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■ 海路の日和�U -  (4)
(4)

三田村社長の自宅は、桂樹の家から歩いて10数分のところにあった。あたりは鬱蒼とした緑に包まれ、大きな屋敷が多く、人通りもまばらだった。桂樹は余裕をもって7時前に家を出た。手には社長が顧客に進呈する、パターの包みを持っていた。
社長の自宅と思しき屋敷のところで、門の表札を確かめていると、通りの向こうから犬を連れた老人がやってきた。桂樹は最初、それが当の三田村社長だとは気づかなかった。
使い古してよれよれの野球帽、ランニングシャツに陸上競技用の小さなパンツ。老人は腕も太腿も、長年陽に晒されたように、きれいな小麦色に日焼けしていた。

「よう、高山。ご苦労さん」
声をかけられて、桂樹は社長に気づいた。
「あ、社長――おはようございます」
桂樹の心を見透かしたように、三田村が言った。
「いつもと見掛けが違うんで、わたしに気がつかなかったな」
会社でのいかめしさが消えて、今の社長はどこにでもいる老人に見えた。小さな布地から剥き出た胸や肩や太腿は、テロッとして体毛がない。しかし適度に締まって、60代の男性としては、理想的な体つきをしている。
桂樹は頭をさげた。
「失礼しました。社長は毎朝、散歩されているんですか?」
「ああ、速歩で30分ほど歩き回るんだ。とくにこの季節は、日差しを浴びて、気持ちいいぞ」
三田村は、先に立って門の奥に入った。「せっかく来たんだ。ちょっと寄って、お茶でも飲んでいけ」
桂樹は社長の後ろについて行きながら、ふと社長のかぶる野球帽のネームに気づいた。そこには赤い糸で、H・Mと縫い取りされていた。

通された部屋は、どっしりとした内装の応接室だった。壁の一面は書棚になっていて、分厚い本がぎっしりと詰まっている。
出されたコーヒーを飲んでいると、三田村社長が、ラフなゴルフウェアーに着替えてやってきた。シャワーを浴びたのか、髪が濡れている。
「今日はご苦労だったな。きみの家は近くか?」
ソファーに座りながら、三田村が声をかけた。
「ええ、ここから歩いて10分ほどのところです」
桂樹は、早くおいとましたい気持ちを抑えて、答えた。
「そうか。それにしては、今まできみと顔を合わせたことがないな」
「そうですね。この上の源氏山にはときどき行くのですが――」

そのとき、執事らしき白髪の老人が部屋に入って、三田村に報告した。
「旦那さま、内村さまとおっしゃる方からお電話が入っています」
三田村はちょっと驚いた顔をしたが「そうか、こっちに回してくれ」と言って、立ち上がった。
桂樹は辛抱強く、社長の電話が終わるのを待った。

「もしもし――ああ内村さん、どうされましたか?」少し間があって「ああ、大貫会長、おはようございます」
大貫と言う名前を聞いて、桂樹はドキッとした。そちらを見ると、社長は眉をひそめてじっと聞いている。
「そうですか――3人じゃ寂しいですな。ちょっと待ってくださいよ」
社長は受話器を手で押さえると、桂樹に聞いた。「高山、きみはゴルフをやるのか?」
桂樹は、嫌な予感がした。
「あのう――社長、なにか?」
「ゴルフをやるのかと聞いているんだ!」
三田村が苛立って言った。桂樹はあわてて返事をした。
「あ、はい!やります――へたくそですけど――」
それを聞いて、三田村がすかさず受話器に向かって言った。
「会長、ピンチヒッターが見つかりました――ご迷惑をおかけするかもしれませんが――じゃあ、ゴルフ場で」

