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海路の日和U -  (3)
(3)

仕事が終わったあと、桂樹は安藤孝子に付き合って、屋台で酒を飲んだ。孝子は酒が強かった。桂樹と対等に酒を飲み、それでいて、乱れたところは少しも見せない。

「――それで、野球はもうやめたの?」
「やめたわけじゃないけど、秘書室に来て、時間がとれなくて」
桂樹はため息をついた。「それに日曜は、女房か、そうでなければ女房の父親のどちらかと、付き合わなくちゃならないし。野球をやれるのは土曜日の半日くらいです」
「そう言えば、あなた、国際結婚だったわね。奥さまはきっと美人でしょうね」
「まあ、欧米人の血が混じっていますから、日本人とは違いますけど。並ですよ、外人によく見かける顔だ」
「あら、奥さまに言うわよ」
孝子は、いたずらっぽく桂樹をにらんだ。「でも生活習慣の違いはないの?仕事だけじゃなく、もっと家庭のことにも気を配りなさい、とか言われたりして――」
「それはないです。アンリは――女房の名前ですが、本人も働いていますし、それに生まれたときから日本で生活していたので、心情的には完全な日本人です」
桂樹はふと、アンリの顔を思い浮かべた。「もっとも、日本人にしては少々根アカで、楽天的過ぎるかもしれませんが――」
「あら、いいことじゃない。明るいことが一番よ」
彼女はあっけらかんと笑った。そこで話題を変えた。「ところであなた、三田村社長のご自宅の近くに住んでいるんでしょう?」
「えっ、初耳ですよ。社長のご自宅はどこなんですか?」
「扇が谷。源氏山の麓よ」
そこはお屋敷の多い場所だった。桂樹の住む家とは歩いて10数分のところだ。
「おタカさんは、社長のご自宅に行った事があるんですか?」
時間外ということもあって、桂樹は、親しい人たちが彼女に対して言う呼称を使った。
孝子は返事をするまでに、ちょっとためらった。
「秘書だから、もち論よ。大きなお屋敷だったわ」
桂樹は、彼女の空いたグラスに酒を注いだ。
「ふーん、じゃあこれからは、あまり出歩かないようにしようかな。道でばったり出会ったら、ことだ」

桂樹は久しぶりに飲みすぎた。彼女をマンションの自宅まで送ったときには、10時を過ぎていた。
「ごめんなさい、遅くまで付き合わせて。家で奥さまが心配してるんじゃないの」
別れ際に孝子が言った。目許がほんのりと朱に染まっていた。
「大丈夫ですよ。遅くなるから先に寝てくれって、電話をしましたから」
彼はいたずらっぽくウインクした。「大事なお客さまと一緒だと言ってね」
そのとき、孝子は桂樹の顔を真っ直ぐに見ながら、ささやくように言った。
「わたしと――大人のお付き合いをする?」
桂樹は聞きまちがえたかと思った。孝子を見ると、彼女の目は熱っぽく輝いていた。
「いや、ぼくは――」
桂樹は口ごもった。孝子がそっとしがみついてきた。桂樹はどぎまぎしたが、黙って彼女の体を受け止めていた。そのうち柔らかい肉体の感触に、下腹部がうずうずしてきた。

孝子のマンションは、2LDKだが部屋の広さがゆったりとして、持ち主の趣味のよさをうかがわせた。
ふたりはほとんど口も利かずに、ベッドに直行した。始まりはゆっくりとだった。それから徐々に熱気を帯びてきた。
孝子は主導権を握って、桂樹の情欲を高めていった。手と口によるサービスに、たちまち桂樹は息詰まる興奮に包み込まれた。
次は桂樹が、主導権を握る番だった。彼は孝子の体を組み伏せた。会社では一分の隙もないと思っていた孝子が、体の下で乱れに乱れた。彼女は、うめき、喘ぎ、体をうねらせた。
桂樹は女体を抱きながら、頭の片隅では、アンリに対する後ろめたさを覚えていた。しかしそのうち相手の熱情が乗り移ってきて、彼自身も息を荒げ、つのりくる頂に向かって、激しく腰をうごめかせた。
甘美なひとときが過ぎ、孝子の家から帰るとき、古びた野球帽が下足箱の上にあるのに気づいた。後ろに赤い糸でH・Mとネームが縫い込まれている。彼女の愛人なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、彼は孝子の部屋を後にした。

