■ あけぼの町物語(前編) - 第3章 秘伝(1)
(1)
「何をする!やめろっ!」
と叫んだつもりが、あまりの恐怖に、くぐもった声にしかならなかった。
いきなり現れた男たちは、無言で襲いかかってきた。見たところ50代の男たち。
抵抗する間もなかった。
清司の小さな体は、二人がかりで抱え込まれて、雑木林の奥へと運ばれていった。
河合清司が43歳のときだった。
入社20周年の記念に、会社の同期生たちと日光奥地へと温泉旅行をした。
宿に着いたときは、まだ日が高かった。温泉好きの清司は、ひとりで地元の人たちが利用するという露天風呂まで足を伸ばした。
雑木林を抜けて川原に出ると、茅葺き屋根と柱に囲まれた露天風呂が現れた。岩を組み合わせた野趣溢れる湯には、すでに5、6人ほどの先客がいる。
簡素な脱衣場で服を脱ぎ、澄みきった湯の中に浸かった。陽が明るいこともあって、すべてが透明感に包まれていた。
清司の裸は、入湯者たちの目を引いた。背が低くぽっちゃりと丸みを帯びた体は、ハッとするほど色が白く、きめの細かい肌をしている。
清司が温泉好きの最大の理由は、年配男性の裸を見る楽しみだった。
しかし今日は、見られる側のようだ。
自分の体にねっとりと絡みつくような視線を意識して、清司は落ち着かなかった。結局、20分ほどで露天風呂を出た。
湯を出るときも、背中や尻に男たちの視線を感じていた。
清司は服を着ると、帰りの山道を急いだ。――そこで二人の男に襲われたのだ。
雑木林の奥、枯葉の堆積する地面に投げ出され、清司は恐怖に震えながら暴漢たちを見上げた。二人に見覚えがあった。先ほど露天風呂にいた男たちだ。
彼らは野良仕事を終えて露天風呂で汗を流す土地の者らしく、小麦色に日焼けして、頑健そうな肉体をしていた。そしてこんな状況下にしては、素朴な親父顔をしている。
「やめて!お金なら旅館に戻ればある」
清司は震え声で訴えたが、男たちは朴訥な声で言った。
「金なんか要らん。あんたとちょっと、気持ちいいことをやりたいだけだ」
そして襲いかかってきた。彼らは清司を押さえつけ、丸っこい体から衣服をはぎ取り、残されたパンツも無造作に引き脱がした。
「兄ちゃん、可愛らしいおチンチンをしてるな」
無精ヒゲを生やしたほうが、いやらしい手付きで陽物を弄んだ。
「やめてっ!」
清司は、身悶えして男の手から逃れようとしたが、もう一人の男に両手首を押さえられて、身動きもできなかった。
「どうれ、お尻の味見をしようかの」
清司の両足が引き上げられ、そのまま股を開かれた。剥き出しにされた股間を男のごつい手がまさぐり、指に唾をつけて尻穴にもぐり込ませた。
「ああっ!――やめて」
清司は叫んだ。頭の中は、憤りと屈辱感でいっぱいだった。
男がのしかかってきて、下腹部を押し付けてきた。
「うわあっ!」
いきなり襲った激痛に、清司は悲鳴を上げた。
万力のような手が腰を押さえつけ、男は容赦なく突き刺してきた。苦痛の塊が、入り口を極限まで押し広げ、体の奥を圧迫する。
「うわあっ!痛い!やめてえーっ!」
痛みは耐え難く、清司はもがき苦しんだ。しかし彼には、泣き声混じりの悲鳴を上げることしかできなかった。
「無理矢理、やるのはいかんなあ」
突如、のんびりとした声が聞こえてきた。
男たちはギョッとして動きを止めた。振り返ると、忽然と姿を現したように、ひとりの小さな老人が立っていた。鼻の下に白いヒゲを生やした、枯れた感じの爺さん――。
男のひとりがせせら笑った。
「爺さん、消えちまいな。痛い目を見るぞ」
「痛い目を見るのは嫌だが、黙って見過ごしてもおれんのう。もう勘弁して、その人を離してやったらどうだね」
緊迫した状況にしては、老人の声はか細く、可愛らしいほどの声音である。
「うるさい!このじじい、消えてしまえっ!」
わめきながら、老人に近い方の男が詰め寄った。
