(4)
円堂昌輔はすっかり吹っ切れた気分で、先生の事務所に出勤した。榊原に言われたことを実行するのだと思うと、すこし膝が震えたが、気力を奮い立たせた。この試練をくぐりぬければ、榊原との幸せな生活が待っているのだ。
昨夜、榊原は言った。「円堂さんはしばらく貝山議員のもとにいて、彼らの動向を探ってください。何か動きがあったら、すぐ私に知らせてください。すべて解決したら――私たちは一緒になりましょう」と。
驚いたことに、すでに先生は事務所にきていた。彼より先に来るなんて、めずらしいことだった。そして、昌輔が朝の挨拶を言う前に、先生のほうから口を開いた。
「これから出かける。おまえも一緒に来い」
車の後部座席で、昌輔は横にいる先生の様子をうかがった。先生はブスッとして、新聞を読みつづけている。いつもより不機嫌そうだ。
東名高速道路に入り、西に向かって走った。
(どこへ行くんだろう?)
昌輔は怪訝に思った。先生はあいかわらず新聞を読んでいる。彼は所在なげに外の景色を眺めながら、榊原との親密な一夜を思い出した。あのときの行為を思うだけで体が震えてきた。馬のように逞しく、そしてこの上なく優しくて――彼は暖かい思い出に包まれて、うっとりと微笑んだ。
車は御殿場で高速道路をおり、山中湖の方向にむかった。湖に着くと、右に曲がり、そのまま湖畔沿いに走った。途中で湖を離れ、山裾の道を登りだした。
ようやく長いドライブが終わった。車は広大な敷地の山荘の前で停まった。昌輔が来たことのない屋敷だった。敷地内に二台の車が停まっていた。その横で、ごつい体格をした二人の黒人が、キャッチボールをしていた。彼らは来訪者に気づき、値踏みするようにこちらを見ていた。
屋敷の中に入ると、榎本と背の高い男がいた。連れの男は、昌輔の見知らぬ顔だった。目つきが鋭くて、不気味な雰囲気があった。
彼らは軽くうなずきあい、広いリビングの円テーブルについた。その間、誰もほとんど口を利かなかった。
(いつもと様子が違う)
昌輔は固唾を呑んで、成り行きを見守っていた。
榎本がウォークマンを取り出して、テーブルの上に置いた。音声が流れだしたとき、昌輔は凍りついた。昨夜の榊原との親密な会話――。静まり返った部屋の中で、二人の声が淡々と流れた。
音声が途切れると、貝山は昌輔をにらんだ。氷のように冷たい目つきだ。
「おまえはわしを裏切った。覚悟はできているんだろうな」
そこで彼は榎本のほうに振り返った。「やはりおまえの言ったとおりだ。盗聴器を取りつけていてよかった」
急に昌輔は震えだした。何か言おうとしたが、口が乾いて、声が出なかった。
榎本がのんびりと言った。
「まあまあ先生。円堂さんの話を聞く前に、ちょっと休憩しましょうや。長い道中でしたからね」
彼は背後の男に振り向いた。「円堂さんを二階にお連れしろ」
目つきの鋭い男が昌輔の腕をつかみ、立ち上がらせると、有無を言わせず二階のほうに引き連れた。
「これからどうするんだ?」
二人が姿を消すと、貝山が榎本に訊ねた。
「私に任せてください。先生は知らないほうがいい」
榎本は謎めいた薄笑いを浮かべた。
「大丈夫か?さっきの内容だと、神山の弟はかなり知ってるらしいぞ」
「らしいですね。さすが神山薫の弟だ、頭がいい。こうなれば最後の手段しかありません」
「やるのか?」
貝山は声を低くして訊いた。
榎本はあいまいに笑った。
「ここはうちの会社が所有する山荘ですが、普段は使われていません。それを円堂さんが男と逢引に使っても、こちらの関知するところではありません。まあ、ちょっとした修羅場になりそうですな。でも先生には関係ありません。先生は東京に戻って、普段通りのお仕事をしていてください」
「大丈夫か?娘の件では、失敗したじゃないか。警察に駆け込まれて、面倒なことにならないか?」
「あのときは思わぬ邪魔がはいりました。たしかに榊原という男は、あなどれません。でも、そっちのほうにも手を打ってありますよ。――私が言ってるのは、小娘と連れに対してですがね」
貝山は、榎本の顔をじっと見ていたが、わずかにうなずいた。
「分かった。わしは東京に戻る。ところで、この前、銀座将美堂に行ったとき、今井京子のもうひとりの娘に会ったぞ」
榎本がニヤリとした。
「ああ、長女のほうですな。藤田会長の甥っ子が、そこの支配人をやっています」
「母親とはひと味違う、生きのいい女だったな。一度、抱いてみるか――」
「気をつけなさい、先生。いい女には毒がありますよ」
二人は顔を見合わせると、下卑た笑いを浮かべた。
円堂昌輔は、目つきの鋭い男に連れられて二階の部屋に入った。寝室に使われているらしく、セミダブルのベッドと書き物机があるだけだった。
すぐ背後から、屈強な体格をした二人の黒人が入ってきたとき、昌輔は生きた心地がしなかった。男たちは、まるで獲物を前にした猛獣のような目つきで、彼を見ていた。
(いったい何をされるのだ?)
彼の疑問に答えるように、目つきの鋭い男が言った。
「これから男とやってもらう。――お前の好きなことだ」
とたんに昌輔は、気分が悪くなった。先頭の黒人が彼をじっと見つめながら、牛のような分厚い舌で唇を舐め、卑猥なしぐさでズボンの前を撫でた。
(何てことだ!よしてくれ!)