「あなた、なに、これ?」
翌朝、アンリは包装紙から取り出したスカーフを目にして、けげんそうに桂樹を見た。
「なにって、スカーフじゃないか」
桂樹はつとめてさりげなく言った。じつは昨夜、安藤孝子と別れたあと、わざわざ銀座に寄って買った品物だった。
「それは分かっているわ。でもわたしの誕生日でもないのに、どういうわけ?」
「きみが気に入っていた、水蓮の花柄だよ。たまたま店で見つけてね」
「わたしの質問の答えになっていないわ。さあ、何があったの」
そのとき横から、義父ののんびりとした声が聞こえてきた。
「桂樹、きみもまだまだ修行が足らんな。男はなにか弱みがあるときに贈り物をするってパターンは、今のきみのことを言うんだ」
「G・G、よしてくれよ。夫婦仲を裂こうってのか」
そこで桂樹は、生真面目な顔で妻のほうに振り返った。「ぼくはなにも、後ろめたいことはやっていないよ。じつは、きみの懐妊祝いのつもりなんだ」
アンリの顔が、パッと明るくなった。
「まあ、そうだったの。ありがとう、桂樹」
彼女は夫に抱きついた。
「なんだ、そんなことだったのか」
ゲイルは、つまらなさそうな顔をした。「ところできみたち、朝っぱらから、いちゃつかないでくれるか?見苦しくてかなわん」

――◇――

大阪から来た顧客を、東京駅まで送り届けたあと、会社に戻った桂樹は、報告をするために社長室に行った。室内には、高堂室長と安藤孝子がいた。
厳しい表情をした社長の顔に、なにかあったなと桂樹は姿勢を正した。
小倉建設社長の三田村宏は、中肉やや背が低く、小さな目をした地味な顔立ちだが、幾多の風雪を耐え抜いた、粘り強いイメージの人物だった。銀縁眼鏡をかけた穏やかな顔の裏側に、数々の駆け引きや試練を生き抜いてきた、したたかさが見え隠れしている。64歳にしてはすこぶる健康そうで、高価な仕立てのスーツで包んだ全身からは、しぶといパワーを放散しているようだ。
その三田村社長は、報告を促すように桂樹の顔を見た。
「奥村さまは予定通り、19時10分発の新幹線に乗られました」
桂樹は簡潔に報告した。
「そうか、ご苦労だった」
三田村は、ニコリともせずに言うと、高堂と安藤のほうに振り返った。「それで、何時に持ってくるんだ」
「それが――ネームを彫る職人が川口から店に向かっているそうでして。おそらく1時間以上はかかるかと」
高堂がしどろもどろに返事をした。
「1時間以上だと!わたしはこれから出かけるんだぞ」
三田村が声を大きくした。
高堂は小さくなった。
「はい、それは重々承知しておりますが――」

桂樹はそこまで聞いて、社長室を出て行こうとした。
「あ、高山くん、ちょっと待って」
安藤孝子が桂樹を呼び止めた。彼女は、社長のほうに振り返って言った。
「社長、明日の朝、品物はこの高山に持っていかせます。彼は鎌倉に住んでいますから、ちょうど都合がいいですわ」
桂樹がポケッとして孝子の顔を見ていると、三田村が少し機嫌を直して言った。
「そうか。高山、頼んだぞ。大事なお客さまに渡す品物だ。遅れずに持ってこいよ」
「はい!」
桂樹は訳が分からなかったが、思わず返事をしていた。

秘書室に戻ると、桂樹は孝子から事情を聞いた。社長が大事な顧客に、社長が使っているのと同じ特別仕立てのパターを進呈すると約束した。ところが、肝心のパターに相手のネームが入っていなかったのだ。
桂樹は孝子の話を聞きながら、てきぱきと能率良くものごとを処理する才女に、半ばあきれていた。今の彼女からは、あの夜、ベッドの中で情熱的に乱れた女性と同一人物だとはとても想像できなかった。
彼女の話がおわると、桂樹は聞いた。
「どこの店ですか?」
「このビルの地下にある『ニブリック』よ」
「と言うことは、さっきの話だと、ぼくは少なくともこのビルに、10時近くまでいなければならないと言うわけですね」
「そういう事になるわね。でも明日はお休みだから、いいでしょう?」
「それで――明日、社長は何時に家を出られるんですか?」
「そんなに早くないわ。7時半よ」
「――」桂樹は黙り込んだ。
[20/03/16 07:56 神亀]
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