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海路の日和V -  (3)
(3)

翌日の新聞ニュースには、国会議員の窪田の疑惑が書かれていた。どうやら警察は、そちらの線も調べているようだ。
しかし日一日と事件の経過はニュースに載っていたが、窪田議員の秘書に追求の手が伸びたまでで、議員本人には直接届いていないようだ。それに小倉建設の名前も、まだマスコミには浮上していない。
桂樹は毎日が落ちつかなかった。千秋文恵に直接会って元気づけたかった。
そんなとき、桂樹あてにめずらしく、日亜電気の神山会長から電話がかかってきた。桂樹はさっそく会長のもとに出かけた。

「やあ、高山くん、生きていたのか。しばらく音沙汰無しだったので、どうしたのかと心配していたんだ」
会うなり、神山が軽口を叩いた。桂樹は冗談を言う気分ではなかった。自分の知っている人たちに、法の裁きが迫っているのだ。
千秋と官公庁職員が逮捕され、ついで議員秘書も収賄罪で捕まった。窪田議員や小倉建設も、いつ法の俎上に上げられるかわからない。
しかも目の前の神山会長は、ニュースに流れている贈収賄事件が、まさか小倉建設と関係があるなんて、夢にも思っていないだろう。

「どうした、高山くん。きみは、心ここにあらずって顔をしてるが」
神山に声をかけられて、桂樹は我にかえった。
「あ、失礼しました。それにしても会長は、あいかわらず若々しくていらっしゃる」
「きみ、とってつけた言い方だな。きみとの仲だ。社交辞令は無しにしよう」
「はあ――わたしは素直な気持ちで言ったつもりですが」
神山が、けげんそうに桂樹を見た。
「やっぱりおかしいな。きみにはいつもの切れがない――」
桂樹はあいまいにほほ笑んだ。
「ところで会長――」
桂樹は改めて言った。「今日、お電話を頂いたご用件は、何でしょうか?」
神山はさりげなく言った。
「なに、きみに仕事を頼もうと思ってな。静岡の工場建設の見積もりだ」
「静岡の工場建設――」
桂樹は神山の言葉を反芻した。朗報だったが、彼は素直に喜べなかった。
「どうした?あまり嬉しくないようだな――」
神山が怪訝そうに聞いた。
桂樹は迷った。もしも贈収賄の遡及が小倉建設に及んで、世間の明るみに出たら――。そのときは、小倉建設に新たな仕事を頼んだ神山会長にも、間接的に迷惑がかかる。

桂樹は腹を決めると、顔を上げた。
「会長、そのお話は有り難いんですが、今回はお受けできません」
神山は、びっくりしたようすだった。
「きみ、どうしたんだ。静岡の仕事をくれとあれほど言っていたきみが、またなんで断るんだ?」
「理由は話せません。でも会長のお心遣いには、深く感謝しております。そんな会長にご迷惑のかかるようなことは、したくありません」
「迷惑がかかる?きみ、見積もりを頼むことが、なんでわたしの迷惑になるんだね?」
神山は追求した。

しかし桂樹はかたくなに口を閉ざしていた。少しして、彼は口を開いた。
「前に会長とお話したことがあります。悪いワンマンは長続きしないと」
「――」
神山は話題がとつぜん反れて、とまどった表情をした。
桂樹はどこまで話すか迷った。会長は自分を信頼してくれている。彼は思い切って言った。
「会長だからお話しします。正直言って、わたしは会社のやり方に疑問を持ちはじめました。――あっ、三田村社長のことを言ってるのではありません」
桂樹はあわてて否定した。「三田村社長は尊敬しています。でも組織の一部で、闇の部分や独断専行があって――」
そこで彼は、ちょっと口を閉ざした。「とにかく、しばらくのあいだ、自分の考えを整理してみたいと思います」
神山は心配そうに桂樹を見た。
「よければわたしに話してくれないか。日亜電気の会長としてではなく、きみの友人として聞きたい」
桂樹はその言葉に感激したが、どうしてもこれ以上、内情を話すことができなかった。

会社に戻ると、伊丹部長が血相を変えて、桂樹のところにやってきた。
「高山!きみは日亜電気の仕事を断ったそうじゃないか。なんてことをしたんだ!」
「神山会長から聞かれたのですか?」
「いや、さっき日亜の平井部長から電話があった。そんなことはどうだっていい!なんで断ったんだ!」
「神山会長にご迷惑がかかりそうだったからです」
「会長に迷惑がかかる?なんでだ?」
「それは部長の胸に手を当てて考えれば、思い当たるはずです」
「生意気なことを言うな!きみはなんの権限があって断った!」
「良識ある人間として――」
そこで桂樹は軽蔑したように、伊丹を見た。「以前、神山会長は伊丹部長におっしゃっていましたね。贈賄まがいのことをやらずに、まともな営業をやれって。今世間を騒がせている贈収賄事件の真相が分かれば、神山会長は何とおっしゃるでしょう」
伊丹は、鳩が豆鉄砲をくったように目を丸めた。彼は素早くあたりを見まわすと、声をひそめて言った。
「きみは――わたしを脅迫するつもりか?」