あまりの気分の悪さに、昌輔は吐き気がした。
目つきの鋭い男が、黒人たちに合図を送った。
「ベリー キュート」
「フレッシュ ミート」
黒人たちは何やら声をかけながら、昌輔に迫った。
「嫌だ!やめてくれ!」
昌輔はこの屋敷に来て初めて、声をあげた。

榎本が、二階の部屋に入ったとき、すべては終わっていた。ベッドの上に全裸になった円堂がいた。胎児のように体を丸めて、強姦された生娘のように震えていた。
空気中に漂う異臭に、榎本は眉をひそめた。彼はベッドの上の哀れな生け贄にむかって言った。
「円堂さん、ずいぶん楽しまれたようですね。それじゃあ、ひと仕事やってもらいますか」
――◇――
剛は、疲れ切って社長室を出た。
出張先から急きょ戻ってきた今井社長は、徳永一平と早紀の逃避行について、根掘り葉掘り聞いた。娘の誘拐事件に恐れをなして、警察に通報しようとまでした。
そんな社長を説得するのは、大仕事だった。それでもなんとか、早紀から毎日連絡をいれさせることを条件に、剛の説得で落ち着いた。
昼食をとって自分の職場に戻ると、今度は吹き荒れる嵐に遭遇した。大石部長がゆで蛸のように顔を真っ赤に染めて、剛に突っかかってきた。
「なんで一週間も休ませたんだ。徳永はどこに行ってる。やつに連絡をつけろ!」
「どこに行ってるか知りませんよ」
速射砲のように怒鳴る大石の顔を見ながら、剛はつとめて平然と言った。
(やれやれ、これじゃあ、せっかく食べた昼飯も、消化不良をおこしちまうな)
「知らないだと?おまえは部下の行き先も知らんのか!」
「いいじゃないですか。徳永も仕事続きで、そうとう疲れが溜まっていましたからね。たまにのんびりとさせるのも、いいでしょうが」
「なにい!おまえにそんな権限があるのか?」
「ありますよ。私は彼の直属の上司ですからね」
そこで剛は、遠くから藤沢常務がこちらを心配そうに見ているのに気づいた。
「あっと、常務が呼んでいます。失礼します」
彼は、顔を真っ赤にしてにらみつける大石に言うと、さっさと退散した。
「なにかあったのかね?大石くんは――」
部屋に入るなり藤沢が聞いた。
「なあに、たいしたことではありませんよ」
剛はのんびりと言うと、フッとため息をついた。
藤沢はじっと剛の顔を見ていたが、独り言のように言った。
「何かを企んでいるとき、神山社長は、今のきみのような顔つきをしていたが――。さあ私に話しなさい」
「常務にはかないませんね。なにしろ兄の性格を熟知しているんだから」
剛は、きのう今井早紀の身に起こったことを、話して聞かせた。
藤沢は信じられない顔をした。
「彼らは、そんなことまでやりだしたのか――」
「ええ、今井社長にプレッシャーをかけて、株を売らせるためです。貝山の秘書の円堂さんに聞きました」
「どうして議員の秘書が教えてくれたのだね?」
その質問に、剛はあいまいに肩をすくめた。初老男の肉体の柔らかい感触――昨夜のことが蘇ってきた。
そのとき、部屋の電話が鳴った。剛が受話器を取ると、鈴木妙子からだった。
「おれに電話?誰からだ?」
「円堂さんという方からです」
「つないでくれ」
剛は送話口を手で塞ぐと、藤沢に向かって言った。「当の本人からですよ。議員秘書です。――あ、もしもし、何のご用ですか?」
「大至急、お会いしたいと思いまして――」
円堂の声は小さかった。
(貝山の事務所からだろうか。人に聞かれたらまずいんだな)
剛はにわかに緊張した。
「じつは今、山中湖の山荘に来ております。先生と榎本さんは出かけられて――私は留守番をしています。榊原さん――こちらに来れませんか?」
剛は頭の中でざっと計算した。ここから山中湖までだと、中央自動車道を走って120キロはある。
「車を使って2時間近くかかりますよ。電話で話せないんですか?」
少し間があって、円堂がおずおずと言った。
「それが、複雑なお話でして――電話では説明しきれません――とにかく非常に重要なお話なんです――あなたのお兄さんに関わる――」
最後の言葉が剛の興味を引いた。
「兄のこと?そちらの住所は分かりますか?」
しばしの沈黙。それから円堂の声が聞こえてきた。
「――ええ――ちょっと待ってください」
円堂は山荘の住所を剛に教えると、一方的に電話を切った。だれかが部屋に入ってきたのかも知れない。それにしても、円堂の声の調子はおびえているようすだった。
(無理もない。飼い主を裏切ろうとしているんだからな)
剛は、小心者の円堂に同情した。
「どんな電話だったのだね?」
藤沢が聞いた。
剛は電話の内容を伝えると、付け加えて言った。
「これから、その山荘に行ってみようと思います。円堂さんがすぐ会いたいと言うからには、急を要する重要な話でしょうから」
「じゃあ、私も連れていっておくれ」
藤沢の言葉に、剛はあわてた。
「常務は駄目ですよ。危険かも知れない」
藤沢はきっぱりと言った。
「私も行く。もしも、榎本たちが別荘に戻ってきたらどうする?私は彼の顔を知ってるからね。場合によっては、彼と対決してもいい」