何気なく棚の方を見て、写真立てのひとつに興味を持った。
セピア色になるほど古ぼけた写真に、3人の男が写っていた。大柄な男を真ん中に、両側の若者は、頭半分ほど背が低い。若者のひとりは、若い頃の斎田会長のようだ。
(この写真はたしか、父のアルバムに――)

「駄目だ。お前には貸せん!」
老人の凛とした声に、英彦は視線を戻した。
「どうしてですか、叔父さん」
一成が気色ばんで訊くと、斎田会長が冷然と答えた。
「言うまでもない。お前は信用できん。一族の面汚しだ」
きっぱりと言ったあと、会長は英彦に目を向けた。
「ところで、あんた、以前会ったことがあるかな?」
「いえ、ないと思いますけど」
英彦が考えながら言うと、斎田はまぶしそうに目を細めた。
「なんか見覚えがあるような気がするが――ところで、あんた、囲碁をやるのか?」
英彦は驚いた。(何でそんなことを知っているんだ?)
「手慰みにやっていた時期はありますが――会長はなぜ、私が囲碁をやると思われたのですか?」
「あんたが、熱心に碁筒を見ていたからだ」
英彦は理由が分かった。先ほど観察していた写真の下の棚に、囲碁セットが置かれていたのだ。
「どうだ、わしと碁を打たんか?」
斎田会長が唐突に言った。「わしに勝ったら、一成の話を聞いてやらんでもない」
「えっ、1億円貸していただけますか?」
「わしに勝ったらな」

さっそく囲碁の対決が始まった。握って英彦の先番。
ゲームが進むにつれ、英彦の厚み、斎田会長の実利、という展開になった。そして試合の中盤、どうも英彦に不利な形勢となっていた。地合いでどうしても足りないのだ。
こうなると、相手の弱い石を殺すしかない。
「人間、潔さも肝心だ。わしだったら、もう、投了するな」
斎田会長が、聞えよがしに言った。
それも聞こえないかのように、英彦は盤をにらみつけている。それからおもむろに黒石をつかみ、盤上に置いた。いよいよ本格的に、相手の石を葬りにいく手だ。
「おや、元気のいいこって」
斎田会長が、すかさず応戦した。
小考して、英彦が次の手を打つ。
斎田は、うんざりした表情を浮かべながらも、慎重に手を進めた。
数手進んだとき、場が少しもつれてきた。
やがて盤面は、くんずほぐれつの大乱戦となっていた。
ふたりとも相当の負けずきらいだ。80歳の老人と63歳の男が、顔を真赤にし、眼をギラギラと輝かせて、一心不乱に読みふけっている。
傍で見ていた一成は、半ばあきれかえった。
そして、ついに決着をみた。
英彦が妙手を放って、老人の大石を殺してしまったのだ。
会長は膝を握り締めて、見るも無惨な盤上をにらみつけていた。それを英彦は、涼しげに見ている。

「じゃあ、叔父さん、1億円貸していただけますね」
碁を観戦していた一成が、横から言った。
斎田はムスッとして答えた。
「1億円?何のことだ?」
一成は信じられない思いで、叔父の顔を見た。
「さっき約束したじゃないですか。こちらが勝てば1億円貸してやるって」
「へーえ、そんなこと言ったかなあ」
老人は、しれっとしていた。
一成は叔父の顔をグッとにらんだ。
英彦が、一成の袖をそっと引っ張った。
しかし遅かった。彼の耳に、一成の声が聞こえてきた。
「叔父さん、いくら商売でたくさんの人を騙してきたからって、甥のぼくまで騙すことはないでしょう」
「なにおっ!この風船団子が!もう二度とわしの前に顔を出すな」
「ああ、結構ですよ。ただし、約束は守ってもらいます」
「何の約束だ。わしは知らん!」
「知らないだと?じいさん、尻を引っぱたくぞ」
そこで斎田会長が、小さな体を震わせて怒鳴りだした。
「帰れっ!お前の顔など見たくもない。とっとと失せろ!」
叫んだあと会長は立ち上がった。そして、話は済んだとばかり、デスクに戻ろうとした。ところが興奮しすぎたのか、短い足がソファーの端に引っかかった。老人は、ものの見事に一回転して、床に倒れ込んだ。
「あれっ、叔父さん、大丈夫ですか?」
一成が、ちっとも真実味のこもっていない調子で、声をかけた。

