■ 悠久の彼方へ - (結)
(結)
和銅5年(712年)の正月、アレはマロと並び立って、感慨深げに朱雀門を見上げていた。門は、白壁に鮮やかな朱色の柱や梁の映える、豪華な威容を誇っている。二人の背後には、朱雀大路が南北に一直線に伸びていた。
(あの時から30年余りか――思えば長い月日が過ぎたものだ)
ずいぶん昔、天武天皇に史記の誦習を命じられ、古事記の編纂事業が始められたときのことが蘇ってくる。
(あのとき、ホンジさまと初めてお会いしたのだった――)
アレはすでに59歳になっていた。皺ひとつない艶やかな顔にも、老いの陰りが忍び寄っていた。そろそろホンジの後を追って、あの世に旅立ってもいい歳だ。
横に立つマロの横顔をそっと仰ぎ見た。
(マロさまも親父さまによく似てきた)
マロは54歳、精悍だった風貌は、すっかり角が取れて、見るからに穏やかな顔つきになっている。頭に被る冠から覗く髪も、白いものが多い。
「アレ、私はそろそろ行くぞ。お前は屋敷で待っていてくれ」
マロは古事記の包みをアレから受け取ると、朱雀門の中へと入っていった。
天井の高い壮大な大極殿の一画で、マロは身を伏せていた。彼を囲むように周りには、大勢の貴族や官人たちが控えていた。
微かな衣擦れがして、声が聞こえてきた。
「太朝臣(オオノアソン)、面を上げよ」
顔を上げると、高御座に色鮮やかな衣装を身にまとった元明天皇の姿があった。
マロは緊張していたが、年配者らしく穏やかな声で奏上した。
「昨年より編纂しておりました古事記全三巻が、このたび完成いたしました。謹んで献上申し上げます」
そこでマロは、書物を乗せた三方を捧げ持った。それを官人が受け取り、帝の前に捧げ持って行った。
「さすが太朝臣じゃ、わずか三ヶ月で出来るとは、思うてもおらなんだ」
女帝は言って上巻を手に取り、しばらく見ていたが、そっとつぶやいた。
「おお、これは読みやすい」
それを聞いて、マロは内心にやりとした。
古事記の表記方法は、序文に記していた。昔の話は言葉も意味も素朴であって、外来の漢文で記録するのは難しい。漢字の意味を重視すれば、もとの言葉の心意をそこない、万葉仮名で表現すれば、文章が長くなって主旨が分かりにくくなる。そこで日本語で読めるように、音訓を併用したり、訓だけで記述したりするなどの工夫をしていた。
手にする書から顔を上げた帝は、マロに声をかけた。
「太朝臣、大儀であった。その方を従四位下に叙勲する。ほかに褒美をとらす。お前の望むものを申せ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
マロは礼を言って、ふと思いついたことを口にした。
「この宮殿に、最新の湯殿という施設があると聞きました。もし叶うものなら、一度その湯殿を使わせていただきたく存じます」
そこであわてて付け加えた。「出来ましたら稗田阿礼も一緒に――」
女帝はやわらかく微笑んだ。
「欲がないのう。そのような要望なら、さっそく用意させよう。心置きなく湯浴みを楽しむがよい」
帝の前を辞したマロは、使いの者を出して、家で待機するアレを呼ぶことにした。
アレが来るのを待つ間、舎人親王のもとに行った。
親王は天武天皇の実子で、古事記と並行して行われている、日本書紀の編纂に関わっていた。マロは日本書紀の編集事業にも途中から加わっていたので、とりあえず古事記が完成したことを報告しておこうと思ったのだ。
舎人親王は聡明かつ温厚な人物で、マロの話を聞くと古事記の完成を祝福してくれた。
「それで太朝臣は、これから何をやりたいのだ」
親王の問いかけに、マロは穏やかに答えた。
「民部卿になれとの仰せでございます。体が続く限り律令国家のため、ご奉仕いたす所存です」
「して古事記が完成した今、一緒に暮らしていた稗田阿礼はどうするのだ」
「はっ、これからも共に暮らそうと考えております」
「そうか――あれは頭が良くて、見栄えもいい。男でも、気を惹かれるような魅力がある爺だ。そなたが惚れ込むのも無理はないな」
「――」
マロはどう返事をしていいか分からず、ただ黙って頭を下げた。
