■ 海路の日和U - (2)
(2)
ある日、桂樹がトイレから出て廊下を歩いていると、怒鳴り声が聞こえてきた。
立ち止まって様子をうかがっていると、応接室のドアが開いて、受付嬢が慌てふためいて出てきた。
「恵ちゃん、どうしたんだ?」
桂樹が呼び止めると、女子社員は青ざめた顔をして振り返った。彼女はすっかり動転していて、説明もしどろもどろだったが、桂樹はおおよその事情を理解した。
小倉建設にとっては大の得意先、向陽不動産の大貫会長が、三田村社長に面会を求めてきた。ところが、たまたま受付に他の電話が続いて、大貫会長を応接室で20分ほど待たせたらしい。
「それで社長は?」
「それが――お取り次ぎしたときは、外出されたあとで――」
「まずいな――」
桂樹がつぶやくと、受付嬢は今にも泣きだしそうな表情をした。それに気づいて、桂樹はあわてて質問した。
「大貫会長は、アポを入れていたのかい?」
「いえ――ときどきアポなしで、ふらりと来られますから」
「そう。社長が外出されたことを、先方に話したの?」
「ええ、それをお伝えしますと、急にお怒りになられて」
桂樹は、向陽不動産の大貫会長に直接会ったことはないが、経済誌ではよく写真や記事を見る。それからうかがえるのは、財界の大物で、かなりのうるさ型かつ変わり者らしいということだった。
そして間の悪いことに、高堂室長も安藤孝子も外出していた。
桂樹はため息をつくと、受付嬢に向かって言った。
「分かった、ぼくがなんとか謝るから、恵ちゃんは心配しなくていいよ」
桂樹は、部屋に入る前に大きく深呼吸した。
ドアをノックして応接室に入ると、当の大貫泰三会長が、お付きの者らしい中年男を従えて、大股開きでソファーにどっかりと座っていた。年の頃60代半ば、でっぷりと太った老人だった。
大貫会長は尊大な態度で、部屋に入ってきた桂樹をじろりと睨んだ。
「秘書室の高山と申します。あのう――うちの女子社員が、大変失礼なことをいたしました。誠に申し訳ございません」
桂樹は神妙な顔で、客に話しかけた。大貫は、「なんだ、この男は」という顔で桂樹を見上げ、大声で言った。
「今度は若造が、のこのこと出てきおった。いったい、この会社はどうなってるんだ!」
桂樹は、あくまで慇懃に言った。
「申し訳ございません。生憎、上司が外出しておりまして――」
「ケッ、とぼけた面をして。それで謝ってるつもりか!」
桂樹は内心ムッとしたが、いつだったか脇田所長が、事故死した鳶職人の葬式のときにとった行動を、ふと思い出した。
彼はやおらその場に膝まずくと、カーペットの上に土下座した。
「まことに申し訳ございません」
桂樹のとつぜんの行動に、大貫会長もさすがに度肝を抜かれたようだ。一瞬言葉に詰まったが、動揺を押し隠すように怒鳴った。
「バカ、土下座なんかするな!男は安易に、頭を下げるもんじゃない!」
桂樹はゆっくりと立ち上がると、大貫に向かっておもむろに尋ねた。
「じゃあどうしたら、会長のお気が済むんでしょうか?」
大貫は背もたれに腕を投げかけて、横柄な態度で言った。
「おっ、今度は開き直ったな。いいか、お前がどんなことをしょうと、気の済む問題じゃない!――なんだ、その顔は?馬とフグの合体したような顔をしおって」
桂樹はブスッとして言った。
「この顔は親がくれたものですから、仕方がありません。それに、けっこう気に入ってくれている人もいます」
「ほう、そうかい。親の顔が見たいもんだな」
「生憎、両親は他界しましたので。――あのう、今日のご面会は、お約束されていたのでしょうか?」
「なにい!若造のくせに生意気なことを言いおって。忙しいのに、いちいち予約なんかしておれるかっ!」
そこで大貫は、桂樹の顔をにらみつけた。「おや!そうやって、すぐ膨れっ面をするところを見ると、体のでかいわりに度量の狭い男だな」
そこまで言われて、さすがに桂樹は、腹に据えかねてきた。彼は真っ直ぐに大貫会長の顔を見おろしながら、言った。
