(4)
「じゃあ次は、今度の日曜日に洋画家の百田(ももた)さんの家に行ってくれ」
今年72歳になる栗田議員は、いつものようにさり気ない口調で言った。
耕平はあいた口が塞がらなかった。
「じゃあ次はって――なんだか私がお年寄りのところに伺うのが、定例行事のように聞こえるんですけど」
それにいつの間にか、栗田の言葉は命令口調になっている。なんで区の職員が、区会議員に私物化されなくちゃあならないんだ。
「それはコーちゃんの勘違いだろ。私は親友にお願いしているつもりだけど」
栗田は弁舌さわやかに、のうのうと言った。おまけに耕平のことをコーちゃんと呼びだしている。養老院の鈴木老人の影響であることは、間違いない。
そして今度は、『親友』ときた。まったく政治家の先生さまはこれだから困る。耕平はあきらめの境地で質問した。
「で、百田さんって、どんな人なんです?」
「コーちゃん、画家の百田さんを知らないの?」
「知っていますよ。私が訊いたのは、百田さんの家に行って何をやればいいんです?」
栗田は耕平のズボンの前をちらりと見て、肩をすくめた。
「さあ、よくは分からないけど――。近ごろ創作意欲が減退しているんで、なにか刺激が欲しいそうだ。おそらくモデルの話じゃないかな」
「ええっ、冗談でしょう。ぼくに絵のモデルになれって言うんですか。脂肪太りした親父ですよ」
栗田は耕平の身体を見て、とくに否定はしなかった。
「そうだね。向こうのほうで、ノーサンキューと言われれば、すぐ帰ってきていいよ」
百田画伯の家は、あけぼの町の北側、自然植物園の雑木林がひろがる一角にあった。古びた洋館風の屋敷である。
耕平が訪れたとき、百田は庭に出てキャンパスを前に、絵筆を握っていた。耕平は遠慮して、少し離れたところで控えていた。
百田陽三郎は人物画を得意としていて、耕平も区役所に飾られた彼の絵を見たことがある。主に労働をしている人物像が多く、老若男女を問わず幅広い層の絵を描いた。
耕平は、ふと庭の片隅を見て、一瞬、ドキリとした。木陰になった芝生に、男性老人の彫像が据えられていた。全裸で寝椅子に寝そべって、ものうげにこちらを見ている。
耕平が違和感を覚えたのは、顔はいかにも老人らしい穏やかな表情をしているのに、股間の男の陽具は、老人とは思えない勃起力で、隆と弓なりに天を突いているのだ。
「あの彫像には、ふたつのテーマがある」
背後から声が聞こえた。百田画伯本人だった。「生と死――命の葛藤だ」
「あ、大井耕平と申します。栗田議員に言われて参りました」
耕平は名乗って、そのあと訊いた。「あの像は、先生が創られた作品ですか?」
それに直接答えず、百田は言った。
「右手を腕枕に、左の手足をだらんと伸ばしているのは、老い先短い人生をはかなんでいる様だ。一方、右ひざを力強く立てて、股間の逸物を青年のようにおっ立てているのは、生への執念を表す」
耕平は感心して、庭の老人像を見た。画伯の言ったことが、よく理解できた。
その彼の耳に、百田画伯の声が聞こえてきた。
「――と言うのは、うそ」
耕平が振り返ると、百田はひょうきんな仕草で肩をすくめた。「単にぼくの願望。あんな風におっ立てられたらいいなって」
言ったあと、コロコロと笑った。そうとういたずら好きのようだ。
「じゃあ、アトリエに行こうか」
百田画伯は小柄な身体をきびきびと動かして、屋敷のほうに向かった。
耕平が事前に調べたところによれば、百田陽三郎は昭和16年2月生まれ、今年78歳になる。小柄だが山歩きが好きで、夏の間は軽井沢の別荘を拠点にして、周辺の山歩きを楽しんでいる。
それだけによく日焼けして、いたって健康体に見える。彼は墨田区の福祉事業の支援活動をやっていて、多額の寄付もしている。
半面、いくつかの奇行で知られている。素っ裸になっての隅田川ウォークを企画したり、駅広場でボディーペインティングの実演のため、自らも全裸になって絵の具を全身に塗りたくったりした。いずれも途中で、警察の取り締まりにあったが――。
2階のアトリエに行くと、百田はごく普通の調子で、「さあ、服を脱いで」と言う。
耕平はおずおずと服を脱ぐと、百田はこともなげに言った。
「あ、パンツも脱いで」
画伯は、布製の折り畳み椅子を持つと、耕平の前で腰かけた。
「ふーん、きみ、なかなか造形的なお道具を持ってるじゃないか」
まず顔を寄せて匂いを嗅ぐ。それから口に含み、味見するように舌をまとわせる。そして口から出し、すでに硬く屹立した肉根を、上から横から裏側から、ためつすがめつして観察する。その様子は、男を奮い立たせようとするよりも、男の構造を微に入り細に入り、調べているようだ。
耕平は戸惑ったが、画家のなすままじっとしていた。

「じゃあ始めるか」
百田画伯が立ち上がって、服を脱ぎだした。
「えっ、なにを?」
耕平は股間をおっ立たせて、戸惑った。どうも画伯の行動は先が読めなかった。
小柄だが、均整の取れた裸体だった。それに、78歳というのが信じられないように、肌が引き締まっていた。股間では、さほど大きくないが、皮がきれいにめくれて、形状がくっきりした男の持ち物がぶら下がっている。
ふたりは部屋の隅にあるソファーに行って、抱擁しながら口づけした。