電話を切ると、社長はにこやかな笑顔で桂樹を見た。
「と言うわけだ。お客さまのひとりに急用ができてな。途中できみの家に寄るから、すぐ支度をしてくれ。もうあまり時間がない」
桂樹はポケッとした顔で、社長を見上げた。そして思わず嘘をついた。
「社長、今日は妻と出掛ける約束が――」
「奥さんと約束してたのか――」
三田村は眉をひそめた。「しかし、お客さまに言ってしまったからなあ。それに、きみはさっき、都合が悪いなんてひとことも言わなかったぞ」
桂樹が抗議しようとすると、機先を制して社長が言った。
「申し訳ないが、今日はわたしに付き合ってくれ」
それから付け加えた。「きみの奥さんには、わたしから謝るから」
桂樹はあわてて言った。
「いえ、いいんです。――ではお供させていただきます」

社長と一緒の車の中で、桂樹の心は千々に乱れた。今朝、いっぺんに二つの気がかりを抱え込んだのだ。
安藤孝子のマンションにあった帽子は、三田村社長のものだということは間違いなかった。孝子は社長の愛人なのだろうか。その女性と自分は――。桂樹は、思わず身震いした。
そのことを頭の中から閉め出して、もうひとつの気がかりに取りかかった。
「あのう、社長――ゴルフのお相手は、どなたですか?」
聞く前から分かっていたが、予想通りの返事が返ってきた。
「向陽不動産の大貫会長と内村部長だ。きみも知ってるだろう?」
「ええ――」
桂樹は唇を湿らせた。それから社長に向かって、おもむろに声をかけた。「あのう――社長――」
「なんだ?」
三田村が読んでいた新聞を脇に置くと、桂樹の顔を見た。
「いつだったか、わたしは大貫会長に、大変失礼なことを言いました」
「ああ、知っている」
「高堂室長に聞かれたのですか?」
「それに、大貫会長本人からもな」
「じゃあ、わたしは、行かないほうがいいんではないでしょうか?」
三田村社長は、怪訝そうに桂樹の顔を見た。
「どうしてだ?きみだからこそ誘ったんだぞ」
今度は桂樹のほうが、怪訝な表情をする番だった。
三田村はニヤリとした。
「大貫会長は、きみが気に入られたご様子だ」
驚く桂樹に、三田村が説明しだした。
「大貫さんは、ずけずけとものを言う人間が好きでね。きみは言ったそうじゃないか、腹の出っ張り具合と態度のでかさは会長にかなわんけど、人間のスケールは自分のほうがはるかに大きいって」
桂樹はあわてて訂正した。
「社長、人間のスケールだなんて言ってませんよ。わたしは、度量が大きいと――」
突然、三田村が笑い出した。彼は苦しそうに、腹を押さえて言った。
「じゃあきみは本当に、あの大貫会長をやりこめたんだな。大貫さんの作り話じゃないんだ――。これは痛快だ。わたしの長年の夢を、きみが代わりにやってくれるなんて」
会社では見たこともない、無邪気に笑い転げる社長の姿を、桂樹はあっけにとられて見守っていた。

「なんだ、誰を連れてくるかと思ったら、土下座の兄ちゃんじゃないか」
開口一番、大貫会長は大声で言った。
桂樹は黙って頭を下げた。口を開くと、また余計なことを言いだしそうだった。彼の横で三田村社長が、土産の特注パターを大貫に渡した。
「会長、これで、パットが入らないのは、道具の所為だとは言わせませんよ」
「分かった。今日は一発で穴に入れまくってやる」
ゴルフ着姿の大貫会長は、餓鬼大将そのままだった。彼は太鼓腹を突き出して、短い足でよたよたと歩きながら、下ネタまがいの冗談を言い続けた。その後ろには、総務部長の内村が、会長の言動に冷や冷やしながら付き従っている。内村は、桂樹が大貫会長と初対面したときに、一緒にいた男だ。
「今日は若い人がいるんだ。せっかくだから、何か楽しいことをやるか」
大貫のもちかけに、三田村はニコリとした。
「お手柔らかにお願いしますよ。高山は、あまりうまくないらしいですからね」
「しかし、体格だけは、立派じゃないか。高山くん、きみは何かスポーツをやってるのか?」
体格だけは、という言葉が引っかかったが、桂樹は礼儀正しく返事をした。
「はい、野球をやっています」
「野球か――じゃあ、ゴルフも大丈夫だな。今日はわしと組むか」
大貫は勝手に決め込むと、三田村に言った。
「三田村さん、今日はマッチプレーといきますかな。わしは、高山くんとペアになる」
三田村が鷹揚にうなずいた。
「いいですよ。じゃあ内村部長、がんばりましょう」
彼は内村に声をかけ、それから桂樹の方を見た。「高山、会長にご迷惑をかけるなよ」
桂樹は、大貫の膨らんだ腹を横目で恨めし気に見て、そっと頭を下げた。

