目 次
老春の街(前) - 3.ぜったいに無理
(1)

旧家を改修した江戸民芸館の向かいに、幇間(ほうかん)の酔玄亭小玉の居宅がある。
小玉は江戸の代から幇間を生業としてきた家に生まれ、子供の頃から親の稽古を見てきて何の疑問も抱かずに家業を継いだ。
弟子を持つ幇間の師匠だが、まわりの人間には自分のことを大将と呼ばせている。
彼の知っている日本舞踊の師匠に、真山喜一郎という人物がいた。中肉中背、上品な顔立ちとしなやかな物腰をして、その踊る姿は一種独特の艶があった。
真山の踊りを見て、小玉は驚嘆した。(これはとうてい、かなわねえや)
もともと本格的な日本舞踊と幇間の踊りでは、比較するのもおかしい。それでも向上心の強い小玉には、月とスッポンのような違いを感じたのであろう。そこで真山と同じように師匠と呼ばれることが面映ゆくて、自分は大将と呼ばせることにしたのである。

さて小玉は、艶福家として、花柳界のうわさに上るほどだが、彼自身が積極的に女漁りをしてきたわけではない。肉体的には小柄なほうで、顔立ちもごく普通の男だった。
その彼が、女によくもてた。それも年上の女が多かった。どうやらその理由は、幇間という彼の職業に起因するところが多いようだ。
幇間は芸者衆と客の間に立って、場を盛り上げる芸人である。噺家のように喋れて、身のこなしも軽く、嫌なことがあっても笑いでさらりと受け流す。
女から見れば、親しみやすい相談相手であり、また気軽につまみ食いできる浮気相手でもあった。
そして小玉本人も、ソノ方面は嫌いなほうではない。身体は小さくても、健康的な性欲は旺盛だ。据え膳食わぬはなんとやら――必然的に女たちとの濡れ事は増えたのである。

しかし、60代の半ばを過ぎたころから、小玉の艶めいた話は一切聞こえなくなった。
すっかり枯れたかというと、そうでもなく、月に一、二度は古女房を突いている。しかし最近は、閉経した女房が嫌がって、この半年ほどご無沙汰している。
浅草6区にある演芸場の浜口という旦那が、女遊びをやめて、爺さん愛に宗旨替えしたというのは、風のうわさに聞いていた。この旦那は、確か小玉より14歳年下だ。
(まだ若いんだ。相手が変わろうと、股座のモノを使って盛りたいのは同じだろう)
精力の減退を感じている小玉は、やっかみ半分でそんなことを考えていた。

別に、男色に悪い感情を抱いているわけではなかった。江戸の時代から旦那衆が、女だけでなく陰間も可愛がっていたのは、親父から聞いていた。
それに彼自身、これまで男好きの旦那になんどか求愛されたことがある。
幇間は、太鼓持ちあるいは男芸者と呼ばれるだけに、ソノ方面の要求もままあった。それにお座敷芸そのものが、性的な遊興であるから艶めいた話は後を絶たない。
現代は、幇間の芸も大勢の男女の客を前にして、舞台で芸を披露することが多くなった。結果、艶めいた芸は、極力抑えられるようになった。
それでも私的なお呼びが掛かって、座敷に出向くことがある。そんな時に、密かに客から誘いがあったりするのだ。
しかし小玉は、その種の要求を拒み続けた。
断固として断るのではなく、さらりと笑いで流すのだ。「実はわたし、地主なもので」
そう言えば、座敷で遊ぶ旦那衆は、粋人が多いのですぐ理解する。地主と痔主をひっかけたものだと。
そんな小玉だが、この人なら抱かれてもいい、と思う人物がひとりだけいたのである。



小玉が60歳になったときだった。
趣味で幇間の踊りを習いに来る生徒たちも、10人ほどに増えていた。幇間芸を披露する宴席のお呼び出しも順調だったし、ふたりの弟子を食わせていくのに余裕があった。
そこについ油断が生じた。
セールスに来た若い男の勧誘に乗って、商品取引相場に手を染めたのだ。結果は、半年と経たずに、言葉巧みな男の言う大儲けどころか、大損した。
株の取引と商品取引の違いを、あとで知った。株は損をしても最悪、投資額がゼロになるだけだが、商品取引はそうはいかない。投資額がゼロになるどころか、それ以上の負債を抱え込むことになる。
そんなことに気づいたのは、あとの祭りだった。借金がかさんで、代々継いできた浅草の家を処分しなければならなくなった。
不動産の売却資金で借金を返すことはできるが、残る金は生活費くらいにしかならない。ふたりの弟子や、専属の三味線と太鼓の女性芸人たちに給金を払う余裕もない。また生徒たちに踊りを教えるけいこ場もない。
こうなると、代々続いた幇間の仕事を辞めざるを得なかった。

そんなとき、ある馴染みの客が、小玉の窮状を聞きつけてやってきた。
正井という名の老舗和菓子店の主人で、66歳になる貫禄のある男だが、これまで折に触れ、小玉に対して男色の誘いをかけていた。
「私じゃ役に立たんが、知人を紹介してあげるから、一度会って見るかい?」
正井は言った。「会長は人物の大きな人だよ。それに資産家でもある。大将が会って損はないと思うよ」
藁をも掴む思いだった小玉は、一も二もなく承諾した。