斎田会長の事務所を出たあと、英彦は一成をにらんだ。
「イッちゃん、あんたの尻を蹴飛ばして、南米まで放り出したい気分だよ」
「だったら、ビザが要るな」
「そんな冗談で、金を借りられたら世話ないや。せっかく碁に勝って、これからというときに、イッちゃんがぶち壊しにしたんだぞ」
「ああ、私が悪うござんした。家に帰ったら、ひとりで押し入れに閉じこもって、さめざめと泣きながら反省するよ」
「イッちゃん!」
英彦がめずらしく声を荒げた。

――**――

「それで、いつまでに調べればよろしいのですか?」
「早ければ早いほどいいけど――どれくらいかかりそう?」
「一週間ほどいただければ――」
「ああ、お願いするよ。こんなこと、堀田さんにしか頼めないから」
白取英彦は、堀田弁護士の事務所に来ていた。
堀田治夫は、白いものの目立つ頭髪、丸っこいおでこと薄墨で刷いたような眉毛、なめらかな頬から二重になりかけた顎の線に、どことなく中性的な色気が漂っている。
英彦の勤めている会社が使っている弁護士事務所のひとりだが、これまで何かと個人的に便宜を図ってくれていた。英彦は、この60に近い弁護士に男色嗜好があり、自分に気があると見抜いていた。
英彦は弁護士に対し、プライベートな用件だと前置きして、一成から預かった借金関係の書類をチェックして貰った。ついで、野本の経営する不動産屋の調査を依頼した。叩けば、窒息しそうなほど沢山の埃が出てくるはずだ。
実は、堀田には別の顔があって、ハッカー顔負けのコンピューターの知識がある。彼はその特技で、通常では入手できない情報を引き出すことが出来るのだ。もちろん違法だから、英彦以外は知らない秘密だった。

最初の用件が済むと、英彦はポケットから一枚の古ぼけた写真を取り出した。斎田宗春の部屋にあった写真と同じだが、自宅で父の遺品の中から探し出したものだ。
英彦は、写真を堀田に渡しながら言った。
「真ん中にいるのは私の父です。そして左側は斎田宗春。あなたもご存じのレストランチェーン店の会長だ」
「ああ、お父さんは分かります。あなたの面影がありますね」
弁護士が、写真と英彦を交互に見て言った。
「もうひとりの人物は知らない。それで、堀田さんに調べていただきたいのは、不明の人物の名前や、3人の関係です」
「若い二人は、見たところ、20歳前後ですね。あなたのお父さんは、30前かな」
「ええ。父の履歴書は、思いつく限り書きましたから、それを参考に調べてください」
「デリケートなご依頼ですね。聞き込み調査が必要になるかも知れません。小室さんを使ってもいいですか?」
小室というのは、堀田がときどき使っている興信所の人間だ。
「構いませんが、くれぐれも、斎田会長には気づかれないようにお願いします」

打ち合わせが済んだ後、二人は連れたって事務所を出ると、近くのサウナに行った。
英彦は知っていた――堀田がサウナ好き、というよりも、男の裸を見るのが大好きであることを。
案の定、ロッカールームで服を脱いでいると、堀田がチラチラとこちらを見ている。
(難しい仕事を頼んだのだ。サービスしてやるか)
英彦は全裸になると、前を隠さず堀田の前に突っ立った。
「じゃあ、汗を流しますか」
そのときの弁護士の顔は見ものだった。ギョッとしたように英彦の股間を見て、慌てて目を逸らし、そこで誘惑に負けてふたたび視線を戻す。唇が渇くのか、しきりに舌で艶やかな唇を湿らせている。
堀田の様子を見ていて、英彦はふと、銀狐に泊まった夜、ベッドにもぐり込んできた老人を思い浮かべた。

浴場に入ると、客は殆どいなかった。英彦はごく親しげに、堀田の腰に腕を回した。
堀田がビクッとして、体を緊張させる。
英彦はのんびりと言った。
「依頼の件は、よろしくお願いしますよ。堀田さんだけが頼りなんだから」
そして、入浴客の死角になっているところに連れて行った。
向き直ると、堀田が真意をいぶかるようにこちらを見あげた。英彦が思いを込めてうなずくと、弁護士の顔がくしゃくしゃになった。
「白取さん――」
弁護士がしがみついてきた。そして英彦の前にうずくまると、銀狐の老人や年配の美術館長がやったのと同じことを始めた。
湿った温もりに包まれて急激な昂りを覚えながら、英彦の頭の中は醒めていた。
(これで男にしゃぶられるのは3人目だ。いや、義父もいるから、4人目か。俺って男色に目覚めつつあるのかなあ)


[17/02/20 07:34 神亀]
前のページへ
次のページへ