まるでスイッチが入ったように、百田は性愛モードに切り替わっていた。耕平の愛撫に反応して喜悦の声をあげ、細身の身体をうねらせた。
その様は、男であることを変えずに、男と男の愛情を楽しんでいるようだった。お互いの性器を口に含み、タマを咥え、舌をずらせて、蟻の門渡りから秘門まで探訪する。
そしてまた、むさぼりつくように口づけを交わす。
唇と舌と口腔と、そして掌と指を使って、お互いの感じるところを刺激し、探り、また刺激する。自分が男であるだけに、男の感じるところは知り尽くしていた。
百田は疲れ知らずだった。1時間ほどが過ぎて、耕平は男の精を吐き出した。そして百田もわずかの量の精を漏らした。
それは、肛門性交を伴わなくても充実した、甘美な1時間であった。
東武百貨店の画廊で、秋の新作展が開かれた。
たまたま買い物がてら寄った耕平は、部屋の奥に展示された大きな絵を見て驚いた。
圧巻の構図で、がっしりした体格の中年男が描かれていた。床に尻を落とし、右ひざを立て左足を伸ばして、宙を見あげる男の姿が、画面の右斜め半分を占めていた。ほの暗い股間では、生々しいほど造形的な男根が、隆と天を指している。
左の空いたスペースには、窓とベッド、うつ伏せに寝る白い肢体。尻と足がわずかに見えているだけなので、それが女なのか男なのか分からない。
全体に暗い色調で、左の窓から柔らかい外の光が注がれている。
額の右下に、百田画伯の名前と『目覚め』というタイトルが書かれている。
ハッとして描かれた男の横顔をよく見ると、耕平に似ていなくもない。
耕平は思わず「やられたっ!」と言って、おでこを叩いた。
横のご婦人が、怪訝そうに耕平のほうを見た。
――*――
耕平は栗田議員にお供して、公用車に乗っていた。
「あ、そこで止めてくれ」と栗田が言った。
運転手は車を止めると、トランクから釣り竿と紙製の手提げを取り出した。
それを受け取りながら、栗田は運転手に言った。
「そんなに時間はかからん。きみは清澄公園のところで待っていてくれ」
階段を上って隅田川の堤防敷に出た。川側に下ったところが親水公園になっていて、数人の男女の姿があった。
栗田が釣り竿を持ち、耕平が紙の手提げ袋を持った。紙袋には、なにか嵩張るものが入っているようだ。
ふたりは公園の端のほうに行った。手すりのすぐ先に隅田川の水面があった。栗田は水面を見ながら、感慨深そうにつぶやいた。
「最近気づいたが、やっぱり老人って寂しい存在だと思う。人生のピークを過ぎて、あとは死に向かってどんどん下っていくだけだ」
耕平は黙っていようと思ったが、職場の仕事を考えて、あえて反論した。
「でも高齢化社会ですよ。下り坂と言ってもそんなに急坂じゃない。その間、できることはたくさんあると思うんです」
「ああ、きみの言うとおりだ。私だって人が応援してくれてる限り、区議会の議員を続けるつもりだ。でも人の死に直面すると――」
栗田はふと口を閉ざした。
(クリさんは何を言いたいのだろう?)
疑問に思いながら、耕平はぽつりと言った。
「私はクリさんのように人気がない。だって、こんな顔だから――」
栗田は驚いたように、耕平の顔を見た。
「それはコーちゃんの認識不足だ。きみは惚れ惚れするほど、いい顔をしている」
栗田の表情は真面目だった。「お世辞じゃない。それに、私だけがそう思っているんじゃないぞ。コーちゃんの顔は、お年寄りたちにとって仏さまのようなものだ」
耕平が何か言う前に、栗田は耕平の手から手提げ袋を受け取って、紙箱を取り出した。
上蓋を開けると、帆船のミニチュア模型が現れた。長さ30センチほど。
「あれっ、それって――」
あとの言葉を呑み込んだ。養老院にいる、鈴木老人の部屋で見たものに似ていた。あれは未完成だったが、いま前にあるのは完成品だ。
栗田は、釣り竿を継いでリールをセットすると、糸の先に曲げた針金を取り付けた。その針金を慎重に、模型の中央部分の帆先にひっかけた。
「コーちゃん、ちょっとここを押さえていてくれる?」
彼は言って、耕平が外れないように針金を持つと、釣り竿を持ってリールを調整しながら、糸の長さを1メートルほどにした。
「コーちゃん、そのまま帆船を持ち上げて――オーケイ、手を離していいよ」
帆船が釣り糸にぶら下がった形になった。
「さあて、これからが難しい。うまくいくかな」
栗田は言いながら、ゆっくりと釣り竿を川のほうへと向けた。
釣り糸にぶら下げられた帆船が、揺れながら手すりを越え、隅田川へと移動する。そしてゆっくりと川面におろされていく。船が水に浮かんだところで、糸が緩められ針金がうまく外れた。
「大成功だ!」
栗田が子供のように歓声を上げた。
耕平は内心(いい大人が――)と思ったが、黙っていた。
帆船の模型は水の上で、危なっかし気に揺れ動いた。ちょっとした横波がくれば、すぐ横転してしまうだろう。
しかし幸運にも水の流れに乗って、下流へと流れていった。大きな河川の中で、ちっぽけな帆船がますます小さくなっていく。
耕平がふと横を見ると、栗田はお祈りするように、手を合わせていた。その頬には、涙が一筋伝わっていた。
耕平は理解した。鈴木老人の無邪気な笑顔と福々しい身体――。彼は黙って、帆船の方向に向けて両手を合わせた。そしてつぶやいた。「サブちゃん――」