その日の終業間際に、桂樹は伊藤会長の部屋に呼ばれた。
これまであまり接する機会がなかった会長の前で、彼は緊張していた。
伊藤会長はでっぷりと太った体型で、幅広の口を真一文字に結んで、ムスッとした表情を作っている。口数の少ない人物だが、すごい切れ者だという評判だった。それにこの重役は、小倉建設の創業者一族だった。
桂樹はこの会長が苦手だった。秘書時代、この会長の部屋に行くと、いつも息詰まる威圧感を覚えていた。
伊藤会長はいつもの無表情な顔をして、デスクの向こうから立ち上がり、ソファーのほうに歩み寄った。彼は太った男特有の大股開きで、ソファーに体を沈め、桂樹に向かって黙ってあごをしゃくった。
桂樹が向かいに腰掛けると、伊藤はものうげに桂樹の顔を見ながら、しばらくのあいだ黙っていた。
桂樹は会長の沈黙に息苦しさを覚えたが、じっと言葉を待っていた。

伊藤がボソリと言った。
「きみは、うちの会社の就業規則を読んだことがあるかね?」
「ええ、秘書室のときには、暗記するまで何度も読みました」
「そうか――」
伊藤は再び沈黙した。それからおもむろに言った。「じゃあ、1条と5条の内容を知っているな」
「ええ、第1条は就業の目的が書かれています。社業の発展と建設業の社会的使命達成に寄与するためとあります。第5条は、職員は会社の方針を尊重し、上司の指示命令に従わなければならないとあります」
「そこまで知っているのなら、なぜ日亜電気の見積を断ったんだね?」
(どうやら、大場副社長か伊丹部長が会長に報告したらしいな)桂樹は返事をする前に、じっくりと会長の顔を見た。眠っているかのように細められた目蓋の隙間から、怜悧な瞳がこちらを見ていた。ムスッと引き伸ばされた唇は、妙に艶やかだった。
会長の顔を見ていて、桂樹はふと思った。(この人は、笑ったことがあるのだろうか?)
伊藤がじれて、返事をうながした。
「どうなんだね?」
「先ほど申しませんでしたが、第1条の本旨の中で、建設業の公共性を認識し、という言葉が書かれています。また第7条に対客の心得が書かれています。得意先に対しては奉仕を旨とし、礼節をもって対応しろとあります」
伊藤の目がわずかに開かれた。彼は鼻にかかった声で、ものうげに言った。
「ほう、きみは見かけほどバカじゃないな。いや、伊丹より、はるかに頭が切れそうだ」
そのあとふたたび、桂樹の顔をじっと見つめた。

これで分かった。会長に報告したのは、伊丹部長だ。桂樹は会長の言葉に、何の反応も見せなかった。彼には伊藤会長のやり口が分かってきた。大いなる沈黙で相手を威圧し、そこで相手が焦ってボロを出すのを待つのだ。
桂樹は会長のやり口を逆用して、茫洋とした表情で相手の顔を見ながら、沈黙をつづけた。
案の定、伊藤がじれて、先に沈黙を破った。
「それでなぜ、日亜電気の申し出を受けることが、7条に反する行為だと思ったのかね?」
「神山会長にご迷惑がかかると思ったからです。工場建設を我が社に発注するというご決断は、神山会長ご本人のお考えです。ですからわたしは、神山会長のご信頼を裏切ることができませんでした」
伊藤は目をすぼめた。その目つきが鋭くなった。
「どうして神山さんに、迷惑がかかるんだね?」
「それは会長もご存じのはずです」
伊藤は黙って桂樹の顔を見つづけた。桂樹も負けずに、会長の目を平然と見ていた。
こんども先に、伊藤が口を開いた。
「きみは、千秋鉄工社長が逮捕されたことを、言ってるのかね?」
「品川のコンペにからむ、贈収賄のことを言っています」と桂樹は、静かに言った。

伊藤はしばらく沈黙した。その表情は、どう出るべきか天秤にかけているようすだった。この社員はどこまで知っているのか――そんなことを考えているのだろう。
伊藤会長は急に疲れたように、目許を指で揉んだ。彼が口を開いたとき、その口調は妙に弱弱しかった。
「そのことか――あれは恥ずべき行為だった。わたしは、小倉建設の知能を結集して、正々堂々とコンペに臨んだものだと思っていた。あとで大場に聞いて、びっくりした。小倉建設始まって以来の、由々しき事態だ」
どうやら伊藤は、事実を少しだけ認める作戦に出たようだ。
しかし桂樹は、素直に会長の言葉を受け止められなかった。会長が依然として取締役会で強い発言力を持っていることや、大場を引き立てて副社長に推薦したこと、また会長自身も陰の黒幕として、これまで政官界とのつきあいがあったこと――これらを、社内の情報で知っていた。

そこで桂樹はさぐりを入れてみた。
「大場副社長は、処罰されるのですか?」
伊藤は返事をする前に、ちょっとためらった。それから彼は、弱々しく微笑んだ。
「それはまだできん。どんな不祥事があろうとも、小倉建設の名を汚すわけにはいかんからな。今、世間の耳目は我が社に集まっている。わたしたち老人は臆病者なんだよ。きみのような純粋な若い社員にとって、はがゆいことかも知れんが、今はじっと鳴りを潜めているときだ」
桂樹は、会長の巧妙な言い回しに気付いていた。下手に出て共感を誘い、桂樹を納得させようとしているのだ。そんな会長の稚拙な演技が悲しくなるとともに、急に無力感にとらわれた。いま桂樹がなんと言おうと、会長が老獪に言い含めようとするのは、目に見えている。
そのあと、桂樹はとりたてて異をとなえず、黙って会長の話を聞いていた。
[20/04/09 07:43 神亀]
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