親王が最後に言った言葉はどういう意味だろう、と訝りながら宮殿を出ると、門柱の横に女官とアレの姿があった。
親王の言葉を思い出して、改めてアレを見た。もともと童顔に年齢による渋さと柔和が加わって、老爺として何とも言えぬ魅力がある。
アレはおっとりとした物言いで、マロに声をかけてきた。
「マロさま、湯浴みができると聞きましたが」
「ああ、帝が古事記献上のご褒美に、湯殿を使わせて下さることになった」
そこでマロの問いかけるような視線に気づき、女官があわてて言った。
「湯殿にご案内いたします」
正殿である朝堂院を通り過ぎ、帝が私的に使用する内裏に入った。普段ならマロたちが近づけない所だ。その奥の方、小さな構えの湯殿に着いた。前にちょっとした広さの庭があった。女官は、用意が整うまでしばらくここでお待ちください、と言って姿を消した。
マロとアレは、軒先の下にある緋毛氈の敷かれた縁台に腰を下ろして、のんびりと会話して待った。
先ほどの女官が再び現れて、二人のために茶を差し出した。
「湯殿に入るのは初めてですが、どんなものでしょうか?」とアレが聞いた。
「さあ、わしも初めてだ。なんでも海の向こうから伝わってきたもので、湯の蒸気で身体を洗うものらしい」
「湯の蒸気で――熱くないのでしょうか?」
「どうだろう。アレが真っ赤にゆで上がったのを見るのも、いいかも知れん」
「マロさま――そんなことをおっしゃってると、痛い目に合わせますよ」
「おお、怖い。でも、お前から痛い思いをさせられるのもいいかも知れんの」
そこで女官の姿を見て、二人は戯言をやめた。
「お待たせいたしました、湯殿の用意が整いました」と女官が言った。
二人は板の間で衣服を脱ぎ、奥にある木戸を開けて中に入った。
床が簀の子張りになっている。すき間から湯気が立ち上って、部屋中が靄のたなびくように曇っていた。
どうやら湯殿の外で湯を沸かして、その蒸気を湯殿の床に導いているようだ。
二人は床に横座りして、暖かく湿った湯気が体中にまとわりつくのを、目を細めて気持ち良さそうにしていた。
ほどなく二人の胸や腹、背中から、汗がじんわりと滲み出てきた。
筋肉質の重厚な肉体をしていたマロは、54歳になってうっすらと脂肪の層に覆われ、いくぶん柔らかみを帯びた肉体になっていた。
それに比べ59歳のアレは、細身のすんなりとした身体に肉がついて、丸みを帯びた体型になっている。色白で肌理の細かい肌に湯気がまとわりついて、ますますしっとりとして見えた。それが薄紅色を滲ませた胸や尻と相まって、なにやら妖艶な老爺の色気があった。
マロは簀の子の上を移動して、アレに身をすり寄せた。
「お前は本当にきれいな身体をしている。いつ見てもそそられる」
言ってアレの身体を抱き寄せ、愛撫をくわえた。
アレが気持ち良さそうに、あごをのけ反らせる。
マロはその口に唇を重ね、舌をからませた。そのまま乳首からわき腹、太ももの内側へと老人の感じやすいところに指を這わせる。
「ああ、マロさま――もう――」
アレが感に耐え切れずに喘ぎ声をあげた。
やがて――マロが後ろから浸透して、二人の情が一気に高まった。
簀の子から立ち上る蒸気にかすみ、薄暗い湯殿の中で、老いたふたつの白い肢体が絡み合い、妖しげにうねった。
長い蜜時を過ごした二人は、身も心もすっきりとして湯殿の外に出た。
正月の身の引き締まるような空気が、二人を押し包んだ。どこやらから唐梅(ロウバイ)の高雅な香りが漂ってくる。
アレは手の平をかざして、まぶしそうに大空を仰ぎ見た。
「湯殿で汗を流して、これまでの苦労も一緒に流し去ったようです」
「ああ――アレと親父、そして私――三人の苦労だ」
しみじみと言って、アレを促した。「さあ、屋敷に帰るとするか」
マロは老いたアレの小さな手を取り、ゆっくりと歩みだした。
手を引かれながら、アレは、親子二代にわたって愛され続け、自分はつくづく幸せ者だと思った。
庭に植えた梅の花が、屋敷内にも馥郁とした香りを届けるころ、アレはマロに看取られながら息を引き取った。
その安らかな死顔には、一筋の涙があった。その涙が何を物語るのか、マロにも分からなかった。
完