(2)
川井田和敏が家に戻ると、88歳の義父が外行きの服装をしていた。
「父さん、どこに行くんだ?」
「ああ、藤井先生とデートだ。朝帰りになるかも知れん」
「そんなんで、よく娘ができたな」
「ああ、あの時は別の穴に夢中だったからな」
義父は高齢にもかかわらず、年齢を感じさせなかった。外見は昔の殿様のように立派な顔をしているが、茶目っ気があって、いつもユーモラスな受け答えをする。
彼は娘婿の和敏が男も好むということを、とっくにお見通しだった。
自分の娘――和敏にとっては女房が、死んで1年が経ったとき、なんのためらいもなく和敏のベッドにもぐり込んできた。
湿った温もりと吸引――義父は手慣れた口淫で、和敏をぐんぐん高みに押し上げた。そのあと、尻を出した義父の中に入って行った時の、しびれるような締め付けと温もり。
その感動は圧倒的で、彼はあっという間に上り詰めた。
その時を境に、義父のベールが取り払われた。それまではどちらかと言うと敬遠していた義父が、急に親しい身近な存在になったのだ。
和敏にはふたりの娘がいるが、どちらも外に出て、それぞれの家庭を築いていた。合わせて5人の孫がいたが、孫たちもたまに顔を見せるだけだった。
つまり、特別のことがないかぎり、義父とふたりだけの生活だった。それが義父の本質を知って、気まずさがなくなった。お互い気軽に、言いたいことを言う。義父が求めるときは、喜んで閨の相手をした。また義父が、藤井一成というリタイアした開業医と長年、男色関係にあったことも知った。
義父の裏側を知ったとき、なんだか騙されていたような気がした。義父は町内で殿さまとあだ名されるほど、立派な人物と見られていたからだ。
しかし茫洋とした大陸風の雰囲気の中で、義父がときおり見せた色気やお茶目は、義父の本質を垣間見せていたのかも知れなかった。
それに、和敏には義父の男色嗜好をとやかく言う資格がなかった。なにしろ彼自身が、男色を好んだからだ。
和敏は現在65歳になる。172センチ、78キロ。少し太めの均整の取れた体格をしている。スポーツが好きで、特にゴルフには入れ込んでいたが、62歳のときすっぱりと止めた。このとき女房が病気で急逝したのだ。会社の役員だった彼は、ゴルフだけでなく会社も退職した。
べつに彼が、女房一筋に生きてきたわけではなかった。相手が女であれ男であれ、きっかけがあれば、つまみ食い程度に他人と浮気してきた。
それでも、女房の死はショックだった。ともすれば快楽に走ろうとする和敏にとって、女房はその抑止剤であった。また、人生のよき相談相手だった。和敏が人に慕われる人柄になったのも、女房の影響があったからだ。
女房の死後、思いがけない形で義父と親密になったのは、不幸中の幸いだった。彼は義父の勧めで町のシニアクラブに入会し、まもなくして副会長に推された。そしてクラブ会員の老人たちから、信頼を得る存在になっていた。
しかし、へそから下に人格が無いというように、こと性愛に関しては節操がなかった。
65歳とはいえ、彼はまだまだ無尽蔵の性欲を持っていた。ちょっとチャンスがあれば、それを逃さずアタックした。彼の烙印を押された男や女は、あけぼの町でもかなりの数に昇るはずである。
神田清志にとって、川井田和敏との出会いは衝撃的だった。
町内会長が初対面のふたりを紹介して、川井田がにっこりとほほ笑みかけたとき、いきなりズドンとハートを射抜かれた。
川井田が握手を求め、清志は興奮に震える手をさしだした。肉の厚い乾燥した手が、清志の手をしっかりと握った。そこから愛の弱電流が流れ込んできた。
そのときから川井田は、清志の内に秘めた恋人となった。片思いの恋である。
町内会とシニアクラブは、連携をとって町の催しをやることが多かった。当然、シニアクラブの副会長をやっている川井田も、その都度、顔を見せた。
清志は以前にも増して熱心に、町内会の仕事をやりだした。そして川井田と会う機会を増やしていった。
そして、努力の甲斐あって、清志は川井田と親しく口を利けるようになった。カンちゃん(神田清志)、カズさん(川井田和敏)と愛称で呼び合う仲にもなった。
しかし――そこまでだった。清志はもう一歩踏み込んで、カズさんと特別な関係になることができなかった。それはある意味、苦痛だった。愛する人がすぐ傍にいて、自分の想いをひたすら隠しておかなければならないのだ。

あるとき、会合の別れ際に、今度ふたりで食事でもしませんか、とカズさんが誘ってくれた時、清志はときめきを覚えた。それを伝える時のカズさんの表情に、何かいつもと違うものを感じたからだ。
(ひょっとしたら、なにか進展が――)
未知の予感に、膝が震える思いだった。
明日の食事を約束して、ワクワクしながら自宅に戻ったとき、彼の気持ちは急落した。
――女房が家にいなかったのだ。
その日はヘルパーが休みを取っていた。そのとき、昌子がひとりで徘徊したようだ。
清志は心当たりをすべて探した。警察にも協力要請した。冬のこの時期、夕方になると暗くなって、寒さも増した。
昌子が見つかったのは、夜の10時を過ぎたころだった。公園の片隅で、寒さに震えて意識朦朧としていたのを、近くの住人が見つけて警察に届け出たのだ。
病院で診察を受けたとき、昌子は急性肺炎にかかっていた。レントゲン検査で肺の中が真っ白になっている、今夜が山でしょう、と医師は言った。
清志は病床で、目を閉じた昌子をじっと見守った。
夜の病室は静まり返っていた。看護婦が来て、すこしお休みになったらと言ったが、清志はその場を離れなかった。
