■ 海路の日和�T - (2)
(2)
桂樹は現場に慣れてくるにつれ、落ちついて回りを見渡せるようになった。現場所長の脇田とは、あまり話をする機会がなかった。坂井によれば、脇田所長は雷親父と頑固親父を掛け合わせたような人物で、いったんこうと決めたら、相手がだれであろうと、決して自分の節を曲げない、という。
しかし見慣れてくると、多少目つきが鋭かったが、頭が禿げて血圧の高そうな赤ら顔をした、どこにでもいる親父と思えた。
鉄骨の建て方工事が進んだある日、鳶職が鉄骨から落下して死亡するという事故が起きた。後で分かったことだが、死んだ鳶職は無類の酒好きで、その日も昼飯のときに多少酒を飲んでいたらしい。
桂樹は現場員に交じって、その鳶職の葬式に参列した。
死んだ鳶職の妻は、夫の急死にすっかり錯乱状態になっていた。彼女は泣きながら、鳶会社の社長に詰め寄っていた。なんで夫が、酒を飲むのを止めなかったのか、と。
そのとき、脇田所長がすっと前に出た。彼は夫人に自分の名前と肩書きを名乗ると、とつぜんその場に土下座した。そして、畳の上に額をこすりつけながら謝った。現場の総責任者は自分だ、自分の監督不行き届きでご主人を死なせてしまった、申し訳ない、と。
夫人はあっけにとられていたが、そのおかげで冷静さを取り戻した。彼女は土下座した脇田所長を、立ち上がらせようとした。
桂樹は、その一部始終を離れたところから見ていた。
そしてまた後日、その所長が鳶会社の社長を前に、烈火のごとく怒って、厳しく叱りつけているのを目撃した。そのときばかりは、この小倉建設の名物所長の側に、絶対近づくまいと心に誓った。
設計部の和泉部長が、たまに顔を出すこともあった。彼の穏やかな顔を見ているだけで、すこし現場疲れしてきた桂樹は、心が和む思いだった。
「どうだい、高山くん、現場の仕事は?」
「やっと慣れてきました。とても勉強になります」
「そうか、きみが施工のディティールを覚えれば、鬼に金棒だな」
「まだまだです。ところで、吉田課長はお元気ですか?」
「ああ、変わりないよ。しかし、きみがいなくなって初めて、きみの存在の大きさに気づいたようだ。彼は毎日、若手社員にブツクサ言いながら、仕事をしているよ」
「なんだか、吉田課長の姿が目に浮かぶようです」
「まあ、きみは設計部のことは気にせず、現場でしっかり勉強すればいい」
和泉部長は鉄工業者の千秋社長と気心が合うのか、よく二人連れで現場をまわっていた。
千秋鉄工の社長は毛並みのよさがそのまま顔に現れているような男だった。年の頃は50代半ば、頭の小さなスラリとした長身で、端正な顔立ちは、さながら明治時代の華族のような気品があった。また後で知ったことだが、彼は政界ルートを持っていて、小倉建設にとって重宝な存在らしかった。
桂樹は初めて千秋に会ったとき、年配者の持つ高貴な雰囲気に気後れした。色素の薄い澄んだ瞳で見つめられると、金縛りにあったように、満足に口も利けなかった。
しかし千秋社長は、口数は少ないが優しい性格をしていた。それが分かってくるにつれ、桂樹はこの社長とも親しく話をするようになった。たまの休みには、和泉や千秋と一緒にゴルフをすることもあった。
年配者ふたりは力みのない、しなやかなスイングをした。それにプレーそのものも、おっとりとして、いかにもゴルフを楽しんでいるようすだった。
桂樹のゴルフは体力任せの粗削りだが、二人の紳士の正統ゴルフに接して、ずいぶん様になってきた。
「高山さんの飛距離はプロ並みですね」
千秋がおっとりと言った。それに和泉部長がつづいた。
「彼は野球部の四番バッターですよ。ボールを遠くに飛ばすセンスは、もともと備わっていますからね」
桂樹は照れた。
「あまり冷やかさないでください。ホームランも打ちますけど、OBも打ちますよ」
「しかし最近は力みがとれた分、方向性も安定してきましたね。そのうえ、飛距離も前より伸びていますよ」
「それに、もともと小技は、天性の勘があるからね。こうなると、鬼に金棒だな」
「部長も千秋さんもよしてくださいよ。そんなに誉めていただいても、ハンディはあげませんよ」
桂樹はふたりに誉められて、まんざらでもない気分だった。確かにスコアは安定してきて、今だったら吉田課長にとやかく言われずに、プレーができる自信があった。
