■ 海路の日和U - (2)
(2)
ゴルフ場から家に戻ると、ゲイルのメモが食卓の上に置かれていた。走り書きで、大至急病院に来い、とだけ書かれていた。
桂樹は何かあったのか、と急に不安になった。彼は大急ぎで、アンリの入院する病院に駆けつけた。
病室に入ると、アンリのベッドの横に小さなベッドが並べられていた。その横に立つゲイルが振り返った。
「男の子だ」
ゲイルは目に涙を浮かべて、泣笑いの表情だ。
とたんに桂樹は、熱いものがこみあげてきた。彼は小さなベッドに歩み寄り、中を覗き込んだ。白い産着に包まれて、赤ん坊はすやすやと眠っていた。赤い顔と紅葉のような小さな手。巻き毛になった細い毛髪は黒かった。
桂樹は手を伸ばして、赤ん坊の頬にそっと触れた。あったかく、そして滑らかだった。
ふと気づいてアンリに微笑みかけた。
「アンリ――ありがとう」
深い感動に声が続かず、桂樹はアンリに口づけをした。
アンリが微笑んだ。
「あなたにそっくりよ」
「ああ――おでこと目許はきみに似ている」
後ろからゲイルが言った。
「そうかな――わたしの子供のころに、よく似てると思うけどなあ」
「まさか――」
桂樹はゲイルのほうに振り返って、彼の顔をまじまじと見た。「それじゃあ、子供がかわいそうだ」
ゲイルが抗議するように、片手を振り上げた。桂樹はアンリと顔を見合わせて、幸せそうにそっとウインクした。
「高山さん、男のお子さんが生まれたんですって。おめでとう」
桂樹が秘書室に入ると、安藤孝子が声をかけた。
「えっ、高山さん、赤ちゃんが生まれたの。おめでとうございます」
他の女子社員たちが拍手をして、つかの間、秘書室が沸き立った。そこで高堂室長の冷ややかな目つきに気づき、彼女らは静かになった。
「ありがとう。これでぼくもコブつきだ」
桂樹は照れくさそうに言ったが、彼の頬は弛みっぱなしだった。
「パパ、おめでとう」
高堂が珍しく冗談めかして言った。「それにしても、きみにそんな才能があったとは思わなかったなあ」
「室長、別に才能がなくても、そんなことは――」
そこで桂樹のデスクの電話が鳴った。「ハイ、秘書室です。あ、ハイ、すぐ参ります」
桂樹は立ち上がりながら言った。「社長がお呼びだから、ちょっと行ってきます」
社長室には、第二営業部長の白取と井上課長がいた。二人は三田村社長の向かいに座って、難しそうな顔でかしこまっている。社長も厳しい表情をしているのを見て、桂樹は緊張した。
社長が声をかけた。
「お、高山、こっちに来て座れ」
桂樹がソファーに落ちつくと、社長は言った。「こんど白取部長と一緒に、客の接待をしてくれ」
「かしこまりました。わたしの役割はなんでしょうか?」
「なに、たいしたことじゃない。ゴルフをやればいいんだ」
「またゴルフですか?」
桂樹は、思わず口を突いて出た言葉を、慌てて訂正した。「いえ、失礼しました」
「なんだ、きみはゴルフが嫌いなのか?」
「いえ――喜んでやらせていただきます」
「そうだろう。きみはゴルフしか能がないんだから」
桂樹はムッとして、社長の顔を見た。
「冗談だよ。そんなむくれた顔をするな」
社長は面白そうに言うと、白取に向き直った。「わたしの代わりに、高山が行く。あとで事情を説明してやってくれ」
「承知しました」
白取は返事をしたが、その顔はちっとも承知した表情ではなかった。
桂樹は若干、不安になってきた。
「あのう、お相手するのはどちらの会社の方ですか?」
「ヤマト不動産の山上常務だ」
社長がこともなげに言った。
(じゃあ、向陽不動産の大貫会長ではないのだ)桂樹は少しホッとした。
社長室から退出するとき、三田村社長は親しげに、桂樹の尻を軽く叩きながら言った。
「じゃあ高山、頼んだぞ。それから、男の子が生まれたんだってな。おめでとう」
「ありがとうございます」
社長の一言に、桂樹はぐっと気分が良くなった。
桂樹は第二営業部に出向いた。打合せ室に落ちつくと、白取部長が事情を説明しだした。
小倉建設の施工したヤマト不動産の本社ビルの一室で、雨による漏水事故があった。間の悪いことに、ビル事業本部長の山上常務の部屋だった。常務は、ヤマト不動産のビル建設発注のキーマンである。
大至急、工事部門の担当者たちが現場に急行して、天井裏にもぐりこんだり、上階の腰壁のパネルを外したりして調べたが、原因はなかなか特定できなかった。そうこうする内に、悪いことは重なるもので、雨が降って、山上常務の部屋にまた漏水があった。
山上常務はそのことがよほど頭にきたのか、たまたま次の週のゴルフで一緒に回った三田村社長と白取に、プレーをしながらさんざん嫌味を言ったらしい。
