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海路の日和T -  (4)
(4)

次の週から、小室のずんぐりむっくりした姿が、工事現場のあちこちで見られるようになった。短い脚をちょこまかと精力的に動かして、作業中の職人たちに身振り手振りを交えて指導すると、今度は事務所にきて、桂樹たちを相手に熱弁をふるう。
主任の近藤などは、すっかり小室のペースに巻き込まれて、血圧が上がりっぱなしだった。ついにはお手上げといったように、老人の相手は桂樹に押しつけてきた。
しかし桂樹は、前の現場でこの老人を扱うコツを心得ていたのでまったく慌てなかった。

ある日、桂樹は、最上階ホールの内装仕上げリストの一部が、何者かによって勝手に改竄されているのに気づいた。彼が苦心して選択した壁のクロスが、別のものにすり替えられていたのだ。
桂樹には犯人の目星がついていた。
呼びつけられた小室老人は、こともなげに言った。
「ああ、あれですか。見本が剥がれていたので、わたしが貼っておきました」
桂樹は、疑い深そうに老人を見た。
「見本が剥がれていた?剥がしたんじゃないのか?」
小室は目を丸くして、おおげさに驚いた表情をした。
「とんでもございません。わたしがそんなことを、するわけないでしょう?若先生の口からそんなお言葉が聞かれるなんて、とても悲しいことです」
「あ、そう。じゃあ剥がれていたということにして。どうして勝手に貼り替えたんだ?」
「それはもう、わたしは前の現場で、先生のセンスはよく存じ上げておりますから。先生ならきっとこれにすると、分かっておりました」
「なら、あんたの見込み違いだ。ぼくはこっちのクロスにしたんだ」
桂樹は、別のクロスサンプルをとり出した。
それを見て、小室が薄い眉毛を吊り上げた。
「でもそれは、すぐに飽きがきますよ」
桂樹は老人をジロリと見た。
「この階は展望フロアで、外来者が多いんだ。飽きのこない地味なものより、フレッシュなインパクトを与える仕上げにしたかったんだ」
「でも――あまり斬新なものは、長続きしませんよ」
「だったら色あせた頃に、貼り替えればいいじゃないか。とにかくこれからは、勝手に見本帳をいじるんじゃないぞ」と桂樹。
小室はふてくされて黙っていた。

「返事は?」
桂樹は追求した。
小室は丸っこい肩をちょっとすくめたが、頑固に返事をしなかった。
桂樹はゆっくりと小室に詰め寄った。そして、不気味な低い声で言った。
「じいさん、前の現場のことは覚えているな。足場のてっぺんから、下界のすてきな景色を眺めたことを――」
小室は一瞬ひるんだが、胸を張って答えた。
「もうあんなことはされないと、わたしは若先生を信じています。先生は心の暖かい方ですから、こんな老いぼれを苛めるようなことはしませんよ」
桂樹は鼻で笑った。
「あ、それは見込み違いでした。こんどオイタをしたら、皆の見ている前でじいさんのズボンを引き脱がして、その可愛らしい尻をひっぱたいてやる」
そこで桂樹は、自分のデスクに行くと、一枚の画用紙を持ってきた。昼休み、退屈しのぎに描いた小室の似顔絵だった。
彼はそれを老人に渡しながら言った。
「これを小室さんにプレゼントする。もうオイタをするんじゃないぞ」
桂樹はさっさと仕事場に戻っていった。後に残された小室は、手にした絵を感心して見つめていた。

桂樹が現場に出て、2年が経過した。
工事は順調に進み、足元まわりを残して、外装は完成していた。ビルの内部では、内装工事も最後の仕上げに入っていた。
その年は秋から冬にかけて、例年になく雨の降る日が多かったが、外周部ができていたので、工事にはさして支障も出ていなかった。
竣工まであと3ヶ月あまり、現場は追い込みに入った。桂樹は毎日が、目の回るような忙しさだった。内装の仕上げについては、決めるべきところはすべて完了したが、館内のサイン計画の細かいところがまだ残っていた。
それに、すでに入居の決まっているテナント工事も始まっていた。
本社から急遽、応援部隊が来たが、桂樹の忙しさに変わりはなかった。
そんな桂樹の忙しい様子に、いつもなら、何か仕掛けてかまってもらおうとする堀田内装の小室老人も、生真面目な顔をして、せかせかと自分の持ち場を歩き回っていた。
アンリ・ギャザウェーともこの2ヶ月間、一度も会っていなかった。桂樹は心配していた。せっかくこの1年半あまり、お互いの愛を育てあげてきたのに、ひょっとしたら、このまま彼女と逢えなくなるのではないか――。
そんなとき、絶妙のタイミングで、アンリから電話がかかってきた。