プレーが開始された。
大貫会長は、太っているわりに器用だった。飛距離はないが、ボールはほとんど真っ直ぐに飛んでいた。とくに小技がうまかった。
もう一人の客の内村部長は、あきらかにゴルフが不得意だった。右に行ったり左に行ったり、およそゴルフになっていなかった。
桂樹の目を惹いたのは、三田村社長のスイングだった。とても60代の老人とは思えぬような、バネのあるスイングをした。しかも飛距離はコンスタントに、200ヤード以上飛ばし続けていた。彼はナイスショットをすると、腰を伸ばすようにして、桂樹たちにおっとりと微笑んでくる。その姿は、もの柔らかさの中に、速歩で鍛えた芯があった。
一方、桂樹はというと、久しぶりだったので、バーディーもあればダブルボギーもあるという、波の荒いゴルフをした。それでも二度ほど、OBと思われた球が木に当たって、セーフになるというラッキーに恵まれた。
結局、最終ホールをむかえて、桂樹と大貫の組はふたつ勝っていた。もはやどう転ぼうと、勝ちは決定していた。

「どうだい、三田村さん、武士の情けだ。ここでプッシュしたっていいんだ。このホールでそちらが勝てば、勝負は分かれ。ただし、同スコアか負ければ倍の払いだ。勝負してみるか?」
大貫が三田村を挑発しだした。桂樹は、やめておけばいいのに、と思いながらも黙っていた。そして案の定、三田村社長がそれを受けた。内村はといえば、横で気弱げにほほえんでいる。
そして好事魔多し、桂樹と大貫はボギーとダボであがって、内村もダボ。残るは三田村社長の、3メートルほどのパーセーブ・パットにかかっていた。
慎重に素振りをくりかえす三田村の前に立ちはだかり、大貫は突きでた腹のうえで両腕をくんで、親切にもアドバイスをくりかえしていた。
「三田村さん、届かないと入らないよ。お嬢ちゃんじゃだめだよ。カツンと打ちなさい、カツンと強く――」
桂樹が見かねてささやいた。
「会長、そんなことおっしゃって、もし入ったらどうするんですか?」
「大丈夫、入らないって」
大貫は断定した。
「だって、万一ってこともあるでしょう」
「万一もなにも、ぜったいに入らないんだよ」
大貫は、その話はすんだといわんばかりにソッポを向き、ゆうゆうと三田村のほうを見おろす。
桂樹は言葉もなく、老人の自信満々かつ傲慢な横顔を見ていた。

3人の見守るなかで、三田村がパットをした。白球がグリーン上を滑り、ゆるやかにカーブして、カップの中に消えた。
「アラッ――はいっちゃった」
大貫は、落胆の表情をみじんも見せずにつぶやいた。
これで勝負はチャラ。分かれだった。
せっかく三田村社長からチョコレートをせしめられると思っていた桂樹は、大貫の後ろを歩きながら、目の前で揺れ動く巨大な尻を、思い切り蹴飛ばした――空想の世界で。
[20/03/17 08:10 神亀]
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