目 次
老春の街(前) -  (3)
(3)

あれから6年の歳月が流れた。
小玉は拠点をあけぼの町に移して、幇間業を再出発した。会長から借りた家は、元妾宅にしては広かった。8畳と6畳の続き間、それに6畳とダイニングキッチンの板の間があった。子や孫たちは独立していたので、ここで生活するのは、小玉と女房の二人住まいだ。だから続き間は、そのままけいこ場に充てることができた。
そして会長の口利きもあって、仕事は以前より増加した。おもに企業の、各種催しの舞台に呼ばれる仕事だった。
弟子もふたりから4人になり、その内ふたりは、小玉の代わりに舞台を務められるようになった。そして踊りの生徒たちも順調に集まっていた。
小玉は会長の行為に甘えて、借りた金や借家の賃料を、できる範囲でコツコツと返済していった。

この6年の間、会長と艶っぽいことは何もなかった。
会長宅に初めて伺ったとき、彼が演じた一人芝居は、会長にあてたメッセージだった。
会長がお望みなら、この身を差し上げますよ、と。
そして会長も、小玉の幇間芸に込められた意味に十分気づいているはずだった。
でもその後、何度も会っているが、会長からその種の誘いは一切なかった。
偶然の符丁か、仲間会長は、本当に一部上場企業の会長となって、ふたたび厳しい会社組織に返り咲いた、ということは知っていた。
それでも――小玉は会長の屋敷で、一緒に風呂に入ったときのことが忘れられなかった。
そして、会長に対する思いは、ますます強くなっていた。
大船に乗った安心感と男らしい優しさ、そして鷹揚な中にも時折見せる厳しさ――。
今の彼の状態は、まさに仲間会長に恋をしていた。それも、片思いの恋である。
――恋とは麻疹のようなもの。遅くに経験すると症状は重くなる――。
客に言い寄られて、頑なに断り続けてきた小玉は、今や4つ年上の会長に、恋い焦がれていたのだ。

一方で、あけぼの町に引っ越すとき、父が残した古い段ボール箱を整理していて、張り形を発見したのも衝撃だった。
男芸者と呼ばれた幇間が、好き者の旦那の相手をさせられるのは、よくある話だ。
プロ意識の強かった親父も、張り形を使って自らの菊座を広げ、客の要望に応えていたのだろうか?
それにしても太かった。計ってみると、直径4センチあった。
小玉は、女房の目を盗んで、その張り形を試してみた。とても入りそうになかった。
(でも、会長のチンポは――)
あのとき浴室で目にした会長のモノは、4センチより太いように思えた。
それ以来、小玉は、自分の菊座を広げる努力をしだした。変な話だが、親父に対する対抗意識もあった。
人間の身体は、意外に包容力がある。最初は到底無理だと思っていたことが、修練を積むことによって可能になってくる。そして小玉は、親父の残した張り形を、余裕で尻の中に収めることが出来るようになっていた。
そしてまた習性とは恐ろしいもので、張り形にオイルをつけて尻に出し入れしていると、その感触が病みつきになって、ますます会長を求める気持ちが増大していった。



会長は会社の仕事が忙しいのか、この半年ほど顔を見せていない。
それだけに小玉の思いは募るいっぽうだった。
とうとう春先の夕方、会長が道楽で老人相手にやっているという、湯島にあるバーに出向いた。ひょっとしたら、会長が姿を見せるかもしれない、という淡い期待があったからだ。
幅4メートルほどの路地の一角に、グランパラダイスはあった。蔦の絡まるレンガ壁に重厚な樫の木製ドア。馴染み客でない小玉には、入るのに勇気のいる古色蒼然とした雰囲気があった。
そっとドアを開けると、右手奥に黒光りする木製カウンターがあって、客がふたりいた。立派な顔立ちの坊主頭と、遊び人風の男。遊び人風のほうが、店に入ってきた小玉を興味深そうに見ている。
「いらっしゃい!お客しゃん、初めてですと」
カウンターの奥から、店のマスターらしい男が声をかけた。九州訛りがある。小玉と同じ年頃のようで、どことなく浅草の演芸場の旦那、浜口に似て優男だ。
小玉がふたりの客から離れて、空いたカウンターの前に腰かけると、マスターが言った。
「何にすると?」
「あ、お酒を。出来ればぬる燗にして――」