「態度のでかさと腹の出っ張り具合では、とうてい会長にかないません。ですが、度量だけは、少なくとも会長より大きいつもりです。わたしなら、些細なことでいちいち、若い女性を怒鳴りつけたりしませんからね」
そこまで言ったあと、桂樹はすぐに後悔した。会長の横にいる男が、口をあんぐりと開けてこちらのほうを見ている。
桂樹は体を強張らせて、雷が落ちるのを待った。ところが案に相違して、怒鳴り声は返ってこなかった。それどころか大貫は、不敵な薄笑いを浮かべていた。
「アンちゃん、肝っタマと口だけは、でかいようだな。それでなにか、腹の出っ張り具合がどうだとか聞こえたが。自分が格好いいからといって、わしの身体的特徴を馬鹿にしてるのか」
「いえ、そんな――ただ、わたしは思ったままを――」
「やっぱり、そう思ってるんだな!」
大貫が大声で怒鳴った。
ますます険悪になってきたムードを和らげるように、連れの男がおずおずと口出しした。
「あのう、会長、三田村社長はおられないことですし、後日、お伺いすることにして、今日はそろそろ――」
彼は最後まで言わせてもらえなかった。
「お前は黙ってろ!」
大貫は男を一喝した。男は会長の横で、シュンとして小さくなった。
大貫は桂樹を見上げながら言った。
「ところで若いの。突っ立ってないで、そこに座れ。木偶の坊のように立たれると、顎が疲れてかなわん」
桂樹は腹をくくると、大貫会長の向かいに座った。もう矢でも鉄砲でも持って来い、という心境だった。
「あのう――高山です」
桂樹はおもむろに言った。
「なにい?」
「ですから、わたしの名前は高山と申します。先ほどから会長は、わたしのことを若造とか馬面とおっしゃっていますが、わたしの名前は高山です」
「おまえ――」
大貫は眠っているような半眼で、桂樹を見た。「若いのに、けっこうしたたかな男だな。そのしたたかさはだれに教わった?」
「わたしは、そんなにしたたかではございません。内心は、震えているんですから」
「それが震えている顔か!」
「ですから、この顔は父親似なんです。おかげで、だいぶ損をしていますけど――」
「だろうな。しかし、見ようによっては、男らしくていい顔をしてるぞ」
「あのう、それはお誉めの言葉と、受け取ってよろしいんでしょうか?」
すかさず大貫が返した。
「バーカ、お世辞に決まってるだろ。お前に自信を持たせるために、ちょっと言ってみたまでだ」
「――」
桂樹は客の相手をしながら、一刻も早く部屋から退散したかった。これからあと、大貫会長が三田村社長に会ったとき、自分のことを告げ口している場面を思い浮かべると、暗澹とした気持ちになってくる。
そのとき、彼の思いが通じたのか、やっと高堂室長が登場した。桂樹はこのときほど、高堂が有り難い存在だと思ったことはなかった。
「あら、高山くん、どうしたの?そんな深刻な顔をして」
社に戻った安藤孝子が、しょげかえった桂樹の様子を見て、声をかけた。
「社長のお客さまと喧嘩をしたんです」
桂樹は悄然として言った。部屋の奥の席では、高堂室長が小気味よさそうにこちらを見ている。
「あら、元気のいいこと。それで、相手はどなたなの?」
「向陽不動産の大貫会長――」
安藤は、けろりとして言った。
「あら、大貫さん?なら大丈夫よ。あの人、腹は出っ張ってるけど、腹黒くないもの」
「安藤くん、口に気をつけたまえ」
向こうの席から、高堂がたしなめた。
「あらごめんなさい」
安藤は振り返りもせず軽くいなすと、桂樹に言った。「それに大貫さんは、いつまでも根に持つような人じゃないわ」
桂樹はその言葉の裏に、高堂室長に対する皮肉を感じ取り、ニヤリとした。
「安藤さんにそう言っていただくと、なんだか気分が軽くなりました。今日のことを、社長に報告したほうがいいのでしょうか?」
「その必要はないんじゃない?どうせあなたが言わなくても、誰かが報告するんだから」
「おい、安藤くん。それはわたしのことか?」
再び高堂の声がした。今度もそちらを見もせず、安藤が言った。
「あら、室長から報告していただけます?」
それから桂樹にささやいた。「どう、今夜、一杯。うっとうしい気分のときは、パアッといきましょうよ」