二人の体が接近した一瞬、フッと老人の姿が掻き消えたように見えた。
――と、男の体が宙を飛んで、杉の立木に背中から叩きつけられた。男はひと声、ギャッと呻き、そのまま落下して悶絶した。
驚いたもう一人の男が、老人に殴りかかった。老人は背中に目があるかのごとく、くるりと回転すると、男の右手首を掴んで捩り上げた。
「いてててっ!」
男が悲鳴を上げた。老人はごく軽く掴んでいるように見えるのに、男は額に脂汗を浮かべ、苦悶の表情を浮かべている。
「どうだ、もうこのへんで、仲間を連れて消えてくれんか。さもないと、この腕をへし折ることになりそうだ」
老人は、のんびりと言った。
「わ、分かった。もう勘弁して――」
男たちは這々の体で、逃げていった。
清司は足を引き摺りながら、老人の後に続いた。
まだ悪い夢を見ているようだった。体の奥深いところが、ズキンズキンと疼いていた。
老人は、清司と同じ旅館に泊まっていた。清司を自分の部屋に連れていって、傷の手当をしてくれた。
肛門に2ヶ所、裂傷を負っていた。老人は傷口を消毒して、軟膏を塗った。老人の小さな手で触られて、清司は恥ずかしさでいっぱいだったが、不思議なほど痛みが消え、心地よい快感さえ覚えるほどだった。
「助かりました。本当に有難うございます」
手当が終わって、清司は丁寧に礼を言った。
「なあに、たまたま声が聞こえたのだ。春のこの時期は、気を付けたほうがいい。獣たちのサカリの季節だからね」
老人はいたずらっぽく笑った。「それに見たところ、あんたは肌がきれいだし、顔も可愛らしい。さっきのような男たちに、狙われ易いタイプだ」
老人は太田道舟斎と名乗った。年の頃、70代半ば。飄々として洒脱な感じだった。ナスビのように大きな鼻が、可愛らしさにしたたかな大人の味を添えている。
清司は身長160センチほどだが、この老人はまだ小さかった。なんとも頼りない体つきだが、その老人が、大の男をいとも簡単にねじ伏せたのだ。
清司は、なすすべもなく男たちに翻弄されたとき、悔しさで一杯だった。無力な自分に歯痒さも覚えていた。できれば老人のように強くなりたかった。
そこで清司は訊いた。
「あのう、太田さんは、何か武芸でもやられているのですか?」
「ああ、道楽のようなものだが、合気道を教えているよ」
「合気道――」
清司は考え込んだ。合気道を覚えれば、老人がやったようなことが出来るのか――。
そのとき、清司の心を読んだように、太田老人が話し出した。
「合気道は、小よく大を制することが出来る。ただし――」
老人は、お茶で喉を湿らせた。「合気道の本質は、護身術と健康法だ。決して暴力を奮うためじゃないよ」
「あのう、ぼくのような力のない男でも出来ますか?」
「もちろんだ。合気道をやるのに、体の大きさや腕力は必要ない」
老人の言葉に、清司は思わず言っていた。
「お願いです。ぼくに合気道を教えてください」
河合清司は43歳になるが、なお独身だった。彼が両親といっしょに暮らす実家は、東京近郊のあけぼの町にある。
そして太田道舟斎の家は、清司の住む町から電車で2駅のところにあった。木造平屋建て、20畳ほどの小さな道場に、2DKの居住部分が付属している。
清司は毎週、土日の休みに、太田道舟斎の家に通いだした。
道舟斎が道楽だと言っていただけあって、道場に来る生徒は少なかった。大半は子供たちで、大人はほんの数人しかいない。それに道舟斎自身はほとんど稽古に立たず、代わりに二人の師範代がボランティアで教えていた。
年上の方は丸山という60代半ば、寿司屋をやっている。背が低くコロコロと太って、陽気な男だった。
もうひとりは坂本、50代半ばのサラリーマンで、土日だけ道場に来て教えている。中背がっしりした体格、口数の少ない実直な男だ。
よほど健康状態が良いのか、二人とも肌が艶々としている。これも、合気道をやっている効能だろうか。
