■ 海路の日和�U - 第5章 海千山千
(1)
出勤日の前日、設計部の和泉部長から電話があった。
桂樹は話を聞いて、仰天した。今回の人事異動で、桂樹は秘書室に配属されたと言うのだ。
「部長、何かの間違いでしょう。わたしは技術者ですよ。秘書室に行くわけがない」
「間違いじゃないんだ。人事部に確かめたのだから」
「でも――なんでわたしが、秘書室なんです」
「わたしも発表を聞いて、びっくりしてるんだ。きみはてっきり、うちに戻ってくるものだと思っていたのに」
電話を切ったあとも、桂樹は呆然としていた。それに気づいてアンリが、何かあったのかと尋ねた。
「人事異動で、ぼくは秘書室勤務だってさ」
「あら、いいじゃない。むしろ喜ぶべきことでしょう。なんでぼんやりしているの?」
「おい、ぼくは技術者だぜ。なんでぼくが、秘書の仕事をやらなくちゃならないんだ」
「だって秘書って、会社で一番面白い仕事じゃない。VIPのお相手ができるし。わたしなら大歓迎のことだと思うけど」
桂樹はそれ以上、妻に反論するのをやめた。仕事に対するふたりの認識のずれは、いくら説明しても直しようがない。
しかし、癪に障ることに、娘から情報を得たゲイルが、ニタニタしながら義理の息子をからかいに来たことだった。
「ヘイ、桂樹。きみはこんど秘書をやるんだって?」
「G・G、その変な笑いはやめてくれないか。うちの家族に、精神異常者がいると誤解されたら困るじゃないか」
「桂樹、ご機嫌斜めだな。でも秘書になるのは、きみにとっていいことだ。だいたいきみは、マッチョすぎるんだよ」
そのとき、そばを通りかかったアンリが言った。
「あら、パパ、桂樹は見掛け倒しのマッチョマンじゃないわ。彼は、ワイヤリーよ」
「ワイヤリー?」
ゲイルと桂樹が、同時に聞き返した。
「そう、筋金入りってこと」
アンリはそう言うと、さっさと立ち去った。
あとに残されたふたりは顔を見合わせた。それからおもむろに、ゲイルが桂樹の下腹部を見た。
「筋金入りか。ふん、きみの女房が言うんなら、あえて反論しない」
桂樹は顔を赤らめた。
「まてよ、G・G。アンリが言ったのは、そんな意味じゃないぞ」
「けっ、内心は嬉しいくせに。まあいい。とにかく、きみが秘書になるのはいいことだ。秘書をしていれば、言葉づかいも和らいで、物腰が洗練されてくるし――」
桂樹は、義父の言葉をさえぎった。
「分かった、もういい。親子して、ぼくをからかおうってわけだ」
それから、ふくらみが目立ちだした、ゲイルの下腹を見た。「ところで、G・G、その出っ張った腹を、もう少し洗練させたらどうなんだ」
翌日出社すると、桂樹は真っ直ぐ秘書室に出向いた。秘書室長の高堂が桂樹の姿を見て、異動の挨拶に来たものと思い、にこやかな笑顔で席から立ち上がった。
「やあ、高山くん、さっそく来たか。よろしくな」
桂樹はニコリともせず、高堂に言った。
「ちょっとお話があります。別室でお願いします」
部屋にはいるなり、桂樹は怒りを含んだ声で高堂に質問した。
「どういうことですか?技術者のわたしが秘書室勤務だなんて」
桂樹の剣幕にたじたじとなりながらも、高堂はかろうじて踏みとどまった。
「きみ、薮から棒になんだね?」
「今回の異動の件ですよ。わたしは設計技術者です。この2年間現場に出ていたのも、設計部からの出向扱いだったんだ」
「だから、今回の異動で正式に、設計部から秘書室に配属になったと言うことだよ」
高堂室長は、さわやかに言った。
それを聞いて、桂樹はキッとして、高堂に一歩詰め寄った。
「ま、待てよ、きみ。冷静になりなさい」
高堂は後ずさりながら、慌てふためいた。「わたしは知らない――きみの異動の件に、わたしはまったく関与していない」
桂樹は、秘書室長の背後の壁に片手をつき、上から覆い被さるようにして、上役の顔を見ながら低い声で聞いた。
「じゃあ、だれが関与しているんですか?」
高堂はごくりとつばを飲み込んだ。それから小声で言った。
「長尾相談役だと聞いている。なんでもきみの異動の件は、急に決まったらしい」
