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隅田川沿いの東岸にある深川あけぼの町。古い街並みを残して、平日は人通りも少なく、ひっそりとしている。それでも最近は東京スカイツリーが出来たことにより、その流れを受けて物好きな観光客の姿も、チラホラ見られるようになった。
街の一角に、昔なじみの古びた床屋がある。店も小ぢんまりとしているが、そこで働くふたりも、小ぢんまりとした体つきをしている。
店の主人は貝山悦男、75歳。可愛らしい容貌と小柄ながらふっくらとした体つきから、親しい人たちにエッちゃんと呼ばれている。
従業員の樺山正一は22歳。ほっそりとした色白清楚な童顔である。彼は店主や客たちから、正ちゃんと呼ばれている。
ふたりはよく祖父と孫の関係と間違われるが、血のつながりはなかった。
ただ正一は、子供の頃から悦男の店に出入りして、よく可愛がってもらった。正一はお爺ちゃんのような悦男によく懐いて、その仲がそのまま、床屋の店主と従業員という関係に発展したのだ。
肌寒さを感じる薄曇りの朝だった。
その日、床屋では、若い従業員の正一ひとりが働いていた。店の前の歩道に散らばった、街路樹の枯れ葉を掃き寄せ、ビニールのごみ袋に詰める。そのあと店内に戻って、蒸しタオルの温度をチェックする。それから鏡やその前のカウンター、洗髪ボウルを拭き清める。あとは散髪備品を確認して、それで準備完了だ。
テレビのニュースを見ていると、その日、第一号の客が来た。警備員の堀田だ。正一と同じ賃貸アパートの住人なので、顔見知りだった。
「おはようございます」
声が小さい、といつも大将に注意されるので、努めて明るい声を出した。
堀田はわずかに頭を下げて、店内を見渡す。
「今日は、大将はいないの?」
「ええ、午前中はお休みです。なんでもお葬式があるとか」
そのとき正一は、客の顔に浮かんだわずかの笑みを見逃さなかった。いつもは堀田の散髪をするのは店主だが、正一には堀田が自分を望んでいるような気がしていた。
椅子に腰かけた堀田にヘヤエプロンをかけ、鋏と櫛を使って散髪しながら、正一はお愛想のつもりで話しかけた。
「堀田さん、今日はお休みですか?」
「ああ、夜勤明けだ」
堀田は極端に口数が少ない。正一も無口なほうだが、堀田はそれ以上だ。あとはたいした会話もなく、サクサクと髪を切る音だけが続いた。
散髪が済むと、エプロンを取り、椅子を倒して髭剃りに移った。これはもっぱら正一の役割だったので手慣れていた。刷毛で石鹸を泡立て、すくって顔に塗りつける。ついで剃刀で器用に髭を剃っていく。遅滞なく、触れるか触れないかの羽毛のタッチで――。正一の髭剃りは評判が良かった。
ふと視線をずらしたとき、オヤと思った。堀田のズボンの前が大きく膨らんでいた。左側の布地が性器の形状そのままに、張り詰めているのだ。見ていて恥ずかしくなるほど、大きな亀頭がくっきりと浮き出ている。
俄かに心臓が高鳴った。
ハッとして堀田の顔を見ると、こちらをじっと見つめる目があった。
その目に浮かんだ熱情――。
正一はどぎまぎした。これまでもそんな兆候に気づいていたが、まさかこんな露骨に自分の気持ちを伝えるとは。
(困るんだなあ)
最初に浮かんだのは、そんな気持ちだった。(これがエッちゃんなら、嬉しいんだけど)
彼は面と向かって言わないが、75歳の店主を密かにエッちゃんと呼んでいた。
そしてエッちゃんは、子供の頃からのあこがれの的だった。優しい笑顔と心地よい声――エッちゃんは正一にとって、53歳年の離れた片思いの恋人だった。
それに対して堀田は62歳だが、まだまだ壮年男の逞しさがある。それに身長170センチほどに、肉が厚くついたがっしりした体格。正一はなんとなく恐怖心を抱いていた。
ちょうど乙女が、未来の夫に対して恐れを抱くように――。
そのとき正一がホッとしたことに、ほかの客が店に入ってきた。
「いらっしゃい!」正一は明るい声をあげた。
――*――
今日は絶対に泣かないと決めていたのに――。