深夜の1時を過ぎたころ、昌子がふと目を開けた。
彼女は清志の顔を認めたようだ。そしてひとこと言った。
「あなた、私より――男が好きなんでしょう」
声は小さいが、口調は明瞭だった。
ハッとして、清志は妻の顔を見た。そこには認知症による混濁のようすもなく、真実を宿した瞳がまっすぐに彼を見ていた。
清志は言葉を失った。ただ妻の顔を見守っているだけだった。
夜のうちに、昌子は息を引き取った。
そのあとの記憶は夢の中のようだった。娘が来て、葬式の準備をして、葬式から火葬場までの一連の行事があった。あっという間に二日間が過ぎた。家に女房がいないことが嘘のようだった。
葬儀の慌ただしさが過ぎると、じんわりと重い気持ちがのしかかってきた。昌子はおれの性癖に気づいていたのだ。最後に見せた一瞬の正気――。
川井田和敏のことを思うと、心がときめいたが、今は彼を想うだけでも、女房に申し訳ない気がした。それに川井田に対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せっかく食事の約束をしたのに、こちらの都合でキャンセルしたのだ。
割り切れない気持ちのまま、清志は新宿に出かけた。
新宿御苑の近くにある、昔馴染みの小さなバーに入ると、香木のしっとりとした匂いが、鼻にスッと入ってくる。大人の隠れ家的バーを演出して、照度を落とした明かりの中で、髪の薄いバーテンダーが穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「いつものでいいですか?」
名前はシゲルさんとだけ知られている。おそらく2年ぶりなのに、清志をいつもの客のように遇した。
そして清志も決まったひとことで答える。「ああ」
さっそくシゲルさんが、手際よくカクテルを作る。
一片の氷にベルモットを注ぎ、ベルモットの薄膜がついた氷だけをカクテルグラスに入れる。これに冷やしたジンを注ぎ、最後にレモンを軽くしぼって1滴たらす。
この店特製のエキストラ・ドライ・マティーニの出来上がりだ。
『ウォッカ・マティーニ。かきまぜないでシェイクしてくれ』
マティーニを飲むと、この言葉を思い出す。007のジェームズ・ボンドがマティーニを頼むときに言うせりふである。ふつうマティーニは、ジンとベルモットを入れてかきまぜる。それをジンの代わりにウォッカを使い、かきまぜずにシェイクしろ、と言う意外性が面白い。
「2年になりますか?」
「ああ、それくらいかな」
「お変わりありませんね」
「成長がとまったんだろう」
「また、御冗談を」
話しながらシゲルさんは、グラスを洗ったり、酒瓶を拭いたり、小忙しく働く。どうかした拍子に、小腰を屈めた後姿が見えるのだが、ズボンの布地が張りついた小さな丸っこい尻が、目を楽しませてくれる。
清志がこの店に来だしたのは、15年ほど前になる。仕事一途に働いて、同期よりも早く部長に抜擢され、そして――50代半ばで立ちどまって考えた。
(こんながむしゃらに働いて、なにが残るのだろう)
そんなとき、ふと立ち寄ったのがこの店だった。
どことなくみやびた感じのするバーテンダーは無口で、そよ風のようにさわやかだった。言葉少なだが、話す言葉に含蓄があった。
清志は決して深酒しない。いつも1杯か2杯のカクテルを飲んで、現金を払って帰って行く。
マティーニを飲み終わって、もう一杯飲もうか考えていると、シゲルさんが一番奥の棚からウィスキー瓶を取りだした。
ザ・マッカランのシェリーオーク18年もの。シェリー樽で熟成された原酒のみを使用した、高級シングルモルト・ウィスキーだ。
「片桐先生の?」
「ええ。あなたなら、先生も喜んでくださると思います」
そう言ってシゲルさんは、錫の小さな容器に琥珀色の中身をそそいだ。それから氷と水をいれたチェイサーを横に置く。
この店のなじみ客だった片桐先生は、3年前の暮れに脳梗塞で亡くなった。
清志は、ふとしたきっかけで顔見知りになり、親しく口をきくようになっていた。さほど多くの会話をするわけではないが、老人の姿を一瞥すれば、何となくほのぼのした気分になる。
一見、英国紳士風のスマートな体型に、鼻髭を生やしている。この白い鼻髭がまた、白髪やや面長の顔によく似合っていた。
折り目正しい人物で、のんびりと楽に構えているのに、背筋を伸ばした端正な姿だった。ザ・マッカランのシングルモルトをストレートで飲む。脇には氷水を添えて――。先生の飲み方はいつも変わらない。
ほっそりした指が錫の容器をつまみ、ひと口ずつ味わうようにすする。そのあとゆっくりと水を口に含ませる。
シゲルさんは無口だが、片桐先生も口数の多い人ではなかった。某大学の教授をしていると聞いた。奥さんは彼岸のかなたに去って久しく、子供はいなかった。
「さびしいです――先生が亡くなられて」
珍しくシゲルさんが、感情を露わにした。
バーテンダーに合わせて、清志も本音を言った。
「物静かな人でしたが、存在感がありました。私は先生が好きでした。なにか先生が傍にいるだけで、癒されるようでした」
「さびしいです――」
シゲルさんが繰り返し言った。声が涙ぐんでいた。「私は東北の田舎から出て来て、半世紀が経ちますが、心を許したのは先生だけでした。もう先生を思うと、さびしくて、さびしくて、どうにもなりません」
シゲルさんは肩をふるわせて激情を抑えながら、さびしいです、と繰り返し言った。
(ひょっとしてシゲルさんは、先生と特別の関係だったのか)
清志はふと思った。とたんにシゲルさんが艶めいて見えた。と同時に、カズさんの顔がふっと目に浮かんだ。