酒はさほど待たずに出てきた。自然薯の細切りに鰹節をまぶし、酢醬油であえた突出しが添えられていた。
一口含むと、辛口の酒で、ぬる燗にした甘みが味を和らげている。
「これはうまい!マスター、これはどこの酒ですか?」
マスターが嬉しそうに答えた。
「ああ、埼玉の神亀酒造で造っとる酒ばい」
そして付け加えた。「オーナーの会長しゃんが厳しか人ばってん、いい酒を入れとかにゃあ怒られるんばい」
「仲間会長さんですね」
小玉が言うと、マスターは大げさに目を丸めた。
「会長しゃんを知っとうと?」

小玉が答える前に、奥の席から声がした。
「ねえ、あんた、会長はんと、どないな関係やねん」
遊び人風の男だった。知らない男になれなれしく声を掛けられて、小玉はたじろいだ。
「あ、いえ、仲間会長さんには大変お世話になっておりまして」
そこで自己紹介した。「私、酔玄亭小玉と申します。深川で幇間をやっております」
「ホウカン?」
男が怪訝な表情をした。
「お座敷に出る太鼓持ちのことだ。男芸者とも言う」
男の横にいた坊主頭が説明した。歌舞伎役者のようにいい男だ。
「ふーん、道理で可愛らしい顔してると思うた。ねえ、あんた、今夜うちと付き合うてみいへん?」
「バカッ、ホーケイ、やめとけ!」
「あ、ツーさん、自分こそ軟派しようと思うてんのやろう」
そこで坊主頭が、しゃれ者の頭をピシャリと叩いた。
「バカッ、お前、殴るぞ!」
「殴ってから言わんといてよ」
「ふん、お前なんか、全人類の幸せのためにも、くたばっちまえ!」
小玉は、いかにも軽そうな男と役者顔の男のやりとりに、戸惑うばかりだった。これでは会長に会えるどころか、このあとどんなお鉢が回ってくるか、知れたものではない。
彼はお銚子を1本空けたところで、早々に退散した。

7月に入って、会長の屋敷の古々呂という老執事から電話が入って、会長が退職された祝いの席にお呼び出しがかかった。
その当日、酔玄亭小玉の家に黒塗りベンツ車が停まった。会長が気を使って、小玉たちのために送迎の車を寄こしてくれたのだ。
恰幅の良い初老の運転手が車から出て、トランクルームを開けて、年増の芸人衆が持つ、太鼓や三味線を収めた。楽器が傷つかないよう、毛布が用意されている。万事にそつがなかった。
それから後部ドアを開けて、小玉たちを座席に導いた。
小玉は運転手に頼んで、前の座席に座った。運転手に興味があったからだ。
名前を大木奈と言った。会長はもっぱら彼のことを、大ちゃんと呼んでいた。63歳、無口だがいたって温厚な性格のようだ。

湯島に行く途中、小玉はさりげなく運転手に話しかけて、会長と運転手の関係を探った。ふたりの間に何となく、艶めいたものを感じ取っていたからだ。
「はあ、私は会長のおられた、会社の運転手をしていました。――もう歳なものですから、この春、会社を辞めたところで――このほど勇退された会長に引き取られました」
慎重に運転しながら、運転手は問われるままに、ぽつりぽつりと答えた。その丁寧な話しぶりは、身体は大きいのに癒し効果のある穏やかさを感じさせる。

屋敷に着くと、白髪の執事があらわれて、庭に面した座敷に案内された。小玉はこの執事と会長の間にも、艶めいたものを感じていた。
座敷にはすでに10人ほどの先客がいた。グランパラダイスのマスターや、そこにいたふたりの客の顔ぶれもあった。小玉と囃し方の年増ふたりは、彼らの席から少し離れたところに控えた。
ほどなく会長が、着物姿であらわれた。白地亀甲柄の浴衣にグレーの襦袢を着て、粋な赤茶色の帯を締めている。恰幅が良いので、着物姿がよく似合っていた。
会長がいつものざっくばらんな口ぶりで、自分が会社をリタイアしたこと、皆への感謝の気持ちを述べて、小玉を紹介した。そこで乾杯して、宴会が始まった。
[19/08/22 21:21 神亀]
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