(2)
千秋恭平は刑事告訴され、裁判が始まった。裁判そのものは遅々として進まなかったが、進行とともに千秋の不利な立場は濃厚になってきた。
桂樹は文恵に連絡をとったが、彼女は会うのを避けているようだ。彼は重苦しい気持ちを振り払って、久しぶりに向陽不動産の大貫会長を訪問した。
「お、めずらしい人間が来たな」
大貫は部屋に入るなり言った。そこで桂樹の、どことなく精彩のない顔つきを見て、真顔になった。
桂樹は老人に向かって、ていねいに頭を下げた。
「ご無沙汰しております。会長のお元気なお姿を拝見して、安心いたしました」
大貫は桂樹の顔を、しばらく見つめていた。
「社交辞令は抜きだ。で、どうした、ずいぶんくたびれた顔をしてるが」
「そんなにくたびれた顔をしていますか?わたしでも、仕事に行き詰まることはありますよ」
桂樹は冗談めかしていったが、目が笑っていなかった。
大貫は例の眠そうな目つきで、桂樹を見ていたが、ボソリと言った。
「話してみろ」
「会長のお耳を汚すようなことじゃありません」
「じゃあ、なんでここに来た?」
桂樹は微笑んだ。
「冷たいですね。会長のご尊顔を拝見したかっただけです」
大貫はニコリともせずに言った。
「わしは見世物じゃないぞ。さあ、話せ。なにを悩んでるんだ」
「――」
桂樹は黙り込んだ。
大貫が促した。
「どうした?きみがウジウジしているなんて、似合わないぞ」
桂樹はぼんやりと言った。
「最近、ヒューブリスという言葉が、浮かんでくるんです」
「なんだ、それは?」
「ヒューブリス――傲慢による自滅」
「きみにしては、えらく難しい言葉を知っているんだな。哲学者にでも鞍替えするつもりか?」
桂樹は真剣な表情で、老人に聞いた。
「会長は、必要悪ということをどう思われますか?」
「なんだ、コロコロと話題を変えおって」
「贈収賄、裏取引、談合――どう思われますか?」
大貫は鋭く桂樹を見た。
「きみは――会社の仕事に、疑問を持ち始めたのだな?」
「会長、ずるいですよ。わたしの質問の答えにはなっていません」
大貫はジロリと桂樹を見た。
「それは、わしのほうが言いたいことだ。悩みを話せと言ってるのに、適当にはぐらかしおって」
「会長――わたしの感覚はおかしいんでしょうか?」
桂樹は真剣に訊いた。「会社の業績を上げるためには、非合法もやむを得ないことなんでしょうか?」
大貫は、面食らったように桂樹を見た。しかし、彼はすぐ桂樹の質問に答えた。
「わしは非合法なことは一切やらんし、社員にもやらせない。なぜなら、単純に損得勘定すれば分かることだ。非合法は1のもうけ、非合法の罰は100の損だからな。悪いことをやれば、いずれはばれるもんだ」
桂樹はハッとした。確かにひとつの真実だった。
(大貫さんでも、たまには良いことを言うんだな)そういえば心なしか、大貫会長の顔は、歳と共に和らいできたように感じる。(根はやさしい人だったんだ。でも――)
桂樹は大貫に言った。
「でも――これまでわたしは、会長にずいぶん騙されてきたような記憶がありますが」
「騙されただと?」
大貫は桂樹をにらんだ。「きみ、バカなことを言っちゃあいけないよ。まったくきみの思い違いだ。あれは若者の将来を思って、鍛えてやったんだ。いわば愛の鞭だな」
そう言うと、大貫はソファーの上でふんぞり返って、豪快に笑った。
そして桂樹は、自分がいかに浅はかだったかを後悔した。(何が、根はやさしい人だ。やっぱり大貫さんは、鬼だ)

千秋文恵は、国会議員のずんぐりした体に組み敷かれて、その荒々しい行為にじっと耐えていた。男は息を荒げ、太った腰を黙々とうねらせていた。やがて男が強く腰を押しつけてきて、低くうめき声をあげた。
やっと終わったのだ。彼女は激しい嫌悪感のなかで、ホッとした。
窪田は文恵の体から離れると、けだるそうに彼女を見た。
「どうだ、よかったか?」
文恵は、太ったブタのような体を無表情に見た。
「父は――いつ拘置所を出られるのですか?」
窪田はいやな顔をした。
「そんなにあせるな。そう簡単に、きみの親父を助け出せるもんじゃない」
文恵は追求した。
「でも父は裁判中です。どうやって父を助けることができるのですか?」
「それは、きみ、弁護士とよく話し合って、効果のある作戦を練ることだ」
「どんな作戦ですか?」
「それは――」
窪田は少しあわてた。「専門的なことは、弁護士に任せてある」
文恵は悟った。この男には、彼女の父親を助けようとする気持ちは、さらさらない。ただ彼女の肉体が欲しかっただけなのだ。
半ば分かっていたこととは言え、一縷の望みにすがってきた自分がなさけなかった。希望はすべて塞がれてしまった。
急に悔しさがこみ上げてきた。しかし彼女にはどうすることもできなかった。相手には国会議員という絶大な鎧があり、自分は何の力もない女だ。
文恵は別れも告げずに、ホテルの部屋を出ていった。
千秋文恵が自宅に戻ると、高山桂樹が待っていた。
「どうしても、あなたにお会いしたくて――」
桂樹は申し分けなさそうに言った。
「こんな遅くに――だいぶお待ちしました?」
文恵は魂の抜け殻のように、無感動に言った。
桂樹は彼女の無気力な話しぶりに驚いて、彼女の心を読みとろうとした。やつれて、顔が青白かった。それでも、しなやかな魅力は失っていなかった。
「いえ、ほんの1時間ほど――」
桂樹は冗談っぽく言おうとしたが、うまく言えなかった。
「1時間も――」
文恵は驚いたように眉をあげたが、すぐに沈んだ顔つきにもどった。
「あのう――」
桂樹はなにか言って、文恵を明るくさせたいと焦った。「こんど、コンサートにでも行きませんか。チケットならすぐ手に入りますよ」
文恵はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、今はとても――」
「行きましょうよ。きっと気分転換になります」
なおも誘ったが、文恵は微笑んだだけだった。
桂樹はそれ以上、話を続けるきっかけを失った。
「じゃあ、わたしは帰ります。また来ます」
彼は別れを告げた。
文恵は黙って桂樹の顔を見上げた。なんとも言いようのない表情をしていた。別れを惜しむような哀切をおびて、それでいて、苦境に耐える芯の強さを見せて。
桂樹は思わず彼女の体を引き寄せた。
「文恵さん、なんの助けにもならなくて――自分が歯がゆくて仕方ない」
文恵は桂樹の胸に顔を埋めて、かすかに震えていた。桂樹は彼女の温もりを感じ、その体の華奢なはかなさに驚いた。
二人は抱き合ったまま、しばらく立ち尽くしていた。桂樹が唇を寄せようとすると、彼女はそっと顔を反らせた。
その夜、二人は気まずい別れをした。
2日後の朝、千秋家のお手伝いから、桂樹のもとに電話が入った。
彼女はしどろもどろに、文恵が自殺したと言う。
「どうして――」
桂樹は愕然とした。みるみる涙がにじみ、頬に伝わった。
頭の中は、しばらく空白状態になっていた。彼女が父親のことで悩んでいたのは知っていたが、まさか自殺するまで思いつめていたとは。
ふいに、別れ際に見せた、文恵の表情が瞼に浮かんだ。物悲しそうで、それでいて何かを決意したような表情――。