目 次
海路の日和W -  (2)
(2)

堀田内装の社長が訪ねてきた日の夜、桂樹は、三田村社長の自宅を訪問した。
風呂上がりの三田村は、和服姿で現れた。さっぱりとした表情をしているが、日焼けした顔は色が褪めて、目許が疲れていた。



桂樹は聞いた。
「朝の散歩は続けておられるのですか?」
「この頃は、毎朝とはいかない――」
「――体調でもお悪いのですか?」
「いや、そうでもない――」
三田村は、言葉を濁した。
「きょう、堀田さんがわたしの家に来られました」と桂樹は言った。
「ああ、用件はだいたい分かっている。それで、きみは彼の会社に行くのかね?」
「いえ、まだ決めていません」
「そうか――」
三田村は、なにか言いたそうだったが、黙っていた。
桂樹は思い切って、堀田から聞いた話をした。
「社長は堀田さんに、小倉建設が大きな試練を受けるとおっしゃったそうですが――」
三田村は、目許を指でもみほぐした。
「ああ――そのとおりだ」
「――」
「大場と伊丹が、警察の事情聴取を受けた。彼らに逮捕状が出されるのは、時間の問題だろう。警察側は確たる証拠を掴んだようだ」
「――」
「そのうち、わたしの経営責任にも遡及するだろう。最高責任者はわたしだからね」

桂樹は断定するように言った。
「警察には――わたしから、何も話していませんよ」
「分かっている。きみが前に言ったように、嘘はいつかばれるものだ」
「会社はどうなるのですか?」
「刑事罰は、わたしや大場たちの個人にかかるだろう。その点、わたしは覚悟を決めている。大場たちのやってきたことは、社長として当然知っておくべきことだった。しかし残念でならないのは、会社が一定期間の営業停止処分になるだろうってことだ」
「そうですか。顧客の信用を失いますね」
「ああ――もしそうなったとしても、当然のむくいだと思う」
三田村は、小さくため息をついた。「また一から出直しだ。真面目に働いている社員たちには、本当に申し訳ないことをした。彼らには、何の罪もないのに」
「――」
「きみが言った、ルールと責任という言葉が、今になってわたしの胸の中で、大きく響いているよ」
「あのときは、生意気なことを言いました」
「きみは正しいことを言ったんだ。われわれ経営陣は、悪習にどっぷりと浸かりすぎて、そんな基本のことも見失っていた。いや、頭で分かっていても、ずるずると安易な道を選んできたんだ」
「――」
「わたしはどんな罰も受けるつもりだ。しかしその前に、社内風紀の一新を図ろうと思っている」

そこで三田村は、桂樹の顔を真っ直ぐに見た。
「今週の役員会で、緊急動議が出された――」
三田村は一呼吸おいて言った。「きみの懲戒処分の取り消しについてだ。提案したのは長尾相談役だ。きみが暴力を振ったのは、確かに悪い。しかし、きみの行為は、小倉建設のために正しいことをやろうという、真摯な気持ちの表れだったという理由だ。きみの上司だった白取や和泉が、真っ先に賛同の意を表明した。その結果、きみの処分は取り消しとなった。――もっとも、経営陣のほうが間違っていたのだから、当然のことだろうけど。この件は後日、きみのほうにも連絡があると思う」
「ありがとうございます」
桂樹は頭をさげた。
「こちらが謝らねばならないことだ。きみが退職した後に訂正するなんて。きみにとっては、何の足しにもならないだろう」
「そんなことはございません」
桂樹は驚いて否定した。「損得なんて問題じゃありません。これでわたしの気持ちもすっきりしました。ありがとうございます」
三田村は桂樹の顔をじっと見ながら、言いにくそうに続けた。
「小倉建設はこれからが正念場だ。そのためには、きみのように筋の通った男が必要なんだ。そんな社員が出てくればいいけど――」
桂樹は何とも答えようがなかった。ふと千秋鉄工のことが頭に浮かんだ。
「千秋鉄工は――千秋社長の弟さんが頑張られているそうですね」
「ああ――世間の耳目を集めているときだが――今まで通り、発注するつもりだ。彼らが真面目に仕事をやっている限りは」
桂樹は黙って頭をさげた。口に出して言わなくても、三田村社長は理解してくれていたのだ。