「ハイ、桂樹。今、話す時間ある?」
「オーケイ、アンリ。今の現場の状況は、いつだってオーケイとは言えないけど。きみの声が聞けて嬉しいよ」
「ねえ、今度のクリスマスは時間が取れそう?」
桂樹は声を落とした。
「それが――駄目なんだ。現場が忙しくって――」
「――そう」
アンリの声が沈んだ。彼女の落胆した声に、桂樹は言いようのない焦りを覚えた。
「アンリ、正月まで待ってくれ」
そこで彼は、ふと思いついた。「アンリ、今度の正月に、スキーに行こうよ。蓼科に、会社の保養所があるんだ」
「ほんと!」
アンリの声が、パッと明るくなった。
「ああ、大晦日に行って、そこで正月を迎えるって、どうだい?」
「素敵!雪の中の正月ね」
「ああ、保養所を予約しておくよ。正月はいつまで休めるんだ?」
「――たしか7日まで」
「ぼくは5日までなんだ。じゃあ31日から翌年5日まで。いいね?」

電話を切ると、桂樹はさっそく会社の厚生部に電話を入れた。ところが厚生部の担当者は、保養所の利用者は、社員本人とその家族に限られている、と冷たく宣言した。
「おい、高山、どうした?」
しょぼくれていると、近藤主任が声をかけてきた。桂樹は事情を話した。
「なんだ、お前。恋人と婚前旅行か」
近藤はニヤニヤしながら言った。
「主任、ぼくたちはそんな、不純な関係じゃないですよ」
「婚前旅行のどこが不純なんだよ。それを言うなら、婚前交渉って言うんだ」
近藤は、ずけずけと言った。
桂樹は顔を赤らめて、まわりを見た。
「主任、そんなこと――仕事中に大声で言わないでくださいよ」
「おれの声は、もともと大きいんだよ。じゃあアドバイスしてやる。いっそのこと、今すぐ彼女を籍に入れちまえよ。夫婦だったら問題ないだろ」
桂樹は後悔していた。近藤などに話したのが、間違いの元だった。とにかく保養所のかわりに、他のホテルを見つけなければ。桂樹は、にやける近藤を残して、仕事場に戻った。

その日の夕方、仕事が終わったとき、桂樹は所長室に呼ばれた。
なにごとかと部屋に入ると、脇田所長がなにか魂胆のありそうな顔をして、彼に椅子をすすめた。
「疲れた顔をしているな。現場はきついか?」
「きついですが、とても充実しています。すべてが勉強になりますから」
「そうか――」
脇田所長は満足そうにうなずくと、おもむろに言った。
「きみは正月に、恋人と蓼科に行くそうだな?」
「不純な関係ではありません」
思わず言って、桂樹は、なぜ所長がそんなことを知っているのだろうか、と不思議に思った。
脇田所長は、同時にふたつの回答をした。
「近藤に聞いたんだ。それにわしは、きみたちが不純な関係かどうか、そんなことは全然気にしていない」
桂樹は顔を赤らめた。
「でも保養所は、駄目だったんです」
「大丈夫だ。わしがなんとかする」
桂樹は耳を疑った。
「えっ、所長はそんな事ができるのですか?」
脇田はこともなげに言った。
「ああ、心配するな」
「でも会社の規則が――」
「あんなのは古臭い規則だ」
脇田は吐き捨てるように言った。それから彼は、キツネにつままれたような顔をした桂樹に、種明かしをした。
「蓼科の保養所は、わしが現場を担当したんだ。それに、あそこの管理人の鳥羽は、よく知っている男だ。わしの部下だったからな」
所長はニヤリとした。「なかなか気のいい奴だ。鳥羽にはわしから電話しておくから、心配せずに恋人を連れて行け。それから――」彼は付け加えた。「会社には、近藤と一緒に行くとでも言っておけ」
[20/03/10 09:57 神亀]
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