道舟斎はひとり住まいだが、50に近い中年女性が通いで来て、家事一切をやっていた。サヨさんと呼ばれる、でっぷりと太った大女で、愛嬌のある陽気な性格をしている。
彼女には、親一という20代後半の息子がいて、時々道場に来て、子供たちを指導している。母親に似て大きな体つきをしており、愛嬌があって、子供たちから「親ちゃん先生」と懐かれている。
道舟斎は毎朝、ひとりで形の稽古をしていた。休みの日は清司も早く来て、先生の稽古を見守った。
何とも不思議な動きである。ふわふわと宙を漂うように動き、同じ位置にいても、風になびく芦のように体をくねらせる。その腰使いは卑猥ともいえるほどだ。
道舟斎は、口癖のように言った。
「丹田を意識しろ。丹田に気を集め、それを経路に送り出せ」
「呼吸法を身に付けろ。三呼一吸だ」
道舟斎の言葉を要約すれば、合気道の大元は「気」にある。人間の体には、血と同じく、気も経路を巡っている。その心臓となるのが、へそ下3寸にある丹田だ。気の感覚を磨き、丹田から全身を巡って戻ってくる気の流れを意識をしろ、と言うことだ。
三呼一吸とは、フッ、フッ、フーッと三回連続して息を吐き、ごく自然に一回、息を吸うことを言う。
道場に通いだしてひと月ほど経った頃、清司は実家を出て、道舟斎の家に移り住んだ。
43歳になっても身を固めない息子を見る、両親の目が疎ましいこともあったが、何よりも、道舟斎と一緒に暮らしたいという思いが強かった。
道舟斎はいつも自然体で、淡々としていたが、周囲の人たちに慕われていた。
清司は、昼間は勤め先の銀行で働き、帰ってから道舟斎の身の回りの世話をした。そして空いた時間に、合気道を練習した。
道舟斎の家で生活を始めた清司は、やがて老人の驚くべき私生活を知ることになった。
第一は、サヨさんのことだった。
サヨさんは、どこに住んでいるのか知らないが、毎日10時にやってきて、掃除洗濯をし、買い物や食事の支度をして、昼下がりには帰っていく。
ところが、それだけではなかった。道舟斎の家に移り住んでまもなく、パソコン作業をしていた清司は、異様な声を聞いた。
すぐに、あのときの女性の声だと分かった。サヨさんの声だった。
道舟斎の部屋は板戸1枚で隔てられただけなので、聞き間違いようが無かった。
サヨさんの声は延々と続いた。忍び泣くような声が、だんだん切羽詰った声に変わり、最後はひときわ高い絶頂の声。しばらくして、湿田から長靴を抜き取るような濡れた音と、サヨさんの小さな悲鳴――。
全身の血が、カアーッと煮えたぎった。目に見えないだけに、妄想が渦巻いた。
満々と太ったサヨさんの肉体を組み敷いて、精力的に肉の楔を打ち込む小さな老人。
サヨさんの声を聞いている限り、とても70過ぎの老人が相手だとは思えない、生々しさがあった。
翌朝、サヨさんの姿は見えなかった。おそらく夜のうちに帰ったのだろう。
朝食の席で、清司は道舟斎の顔をそっと窺ったが、そこには飄々とした、いつもと変わらぬ表情があるだけだった。
そのうち知った。道舟斎とサヨさんは、月に一度の頻度で交わっているようだ。
しかも驚くべきことは、他にもあった。
二人の年配の師範代、丸山と坂本も時々、道舟斎に抱かれているようなのだ。
襖越しに、自分の父親の年代に近い男があげる声を聞いて、清司は信じられぬ思いがした。その声は、彼が奥日光で犯されたとき受けた苦痛とは、まったく異なるものだった。募る快感に悶え、忍び泣く声だった。
特に、立派な体格をした坂本が、息も絶え絶えに善がるかすれ声は、清司にとって衝撃だった。清司は、坂本におおらかな父性を感じ、密かな憧れを抱いていたからだ。
羊皮紙のような肌をした小さな老人が、夜の世界では、自分より若くて大きな体つきの男女を、死ぬほど善がり狂わせている。それでいて老人の顔は、しょぼくれた目をして鼻だけが大きい、どこにでも居そうな爺さんだった。
清司は道舟斎に、得体の知れない底力を感じた。