■ 海路の日和�W - (3)
(3)
最後に訪問した日亜電気の神山会長は、さすがに鋭かった。彼は桂樹の挨拶を黙って聞いていたが、話が終わるとおもむろに言った。
「きみが小倉建設を辞めたのは、おそらく正しい判断だろう」
桂樹が怪訝な表情をするのを見て、彼は説明した。
「建設業界は、いまだ古い体質と商慣習をもっている。以前からきみを見ていて、そんな環境はきみに合わないのじゃないかと思っていた」
桂樹が黙っていると、神山会長は微笑んだ。
「わたしが静岡工場の仕事を持ちかけたとき、きみは断った。おそらくそのことで、きみは社内的に厳しい立場に追いやられたのだと推測する。でも今なら理解できる、なぜきみが断ったのか。われわれ財界人は、広範な情報網がある。小倉建設が裏で何をやっていたのか、わたしには分かっているつもりだ」
内心は驚いていたが、桂樹は黙って神山を見た。
「あのとき、きみが断ったのは、顧客であるわたしに迷惑がかからないようにする、肝の据わった行為だと思う。きみが口の固いのは分かっているが、なにか言いたいことはあるだろう?」
「小倉建設を辞めた後で、とやかく言いたくはありません。わたしは自分の信念を大切にし、自分なりの結論を出したのですから」
神山会長は、桂樹の顔をしばらく見ていたが、おもむろに聞いた。
「きみは、うちの会社で働く気はないか?」
とつぜんの申し出に、桂樹はとまどった。
「自分が何をやりたいのか、まだ気持ちの整理がついていませんから」
「しかし、定職もなしに、そんなにのんびりとしてもおれないだろう」
神山の申し出はありがたかったが、桂樹はかたくなに言った。
「会長のお言葉は、とてもありがたいと思っています。でも後悔したくありませんから、自分のスタンスをじっくりと見つめてみます」
「きみらしいな。じゃあ当分は充電期間か――」
「ええ。これまで満足な家庭サービスもしていませんから、どこかにのんびりと旅行でもしようと思っています」
「ハワイはどうだね?」
「エッ!」
桂樹は一瞬、驚いた。ハワイと聞いて、贈収賄について桂樹が初めて気づくきっかけとなった、窪田議員の接待旅行を思い浮かべたからだ。
そんな事情も知らず、神山が笑みを浮かべて言った。
「ハワイ島にうちの保養所があるんだ。そこにきみのご家族を、招待しようと言ってるんだ。どうだね?」
「とても魅力的なお誘いですね――」
そう言いながらも桂樹は迷った。職を失っているこの時期に、アンリは喜ぶだろうか?
「ハワイ島は、いいところだぞ」
桂樹の思いに無頓着に、神山は話をつづけた。「オアフ島にくらべ、都市化が進んでいないだけに、海がきれいだ。それに、住民も素朴だ。どうだ、行くか?」
桂樹が返事をする前に、神山は立ち上がって、デスクの電話を取った。
「厚生部の稲垣を呼んでくれ。ハワイビレッジの資料を持って、大至急だ」
神山が席に戻ると、桂樹はおずおずと言った。
「あのう、会長、わたしはまだ、行くともなんとも言ってませんよ」
「なあに、構わん。説明だけでも聞きなさい」
桂樹の意志に関係なく、ものごとはスピーディーに行われた。厚生部長が部屋に来て、神山会長に急かされながら、ハワイの保養所の説明をした。
説明が終わると神山は、桂樹に言った。
「スケジュールが決まったら、稲垣に連絡しなさい」
それから厚生部長に向き直って「稲垣、わたしの大事なお客さまだ。ビップ待遇で頼むぞ。それから、ビレッジ滞在中の費用は、すべてわたしに付け替えてくれ」
桂樹はびっくりした。
「会長――それは困ります」
「なあに、きみへの餞別だ」
神山は、さらりと言った。
「――と言う訳だ。失業中の時期だけど――行ってみるかい?」
「素敵!ぜひ行きましょうよ」
桂樹は帰宅すると、さっそく神山会長の話をアンリに伝えていた。
「考えてみると、結婚式以来、きみには何もしてやってないな」
「あら、何回かプレゼントをいただいたじゃない」
一瞬、桂樹は返事に詰まった。うしろめたい思いのときに贈ったプレゼントのことだ。
彼はそっとアンリをうかがい、妻の素直な表情を見て、バツが悪そうに微笑んだ。
「ぼくが言ってるのは、だれにも邪魔されずに、きみと二人きりで過ごす時間が少なかったと言うことだよ」
「じゃあ、ハワイで実現できるわね」
「ああ――G・Gが一緒でなければね」
「G・Gは連れて行かないの?」
「彼には大使館の仕事があるだろ。それに、たまには子離れの味も教えてやらないとね。きみとぼくと貴史――水入らずの親子旅行だ」
「でも、G・Gが聞いたら、仕事を休んででも、ぜったい一緒に行くって言うわ。人一倍の寂しがりやだから」
