(1)
一冊の本が北井修一郎を狂わせた。
日課としている朝の散歩の時だった。いつもどおり公園に行き、広場の片隅で合気道の形を15分ほどやる。それから池の畔のベンチに腰掛けて、しばしの休息を取る――つもりだった。
ベンチの上に、置き捨てられた一冊の雑誌があった。何気なくそれを手に取った修一郎は、表紙を開いた途端、我が目を疑った。
年配の男性同士のあられもない写真――。
カアッと頭に血が上った。心臓が早鐘を打ち出す。
慌てて周りを見回すが、人はいない。誰がこんなものを、と思うより先に、雑誌を懐に、まっすぐ家に向かっていた。
北井修一郎の家は、代々続く造り酒屋で、緑の生い茂る豪壮な屋敷である。当主の修一郎は、すでに家業の実質は息子に継いで、今や楽隠居の身分だった。それでも今もって、あけぼの町の名士として、重要行事に参加している。
修一郎は、周りの人たちから「殿さま」と呼ばれているように、面長の品格のある顔立ちをしている。現在72歳、その年代では大柄のほうだ。長年、合気道で鍛えた肉体は、今や脂肪の層で覆われているが、それさえも熟年男の魅力に色を添えている。
さて、公園の一件以来、修一郎は自室に引きこもることが多くなった。女房に先立たれた彼は、母屋を息子家族に明け渡して、自分は奥の離れに住んでいる。
修一郎は、持ち帰った本を繰り返し見た。
自分の年代に近い男たちの裸写真が、極彩色で載っていた。肝心の部分には申し訳程度にモザイクが入れてあるが、男同士の交合場面もある。卑俗で猥褻な文章も書き込まれている。この男色世界の秘密をあからさまに曝け出した本が、修一郎を悩ませ、狂わせ、老いた体に火をつけた。
彼とて全く世故に疎いわけではなかった。世の中にこういう世界があるということは、薄々知っていた。そして彼自身、なんとなくそういった世界に興味を抱いていた。
それが今や、秘密のベールが取り払われたのだ。
頭の中で、淫らな想念が渦巻いた。72歳といっても、まだまだ健康体だ。つい、手が股間に伸びていく。
そんなとき、部屋の外から息子の嫁が声をかける。
「お義父さま、お部屋を掃除しますけど――」
「おお、ちょっと待ってくれ」
修一郎は大慌てで身繕いすると、淫らな本を机の引き出しにしまった。
こうして、息子の嫁が部屋に入る前に声をかけるのには、理由があった。
修一郎は暖かい時期、ときどき素裸になることがある。離れに住まう者の特権だ。全裸になると爽快な気分になる。
いつだったか、修一郎が裸でうたた寝しているとき、息子の嫁が部屋に入ってきた。
キャー!と言う悲鳴で目を覚ました修一郎は、バツの悪い思いをした。
それ以来である、嫁が事前に声をかけだしたのは。

修一郎の世間を見る目が変わった。これまで見過ごしていたことが、違った意味合いを帯びてくる。中でも、朝の公園で見かける老人たちの不思議な行動――。
夏の季節、早朝散歩をしていると、カメラを持った年寄り連中が多いのに気づく。彼らは公園の風物を写すでもなく、散歩道の端でカメラを三脚に載せ、何かを待っている。
その内、分かってきた。彼らが狙う被写体は、ひとりの男だった。
山田金治郎という50代半ばの熟年男。修一郎もこの男は知っているが、あまり良い印象は持っていない。と言うのも、修一郎はこの男の父親、山田親一郎と、深い親交を結んでいた。真面目な性格をした親一郎は、遊び呆ける息子のことをよく嘆いていた。
(――うちの息子には困っている。ゴルフばかりやって、工場を継ぐ意志が全くない)
そして案の定、この放蕩息子は父親が死ぬと、町工場を潰して、その跡地をゴルフ打ち放し場に変えたのだ。
修一郎自身も以前、金治郎に意見したことがある。そんなとき金治郎は、一応神妙な顔で聞いている。そして言う。
「小父さんのおっしゃることは、ごもっともです。死んだ親父のためにも、これからは心を入れ替えて働きます」
ところが、これは口先ばかりで、彼が生活態度を改めた気配は少しも無い。しまいには、修一郎のほうが呆れて、口を利かなくなっていた。
何故、老人たちが金治郎の写真を撮るのか?