桂樹は話を聞いていて、だんだん嫌な予感がしてきた。彼は白取に聞いた。
「で、漏水のほうは解決したのですか?」
「ああ、屋上パラペットのシールが切れていたんだ。そこから滲み込んだ雨水が、カーテンウォールの方立ての内部を伝って、山上さんの部屋ににじみ出た」
「大した漏水じゃなさそうですね。山上常務は神経質な方なんですか?」
「いや、普段は温厚でおおらかな方だよ。もっとも、ちょっと意固地になるところもあるけどね。でも、すごく頭の切れる方だ」
「そうですか、ゴルフのときに、うちの社長に直接文句を言われたのなら、山上常務のお気持ちも、少しは治まったでしょう」
「それが――そうでもないんだよ」
白取の、人の良さそうな温顔が曇った。
「そのときのゴルフで、三田村社長は山上さんの嫌味をものともせず、完膚なきまでに負かしたんだ」
「――」
「きみも知っての通り、社長は少々のことには動じないし、何事につけても手抜きをされない方だからな」
「――」
(本当は鈍感なだけだろう)と思ったが、桂樹は黙って聞いていた。
「でも社長は、そのとき一方的に山上さんから言われっぱなしだったのが、よほど腹に据えかねたんだな。あとでわたしに、今後一切、山上さんとゴルフをやらないと言われたのだ」
「それで、わたしに白羽の矢が立ったわけですね?」
「そういう事だ」
桂樹は、気になってることを聞いた。
「白取部長は――若造のわたしで、社長のピンチヒッターが勤まるとお思いですか?」
白取は困った表情をした。
桂樹は返答を迫った。「どうなんですか?」
「正直言って――無理だよ。きみのような若い人を社長のピンチヒッターに寄越すなんて、先方に無礼だと思われるだろう。それに山上さんは、この前の負けを取り戻そうと、密かに猛練習をされているはずだ。あの方は、表面上は穏やかな顔をされてるけど、人一倍の負けず嫌いだから」
「ひどい!それをご存知で、部長はわたしを人身御供に差し出すつもりなんですか?」
「人身御供だなんてオーバーだな。それに、きみが社長代行で行くことを決めたのは、わたしじゃない――社長だよ。社長はおっしゃったぞ、きみは年配の男性に可愛がられる性格をしてるから、山上さんも和らげられるんじゃないかって」
桂樹は、ますますうっとうしい気分になってきた。
彼は不安そうに尋ねた。
「それで、わたしが社長の代わりに行ったら――わたしはどうなるんでしょうか?」
「さあ、分からんけど、まさか、いきなりきみを殴るようなことはしないだろう。しかし、おそらく山上さんは、社長に対する鬱積を、きみにぶつけてくるだろうな。あるいはその前に怒って、ゴルフをやらずに帰ってしまうかも知れない」
桂樹は、あわてて立ち上がった。
「もう一度、社長を説得してみます。そんな事情なら、絶対に社長が行くべきです」
「それは無理だろうな」
白取はあっさりと言った。「社長は、一度言われたことは、絶対に曲げない方だから」
「社長、白取部長から、事情をお聞きしました」
「何のことだ?」
三田村社長は書類に目を通しながら、顔もあげずに聞いた。
「ヤマト不動産の山上常務のことです」
「なんだ、そんなことでいちいち報告に来るな」
「ですが、やはりゴルフは社長が行かれるべきです」
三田村は書類から顔を上げると、おもむろに桂樹の顔を見つめた。あまり見つめられるので、桂樹は居心地悪そうにもじもじとして、足を踏み替えた。
「きみは、わたしに命令するのか?」
「いえ、そんなつもりでは――でも山上常務は、社長とゴルフをすることを、楽しみにされている筈ですから」
「こちらは楽しみにしていない。とにかく、わたしは行かん」
「社長、そんな子供じみた事を言われても」
三田村は、ふたたび桂樹の顔を見つめた。
「わたしが子供じみてると言うんだな、きみは」
社長が唐突に立ち上がった。
桂樹は思わずあとずさった。
「どうやらきみには、目上の者を敬うという精神が欠落しているようだ。じっくりと話し合おうじゃないか」
たっぷりと30分間、桂樹は社長の訓示を聞きながら、ソファーの上で固まっていた。しかし会社の体面を保つため、ゴルフ当日に社長が急病にかかるという筋書だけは、なんとか社長に了解させた。
社長室から出て行くとき、三田村が桂樹を呼び止めた。
桂樹は憮然とした表情で、社長のほうに振り返った。
「あのう、社長、まだ何か――」
「これを持っていけ」
三田村はデスクの上から白い封筒を取り上げると、桂樹に手渡した。桂樹が怪訝そうに封筒を見ていると、三田村が言った。
「子供の誕生祝いだ。奥さんに渡してくれ」
あとで中身を見ると、3万円分の商品券が入っていた。