「彼にはぎりぎりまで話さないさ。きみも黙っていろよ」
夕食の席で、いつになく明るい表情のアンリを見て、ゲイルが軽口をたたいた。
「アンリ、旦那さんが失業中だというのに、ルンルン気分のようだな」
「あら、パパ、ご機嫌がいいのは貴史のほうよ。だってこの頃は、桂樹がお相手をしてくれるんだもの」
ゲイルは、スプーンを持って幼児に食事をさせる桂樹を、チラリと見た。
「ま、子煩悩もいいけど、度が過ぎると子供を駄目にするぞ」
桂樹が反応する前に、アンリがすかさず言った。
「あら、パパ、このごろ貴史を桂樹に独占されてるんで、妬いてるんじゃないの?」
ゲイルは、娘をにらんだ。
「アンリ、そうやって、夫婦でかばいあうのは美しい姿だけど――親をないがしろにしてると、ロクなことはないぞ」
「アラッ、逆にいいことがあったわ」
「何だ、いいことって?」
桂樹が咳払いをした。それを横目に、アンリが言った。
「パパには内緒。桂樹とわたしの秘密よ」
桂樹は、拘置所にいる千秋恭平に会った。千秋は痩せたようだが、娘の死から立ち直ったのか、表情は穏やかだった。桂樹が会社を辞めたと告げたとき、彼はショックを受けたようすだった。
千秋はうつむき加減に聞いた。
「わたしのことが原因なんですか?」
桂樹は、明言を避けた。
「わたしは伊丹部長に暴力をはたらいて、怪我をさせました。会社側は、懲戒戒告で済ますと言ってくれましたが、わたしは自分の信念を大切にするほうを選びました」
「信念ですか――」
千秋は俯いたままつぶやいた。「これで小倉建設に、わたしが義理を通す人もいなくなった」
千秋は顔を上げた。ハッとするほど達観した表情をしていた。
「弁護士は、娘の遺書を見せてくれました」
千秋は、淡々と話し出した。「娘は、わたしへの詫びと自分の悩みを、切々と訴えていました。あれはわたしを助けようとして、先生のところに駆け込んだそうです。そして先生に、慰み者にされた」
それを聞いて、桂樹は驚いた。
「文恵は、先生の名刺に書かれた1500万円の領収書を、同封していました」
千秋の顔は無表情だった。「娘がいつその名刺を入手したのかは知りませんが、決定的な証拠です。あれは先生が自筆でサインしたものだし、宛名は大場副社長になっている」
彼は自嘲ぎみに微笑んだ。
「娘はわたしの罪を咎めつつも、わたしをなんとか助けようと思い悩み、挙げ句の果ては先生にいいように扱われた。それなのに、わたしは先生のために、罪をずっと否認しつづけてきた」
そこで千秋は、きっぱりとした口調で言った。
「今日あなたとお会いして、踏ん切りがつきました」
千秋の目には、涙が浮かんでいた。彼は続けて言った。「遺書の中で娘は、ある方に勇気づけられて、大変心強かったと書いていました。それに、ご迷惑をかけたとも――」
彼は桂樹に向かって、深々と頭を下げた。
「文恵に代わって、わたしからお礼を申し上げます」
千秋と別れて家に戻ると、ゲイルが妙な目つきで桂樹を迎えた。彼は桂樹と目が合うと、こそこそと自室に引っ込んだ。その様子が気になって、桂樹はアンリに聞いた。
「G・Gはどうしたんだ。なにかをたくらんでる顔つきだったが」
「さあ――そう言えば、今日、大貫さんから電話があったわ」
「大貫さんから?」
「ええ、あなたがいないんで、G・Gが電話に出ていたわ」
「G・Gは何も言っていなかったけど――何の話だろう?」
「さあ、分からないわ。G・Gは途中で電話を切り替えて、自分の部屋で話していたから」
桂樹はゲイルの部屋に行った。
「G・G、大貫会長から電話があったんだって。何の用件だったんだ?」
「べつに――」
ゲイルは妙にすまして言った。「きみがどうしてるかって聞いてたぞ」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
「だけど、G・Gは自分の部屋で、長電話していたんだろう」
ゲイルは少しうろたえた。
「長電話って、失敬じゃないか。わたしは大貫さんとウマが合うんだ。お互い、腹にためない、鯉の吹き流しだからな」
桂樹は、いつだったか鬼怒川に行ったとき、大貫が言っていたことを思い出した。そういえば最近ゲイルは、宵越しの銭を持たねえ、などと江戸っ子のようなことを言ったりするが、あれも大貫会長の影響だろう。
それにしても、ゲイルの表情は気になった。なにか、いたずらを見つかったときの子供のようだった。
「G・G、他になにか隠してないか?」
「なんでわたしが、息子に隠し事をするんだ」
「たとえば――その息子の悪口を言うとか」
ゲイルは憤慨して言った。
「わたしはそんな男じゃない!なんでこんな人徳ある父親が、息子の悪口を言うんだ!」