7月の後半になり、梅雨が明けたころ、先方の都合がついた。
小玉はいつものように、紗の着物に羽織を着た。タクシーを呼び、正井社長に同行して、会長と呼ばれている人物の自宅に向かった。
タクシーが着いた先は、湯島にある古くて大きな屋敷だった。
表札に仲間篤志とある立派な門構えの前で、白髪の老人が敷石に水打ちしていた。
老人はタクシーから降りる正井に気づいて、丁寧に頭を下げた。
「正井さまですね。主人がお待ちしています」
そう言って老人は、ふたりを屋敷の中に導いた。

小玉は、執事らしき老人の後に付いていきながら、緊張感に震える思いだった。
(こんな歴史のある大きな屋敷に住んでいるのは、いったいどんな偉いさんだろう?)
そして通された応接間で家の主に会ったとき、震える思いは最高潮に達した。
正井は貫禄のある男だが、その正井でさえ配下に思えるほど、家の主は貫禄があった。
いかにも大人顔で太めの体型だが、精力的な感じがした。それに一種独特のオーラを放散しているようだった。
ここに来る途中、タクシーの中で正井に聞いた話――大手企業の常務までやって、今は悠々自適の生活を送っていること、皆からは会長と呼ばれていること、貸家を何件か持つ資産家であること、道楽で老人相手のバーを経営していること――それらの話が頭の中で駆け巡って、小玉はますます緊張した。

そんな小玉の緊張を解きほぐすように、会長は穏やかな笑みを浮かべ、小玉に向かって、ざっくばらんに話しかけた。
「大将のことは、マーさんから聞いています。それで大将に直接会って、話を聞こうと思ったのです」
小玉は内心驚いた。自分が師匠でなく大将と呼ばれていることを、この人物はすでに知っているのだ。それにマーさんと呼ぶからには、正井と相当懇意にしているのだろう。
小玉は正直に、最初から順を追って話し出した。
すべては正業をおろそかにして、楽をして儲けようとした自分の過ちであったこと。商品取引相場で大損して、あっという間に窮状に追い込まれたこと。代々継いできた家を売り払って負債は清算したが、このままでは幇間の仕事を続けていくためのけいこ場や資金がないこと――。
正井が横から、小玉の人柄や幇間芸を持ち上げて、なんとか援助してやってくれ、と口添いした。

会長は口を挟まず、黙って聞いていた。そして、ふたりの話が終わったとき、小玉の目を見ながら、おもむろに口を開いた。
「それで大将は、けいこ場と金があれば、幇間業を続けていく自信はあるのかね?」
話す言葉は穏やかだが、ハッとするような厳しさが伝わってきた。
小玉は思わず姿勢を正して、若造のように返事をした。
「ハイッ!今回の件は身に染みて反省しています。もしやり直せるのであれば、初心に戻って、代々伝わる幇間の仕事を守り抜いていきたい、と思います」
会長は何の反応も見せなかった。黙ってふたりの客の顔を茫洋と見ている。
小玉はごくりと唾を呑み込んで、会長の返事を待った。
唐突に会長が、部屋の隅で控えている白髪の執事に向かって、声をかけた。
「チュウ、風呂の用意をしてくれ」
声をかけられた執事は、ハッとしたように顔をあげて何か言おうとしたが、そのまま黙って頭を下げ、部屋から出て行った。

「家の主と同じで、この家は古いが、風呂だけは快適に過ごせるように改装しています。私は風呂に入るのが大好きでね」
会長は小玉に向かって、にっこりと笑いかけた。
心が蕩けてしまうような笑顔だった。
小玉はこの会長がいっぺんに好きになった。雲の上の存在のような偉いさんが、人情味あふれる笑顔で、自分のような小者に親しみを見せたのだ。
「どうです、このあとは風呂に入って話をしませんか?」
「はい、それはもう喜んで」
小玉は即座に返事をして、横にいる正井のほうを見た。
ところが正井は、逡巡している様子だった。そしておもむろに口を開いた。
「私はそのう――遠慮しておきます。実は寝冷えしたのか、ちょっと風邪気味でして」
「それはいけませんな。あとでチュウに言って、玉子酒でも用意させましょう」
会長が言うのに対して、正井はあわてて手を振った。
「お気遣い無用です。おふたりが風呂に入っている間、私はお庭でも拝見させていただくことにします」

執事が部屋に戻ってきて、風呂の用意ができたと告げた。
会長の後に付いて広い廊下を歩きながら、小玉の心は揺れ動いた。偉いさんと裸の付き合い――正井がいないことで、彼は神経質になっていた。旦那衆は女遊びに飽いてくると、男娼に食指を動かすと言う。ひょっとして、この会長もそうなのだろうか?
その種の要求は断ってきた小玉だが、切羽詰まった状況の今では、この会長が迫ってくるなら身を任せてもいい、と覚悟を決めた。
[19/08/20 08:39 神亀]
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