以前だったらとても分からなかっただろうが、禁断の書を見たあとは理解できた。彼らの狙いは、50男のむき出しの肉体だ。
金治郎は暑いこの時期、ランニングシャツにパンツ姿で散歩する。中背、でっぷりと太った肉体を覆うには、あまりにもちっぽけで薄っぺらな服装だ。
特に陸上競技用のパンツは、薄いサラサラの生地だけに、歩くにつれ布地が性器に絡みついて、見ていて恥ずかしくなるほど、図太い形状をあきらかにする。
それを老人たちは、望遠レンズで撮っているのだ。
しかも当の金治郎は、自分が被写体になっていることを充分知っていながら、老人たちにのんびりと声をかける。
「よう、お早う。爺ちゃん、まだくたばっていなかったか」
「バカ言え。まだ色気も失っちゃあいないよ」
「そりゃあ良いことだ。今晩、俺のところに来いよ。ずっぽりと入れてやる」
「金ちゃんのデカマラじゃあ、壊れちゃうわ」
「大丈夫。年寄りは緩んで、ちょうどいい按配だわ」
金治郎と老人たちの交わす、たわいも無い会話――。それが今の修一郎には、現実味を帯びた、生々しい会話に聞こえてくる。
ある日、修一郎は、金治郎と老人の決定的場面に出くわした。
いつも通り公園の片隅で、合気道の形をやったあとのことだった。尿意を覚えた修一郎は、公衆トイレに向かった。そのとき遠目に、見知った老人と金治郎の姿がトイレに入っていくのを見た。
(これは満員御礼だな――)
トイレは小さく、小便器は二つしか無い。修一郎は意識して歩を遅くし、トイレの空くのを待った。ところがトイレに行っても、二人の姿が見えない。
(おかしいな、出てくる姿は見なかったが――)
修一郎は訝りながらも、用を足そうとした。
そのとき、奥のブースから、微かな物音がした。猫がミルクを舐めているような、濡れた音――。
にわかに鋭敏になった修一郎の耳に、男の洩らすため息が届く。そして金治郎の声と分かる、感に堪えない声が聞こえてきた。
「くーう、いい――やっぱり、昌三さんの尺八は最高だな」
中で何が行われているかに気付いた途端、体中の血が逆流するような興奮を覚えた。こうなると小便どころではなくなった。
ピチャピチャと濡れた音は続き、ときおり喉を詰まらせるような、グフッという声音まで聞こえてくる。それに荒い息遣いが混じる。
修一郎は息苦しさを覚えながら、足音を忍ばせてトイレから出て行った。
家に戻ったあとも、胸の動悸は治まらなかった。心ここに在らずといった様子で、朝食をとる修一郎に、息子の嫁は心配顔だが、何も言わなかった。
部屋に戻った修一郎は、混乱した頭の中を整理しようとした。
(自分は今朝、例の本に載っていた場面に、出くわしたのだ)
そんなことが身近で行われているとは、俄には信じられなかった。しかし、現実に起きていることだった。
金治郎の相手は、水原昌三という老人だった。可愛らしいご隠居といった感じの小さな老人で、修一郎と同い年だから72歳になる。なめらかな頬をした丸顔。色素の薄い茶色の瞳が、赤ん坊の天使のような優しさをたたえている。
修一郎は5年ほど前、この老人の世話をしたことがある。
昌三は、10ほど年下の男と住んでいた。息子にしては年齢が近いので、仲の良い親戚くらいに思っていた。ところがその男が、癌で急逝した。葬儀のとき、涙をポロポロ流して子供のように泣きじゃくる昌三の姿を見て、修一郎は何とかしてやろうと思った。
老人には身寄りがない。そこで、合気道仲間の大島という経済学者に声をかけたところ、その裕福な50代の男は、二つ返事で引き受けた。
「――分かりました。他ならぬ北井さんのご紹介だ。私がご老人を引き取りましょう。なあに、ちょうど人手が欲しかったところです」
以来、昌三は、大島の家で、使用人として住み込みで働くようになった。
その後しばらくして、町中で昌三を見かけたことがある。驚いたことに、あれほど萎れていた老人が、頬も艶々として、内面から輝くような変貌を遂げていたのである。