思わず白状して、高堂はしまったという顔をした。
「ほう、長尾相談役ねえ――」
桂樹はつぶやいて、室長の育ちの良さそうな顔をじっと見おろしていたが、そのうちぷいと部屋を出ていった。
「相談役、わたしを秘書室に配属したのは、あなただとお聞きしました」
「ほう、だれがそんなことを言った」
「高堂室長です」
「高堂が――きみ、高堂を脅したな?」
「そんなことはしていません。やんわりとお聞きしました」
長尾は疑わしそうに桂樹の顔を見た。
「やんわりとな――」
「それで、わたしの異動の原因は、相談役ではないんですか?」
「わたしと言えばわたしだし、違うといえば違う」
桂樹は苛立って言った。
「相談役、禅問答をしているんじゃないですよ。どうなんですか?」
「まあ、待て。そんなに苛立つな。確かに、きみを秘書室にしばらく置いたらどうだと進言したのは、わたしだ。しかし、わたしには人事の決定権はない。決めるのは人事部長だ」
「だったら、相談役が決めたも同然じゃないですか。それで――なぜ技術者のわたしを、秘書室にしたのですか?」
急に長尾は、真顔になった。
「いいか、高山くん。技術者だからどの部署だなんて決まりはないぞ。現に我が社では、技術者でも営業や総務畑で働いている社員は、何人もいるんだ」
桂樹は食い下がった。
「でも、わたしは納得がいきません。わたしの得意分野は設計です。設計部にいれば会社のために、より貢献できると自負しています。――それとも、わたしには設計の才がないということですか?」
「それは違う」
長尾が即座に否定した。「きみを秘書室に配属したのは、そんなことじゃない。もちろんきみには、設計の才能がおおいにある。何年前だったかな、オーストラリアのパースの設計コンペで、1位入選したじゃないか」
桂樹は、長尾相談役がなぜそんなことまで知っているのかと驚いたが、黙って話を聞いた。
「いいかい、会社では設計だけがすべてじゃない。きみたちが設計して現場でビルを建設するには、まず営業部隊が仕事を取ってこなくちゃならん。なにか事業をやろうとすれば、経理部が資金繰りをしなくちゃならん。また、それら全てを把握し、統括していくのが経営者だ」
桂樹の退屈そうな顔を見て、長尾はフッと微笑んだ。
「わたしの話は退屈か?」
桂樹はあわてて否定した。
「いえ、とんでもございません」
「きみはいずれ設計部に戻れる。しかし、きみには若いうちに、社内のいろんな仕事を経験してもらいたいんだ。そうすれば、人間性でも幅ができてくるし、会社にたいする視野も広がってくる。ひょっとすれば、将来は経営者の一人になれるかも知れん」
相談役の話が終わったのに気づき、桂樹は素朴な疑問を投げかけた。
「でも、どうして相談役はわたしに、気を配ってくださるんですか?」
長尾が微笑んだ。
「それは、きみが入社式の日に、駅でわたしを助けてくれたからだよ」
彼はそこで言い直した。「いまのは冗談だ。本当のところは、きみの将来性に期待していると言うことだ」
秘書室に転属して2ヶ月が過ぎた。転属に否定的だった桂樹も、すっかり新しい職場になじんでいた。
しかし、秘書室長の高堂だけは、依然として桂樹になじんでいなかった。彼は配属騒動のとき、桂樹に脅されたことを忘れていなかった。いつも桂樹とは一歩離れ、慇懃無礼さとネチネチとした嫌味をもって接していた。
桂樹は、この白面端正な顔をして、洗練された服装をした秘書室長とは、本能的に合わないものを感じていた。それでも彼は我慢して、無難に秘書の仕事をこなしていった。
安藤孝子の存在は、秘書室にとってだけでなく、桂樹にとっても大きかった。彼女は30代後半の才色兼備の独身女性で、重役たちも一目置いているようだ。背は低いほうだが、一種独特の威厳が備わっていた。
しかしどういうわけか桂樹は、彼女の受けが良かった。重役たちについて知っておくべきことや、会社によく来る主な得意先の顔ぶれなどを、丁寧に教えてくれた。彼女の知識は驚嘆するほどだった。どこで調べるのか、VIPたちの趣味や癖までも、熟知していたのだ。