三田村は、少し躊躇しながら言った。
「長尾相談役は、今年退任する予定だったが――もう一度会長になられる」
桂樹は、驚きを押さえて訊いた。
「でも――伊藤会長は、どうされるのですか?」
三田村は眉をひそめた。そして不快げに言った。
「伊藤さんは体調を理由に退任される。警察では、あの人も捜査の対象としたようだ」
社長は多くを語らなかった。しかし桂樹には、その心情が痛いほど分かっていた。もともと今回の贈収賄事件は、伊藤会長と大場副社長の密室の会談から始まったことだ。
桂樹は、急に憤りを覚えた。責任を取ろうとしない重役たちの中で、三田村社長は逃げも隠れもしないで、会社のため、社員たちのために、職責をまっとうしようとしている。それに比べて、伊藤会長は――。
三田村が、独り言のようにしんみりと言った。
「長尾さんのご性格からすれば、会社の非常時に、引退などできなかったのだろうな」

――◇――

次の日曜日、桂樹は、長尾相談役に連絡をとった。長尾は自宅にいて、いつでも会えるということだったので、昼過ぎに訪問した。
久しぶりに見る長尾は、頭を散髪したてで、すっきりとしていた。いつものおっとりとした笑顔で、桂樹に話しかけた。
「やあ、元気そうだね」
「相談役こそ、お元気そうです。少しヘアスタイルを変えられましたね」
「お、その顔は、わたしが爺臭くなったと言いたそうだな」
「とんでもございません。風格のある素敵なお顔です」
桂樹はお世辞を言い、話題を変えた。「先だって、三田村社長にお会いしました」
「そうか――きみに会えて、三田村さんも喜んでいただろう」
桂樹は答える前に、長尾の顔を真っ直ぐに見た。ユーモアを含んだ慈愛に満ちた目が、問いかけるようにこちらを見ている。会社の窮地にもかかわらず、その表情は穏やかだった。(こちらに心配をかけまいとして、無理をしているのだろうか)

桂樹は老人に聞いた。
「どうして、三田村社長が喜ばれたとお考えなんですか?」
「三田村さんは、公明正大な方だ。あの人が、社内の特定の人物を贔屓にすることは、絶対にない。それでも分かるんだ。あの人がきみを、おおいに買っていたことがね」
「――」
「じつは、今だから言えるが、きみの懲罰についてトップ会談があったときのことだ。あとで人事担当役員に聞いたのだが、伊藤会長と大場副社長が、きみの懲戒免職を強く主張したそうだ。ところが、社長は頑として応じず、戒告処分で落ちついたそうだよ」
(そんな経緯があったのか)桂樹は、三田村社長の心遣いに感謝した。
「相談役にも、お骨折りいただきました。わたしの懲戒処分を、取り消してくださったそうですね」
「三田村さんに聞いたのか――」
長尾は手を振った。「あれはわたしが決めたんじゃない、取締役全員の決裁だよ」
「でも、相談役が、緊急動議を出されたのでしょう」
桂樹は、頭をさげた。「ありがとうございました」
「いや、なに」
長尾は、照れくさそうに言葉を濁した。

桂樹は老人を見つめて言った。
「それにしても、相談役はまったくお変わりありませんね」
長尾がふっと笑った。
「成長が止まったと言うことかな」
桂樹は、三田村社長に聞いたことを質問した。
「相談役は、リタイアされないそうですね?」
長尾はちょっと困った表情をしたが、言葉少なに「ああ」とだけ言った。
「どうしてですか?」
「どうしてって――」
長尾は、おどけたように微笑んだ。「ボケ防止のためだよ」
「でも相談役は、これ以上会社にいると、老害と言われかねない、とおっしゃっていましたが――」
長尾は桂樹の顔を、のぞき込むように見た。
「きみ、年寄りをそんなに追いつめるもんじゃないよ。少しは、わたしに逃げ道を用意してくれないと」
相談役は微笑んだ。
桂樹のほうは笑う気分ではなかった。彼は老人の目を見ながら、そっと言った。
「わたしは、戻るべきでしょうか?」
長尾は少し考えて、噛んで含めるように静かな口調で言った。
「わたし個人の希望は、きみに戻ってもらいたい。おそらく三田村社長も、同じことを考えているだろう。でも一方で、きみに後悔してもらいたくないと思っている。だからきみは、誰にも左右されず、じっくりと考えて、自分自身の結論を出せばいいんだ」

長尾の家を退出するとき、相談役は桂樹の手を両手で握った。そして桂樹の目を見ながら言った。
「高山くん、これからきみがどこで働こうと、ときどきわたしの家に遊びにおいで。いいかい、約束だよ」
桂樹は自分の手を握る、柔らかい手の感触にどぎまぎした。そして、老人の示した親愛の情に、はにかんだ笑みを浮かべながら、そっとうなずいた。
[20/04/20 07:33 神亀]
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