ある会合で、老人の変化を大島に聞いた。大島は、多少面映ゆそうに返答した。
「お年寄りは、ちょっとした呼吸法と腰の使い方で、変わるものですよ」
「呼吸法と腰の使い方?――それって合気道のこと?」
「そう。つまり、そのう――呼吸に合わせて、差したり引いたり」
「――はあ?」
その時は、およそ会話が噛み合わず、大島の言っている意味も理解できなかった。それも今思えば、二人は男色家で、肛門性交をやっていたということだ。
次の朝、修一郎は公園の散歩を取りやめた。雨でもないのに、散歩に出ない父に、どこか具合が悪いのではないかと息子夫婦は心配した。
修一郎は、なあに、まとめごとがあるんだ、と軽く言って食事の席から立ち上がった。彼は食堂を出る前に、豪快に放屁した。
「まあ、お義父さまったら――」
息子の嫁が、笑いを噛み殺した。いつものことなので、さほど驚かない。
「自然的生理現象だ。健康な証拠だな」
修一郎は飄々として言うと、離れに戻った。
新聞を読んでいても、文字が頭に入ってこなかった。そしてつい、公園のトイレで聞いた、生々しい物音を思い出す。金治郎の陽物を娼婦のように口淫する昌三――。
修一郎は、ふと思った。
(男同士が愛し合うということは、どちらかが女役をやるということだろう。もしも自分だったら、どちらだろうか?)
修一郎とて、若い頃は女遊びをしてきた。しかし10年前、女房が死んでから、女とはいっさい接していない。それに、肝心の男の道具が、満足に機能しなくなったのも感じていた。
いつだったか、気の置けない学友たちと、酒を酌み交わしていたときのことだ。
「おい、この頃、女房がだんだん大きくなってきたって、感じたことがないか?」
友人のひとりが言い出した。
「あたりまえだ。女房だって中性脂肪が増えてくるわ」
「バカ、俺が言ってるのは、あそこの大きさのことだ」
「あそこ?お前が何を言ってるのか、さっぱりわからんな」
「わからん?じゃあ説明しよう」
口火を切った友人は、皆の顔を見回して、女性を性的な対象にしたときの仲間うちの口調で話しはじめた。
「女房が大きくなり始めたって、最初に感じたのは5年ほど前からだ。ある晩、久しぶりに女房をつついた。長年、慣れ親しんだ穴蔵だから、目くるめく快感なんて期待していなかったよ。それにしても、接触感が少なすぎたんだ。それ以来、その感じはますます強くなっている」
そこで彼は、大げさにため息をついた。「ところが後日、俺はその理由が分かった。物差しで測ってみたんだ」
「何を測ったって?」
「アレだよ」
友人は自分の股間を見下ろした。「そこで恐ろしい事実に気づいた。――女房が大きくなったんじゃない、俺が小さくなったんだって」
友人は悲しそうに頭を振った。それを聞くほかの連中も、心なしか悲しげな表情を浮かべている。
「それにもう、完全には硬くならん。考えてもみろ、たとえ絶世の美女とベッドインする幸運にめぐまれても、できるんだろうかと心配しなくちゃならないんだ」
70過ぎの老人が、大衆酒場で、深刻に精力の衰えをなげいている。見ようによっては滑稽な姿だが、修一郎は笑い飛ばすことも出来なかった。
再び、山田金治郎に思いが至る。
金治郎は一時期、死んだ父親替わりを求めてか、修一郎のところによく来ていた。厚かましいぐうたら男だが、その反面、憎めない性格の持ち主でもあった。
その金治郎が、年寄りたちに人気があるのだ。おそらく男色行為をしている相手は、昌三ひとりではないだろう。
申し訳程度の布を着けた、金治郎の散歩姿が目に浮かんだ。胸も腹も尻もたっぷりと肉がついて、トドのようにヌメッとした、いかにも精力絶倫そうな肌をしている。
歩くにつれ、もくもくと動く図太い腰回りには、フツフツとした精液が溜め込まれていそうである。
そして、思わず目を惹く股間の膨らみ――。
金治郎の壮健な肉体を思い浮かべると、落ちてみたい、という気持ちが心の片隅にあるのに気付いて、修一郎は驚いた。