焼香台の前で遺影を仰ぎ見ると、唐突に涙があふれ出た。あとからあとからあふれ出て、止めようがない。感極まって、すすり泣きの声まで漏れ出る。
震える手で焼香を急ぐ。数珠で両手を合わせ、改めて遺影を顧みた。(ターさん――)
そのあと親族席のほうを見るのがつらかった。顔をうつむけたまま、式場を出た。係員が直来会場を教えたが、寄らずに立ち去った。今は誰にも会いたくなかった。
そのあとどう歩いたのか覚えていない。気が付くと隅田川のほとりに来ていた。
灰色の空を背景に、東京スカイツリーがぼんやりと滲んでいる。隅田川に目を転じると、未来の乗り物のような新しい遊覧船が、川を下っていた。ちょうど逆方向から従来の屋形船がやってきてすれ違った。なんだか今の隅田を象徴しているようだ。
貝山悦男は、空いたベンチに腰掛け、ぼんやりと隅田川の風景を眺めた。
一陣の風が吹き過ぎ、枯れ葉を巻きあげた。
ふたたびターさんへの思いがぶり返した。
「ターさん、おれ、これからどうしたらいいんだ」
口に出して、つぶやいた。
ターさん、エッちゃん――そんな関係になって、20年が経つ。
あれはターさんが会社を定年退職した頃だった。ひとりで細々と床屋をやっていた悦男の店に、ターさんがやって来た。ほかの客はいなかった。
そこで唐突に、ターさんは言ったのだ。
「退職祝いに鬼怒川温泉の宿泊券をもらった。どうだい、俺と一緒に行かんか」
ターさんは、いたずらっぽくウインクした。「俺の女房には内緒だ」
天にも昇る思いだった。口には出さないが、悦男はターさんに対して密かな思いを抱いていた。それが今、ターさんのほうから明白に気持ちを伝えたのだ。
そして鬼怒川温泉の旅館に泊まって、ふたりきりのひととき――。今思い出しても、心が震えてくる。
「前から男に興味があった。でも変な噂が流れて、会社に迷惑をかけたくなかった。なにせ偏見だらけの世の中だからな。それも今やフリーの身だ。それであのとき勇気を奮って、エッちゃんに声をかけたんだ」
ターさんは問わず語りに話した。時折見せる恥ずかしそうなそぶりに、好感が持てた。
その夜、ふたりは初めて同衾した。悦男は経験者だったが、ターさんは初めてだった。
必然的に悦男がリードした。彼の口と手による先導に、ターさんはたちまち男の本能をよみがえらせて、一直線に入ってきた。
濡れた滑脱、たぎる血潮、そして最後の瞬間の喘ぎ声――。
交わりはほんのひと時だが、凝縮したひと時だった。
終わったとき、悦男はターさんの胸に顔を押しつけて泣いた。まるで新婚初夜で処女を捧げた新妻のように。
ふたりの親密な交流は、それから始まった。
上野や浅草の男宿で、密かな逢瀬を重ねた。気分転換に、駒込の健康センターまで足を延ばすこともあった。
肉の交わりによる歓び――最初の10年間はそうだった。5歳年上のターさんは、元気なオトコのお道具で、ウケ願望の悦男を満足させてくれた。
やがて転機が訪れた。
70歳の古希を迎えた頃から、ターさんの精力が衰えてきた。満足に勃起しなくなるのも増えてきた。
この頃からふたりの関係は、より精神的なものになってきた。時間の都合がつくと、連れ込みホテルに行くのではなく、公園や神社、文化的施設に行くようになった。清澄庭園や向島百花園、江戸東京博物館など、近場の観光施設は潤沢にあった。
それでも全く肉体の交わりがないわけではなかった。裸になって肌を合わせ、お互いの肉体を愛撫したり、口に含んだりして慰めあった。最後までいかなくても、それで十分満足していた。
その間、ふたりの関係は、ターさんの奥さんの知るところとなったが、さほど深刻にはならなかった。普通の交友関係よりもちょっと親密な、兄弟のような仲の良い関係――奥さんはそういう風にとらえていた。
ただふたりして、カンボジアのアンコールワットに行ったときは、ひと悶着あったようだ。奥さんさえ連れて行っていないところに、赤の他人と行くなんて、と。
さまざまな思い出が、浮かんでは消えていった。でも――ターさんはもういない。
もう一度、声に出してつぶやいた。
「ターさん、なんでおれを置いていったんだよ」