――◇――
カキーン。
快音を残して、白球が青空に円弧を描きながら舞い上がり、フェンスを越えていった。
桂樹は味方の喚声を耳に、ゆっくりとベースを一周しながら、途中で一塁側のベンチのほうをチラリと見やった。応援に集まった社員たちに交じって、アンリ・ギャザウェーが大きな笑顔で拍手をしていた。彼女はチームメートから借りた野球帽をかぶって、メガホン片手に陽気にはしゃいでいる。黒のハイネックセーターにジーンズ姿の彼女は、色白なだけに、観客の中でもひときわ目を惹いた。
その日、桂樹は絶好調だった。投げては毎回の三振を取り、味方のエラーで1点は失ったものの、昨年Bリーグ1位の相手チームを、7回の裏までその1点に押さえていた。味方の得点は5点、桂樹は今のホームランを加えて3打点を稼ぎだしていた。
「桂樹、彼女が来ていると違うな。この色男!」
ベンチに戻ると、坂井が冷やかした。
「くやしかったら公成も、いいところを見せてみろよ」
「フン、いいところを見せても、おれには応援してくれる彼女がいないよ」
「そんなことないぜ。会社からお前のファンが、大勢詰めかけてるじゃないか。白井監督も、お前のファンらしいぜ」
「冗談いうなよ。監督みたいなオジンのファンなら、こっちで願い下げだ」
「公成、なんか言ったか?」
総務部長の白井が、ふたりのところに近づいてきた。
「あ、監督。なんでもないっす」
坂井があわてて言った。
白井はフンと鼻を鳴らして、桂樹の方を見た。
「それにしても桂樹、しばらく野球をやっていなかったわりには、今日は絶好調だな」
「監督、今日は、桂樹の彼女が来ているんですよ」
坂井が横から言った。
白井は応援席のアンリのほうを見た。
「美人の外人さんだな。桂樹、おまえ、現場に出ていて、よく彼女ができたな。仕事を真面目にやってるのか?」
桂樹がなにか言う前に、坂井が言った。
「監督、桂樹はこと女のこととなると、結構まめですよ。それに手を付けるのが早い」
「バカ、公成。おれたちはそんな仲じゃないよ」
こんどは白井がひやかした。
「だったらどんな仲なんだ。手は付けていないが、足を付けてるんじゃないか?真ん中の足をな」
その日の試合は、桂樹が相手打線を最後まで抑えて、5対1で勝った。試合後、桂樹はシャワーを浴びて手早く着替えると、アンリと連れたって鎌倉駅の近くの喫茶店に入った。
「桂樹があんなに野球がじょうずだなんて、正直言ってびっくりしたわ」
アンリは応援の興奮から冷めやらずに、目を輝かせていた。
「それほどでもないよ。今日はたまたま調子がよかっただけさ」
桂樹は努めてさりげなく言った。
彼女が手を叩いて喜んだ。
「きゃー、素敵。そのクールで控えめなところが、また堪らないわ」
「アンリ――」
桂樹は、彼女の顔を驚いたように見た。「今日はちょっとおかしくないか」
「わたしが――ちっともおかしくないわ。ちょっとハイな気分になってるだけよ」
「そう――今日は楽しめたかい?」
「もちろんよ。あなたは大活躍するし、それにあなたの会社の人たちって、みんないい人ばかりね」
「ああ、みんな野球好きだからね。しかし、きみも皆と初対面で、すっかり打ち解けていたじゃないか」
「わたしは順応性があるのよ」
そこでアンリは、胸につけた真珠のブローチを指でつまんだ。「わたし、これを貰っちゃった」
そのブローチは、銀の葉っぱのレリーフに真珠が配されて、彼女の着ている黒のセーターによく似合っていた。
桂樹は聞いた。「だれにもらったんだい?」
「あなたとお話していた方――坂井さんて、言ったかしら」
「公成が――なんであいつが、そんなもの持っていたんだよ」
「わたしに聞いても知らないわ。とにかく彼は、だれにプレゼントしようかと迷っていたけど、やっとふさわしい人が見つかったって言って、わたしにくれたのよ」
桂樹はつぶやいた。
「キザなことを――あいつめ、おれに抜け駆けしようとしてるのか」
「桂樹、何か言った?」
「いや、なんでもない」
そこで桂樹はあらたまって言った。「アンリ、誤解しないでくれよ。彼はプレゼント魔なんだ」
「プレゼント魔?」
「ああ、会社でも有名なんだ。あいつ、だれに対しても、すぐプレゼントしたがるんだ」
桂樹は断定するように言った。