■ カンパニー(第3章 女相続人) - (8)
(8)
徳永一平は久しぶりに、のんびりとした休日をすごしていた。午前中は寮にいたが、陽気がよかったので、昼過ぎに公園まで歩いた。園内の桜の木は、まだ蕾は固そうだが、そこかしこに春の兆しが見えていた。
池の端で貸しボート屋を見つけ、そちらに向かった。
オールを握るのは久しぶりだったが、体が覚えていた。慣れた手つきでオールを操り、池の円周に沿って、ゆったりとボートを進めた。まだ肌寒い微風が、肌に心地よかった。
池の中の小島を結ぶ、橋の下を通ろうとしたときだった。アッという小さな声を聞いたような気がした。船の中で、コツンと小さな音がした。
一平は音のしたほうを見やった。何かが陽光にきらめいた。手を伸ばして、船底から光るものを拾い上げた。指輪だった。淡いピンク色の真珠と、それを取り囲む数個の小粒のダイヤモンドがついていた。いかにも高価そうな装身具だった。
彼はあわてて、行き過ぎた橋の方を見上げた。何人かの男女がいたが、騒ぎ立てている人はいない。まだボートを返すまでの時間はたっぷりと残っていたが、あきらめて船着き場に戻った。
ひとりの女性が橋の欄干に寄りかかって、池をのぞき込んでいた。その横顔を見ただけで、一平の胸がときめいた。メディア21の社長令嬢、今井早紀だ。彼女は淡いブルーのワンピースを着て、小さなセカンドバッグを手に持っていた。
一平は彼女のほうに歩み寄った。心臓が早鐘を打つように高まった。彼は唾をごくりと飲みこむと、彼女に声をかけた。
「あのう――これを落とされませんでしたか?」
彼女がゆっくりと振り向いた。怪訝そうな顔が、一平の手のひらにある指輪を見て、ぱっと輝いた。
「ええ。てっきり池の中に落としたと思っていました。どうして、あなたが――」
「ボートに乗っていたんです。そこに指輪が落ちてきて――。さあ、お返ししますよ」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
早紀は指輪を受け取りながら、気真面目な顔つきで一平を見た。
一平は照れて、頭を掻いた。
「なあに、いいんですよ」
「あのう、失礼だと思いますが、なにかお礼を――」
「とんでもない!」
一平はあわてて手を振った。「そのかわり、お茶をつきあってくれますか?」
思わず口をついて出た言葉に、言った当の本人があわてた。「あ――ごめん。迷惑でなかったら、だけど」
一平のあわてた仕種に、早紀はにっこりと微笑んだ。
「私が馬鹿でしたわ。あんなところで指輪を外すなんて」
「どうして指輪を外したのですか?」
「目立つようで、恥ずかしかったのです。あのう、今日は友達の結婚式があったので、慣れぬ指輪をつけて来たのです」
二人は公園の近くの喫茶店にいた。どちらも相手を意識しすぎていたが、傍目には微笑ましい恋人同士に見えた。
「大切な指輪でしょう?だって、すごく高そうだ」
「ええ――成人式のときに、父が買ってくれました」
「亡くなられた今井相談役でしょう?」
早紀はハッとして、一平の顔を見た。
「ご存知でしたの?私が今井の娘だということを」
一平は微笑んだ。
「ええ、知っていました。あなたが今井早紀さんだということは、堀部長に教えてもらいました」
彼女は一平の顔をまじまじと見た。その顔が明るくなった。
「ああ、あなたは総務部に来られたことがおありですね」
彼女が自分を覚えていると聞いて、一平は嬉しくなった。
「徳永一平です。みんなは一平と呼んでいますけど――営業部で働いています」
一平は言ったあと、頬を赤らめた。
一平は、毎日のように東横テレビ局に通った。業務部長の佐伯に会い、都合がよければ小山会長にも挨拶した。これまでは必ず社内の誰かが一緒だったが、今は単独行動だ。
榊原は、「おれは会長と絶交中だから」と言って、東横テレビ局に行こうとしなかった。
近藤のほうも、もっぱら他の得意先廻りで忙しそうだった。
最初のうち、自信なさそうに接していた一平も、回数を重ねるにつれ、年配者たちとの付き合いに慣れてきた。小山会長と佐伯部長は大の麻雀好きだった。一平は誘われるままに、彼らと麻雀をやった。そして、初めて麻雀をやったとき勝ったことが、まぐれだったということを痛感した。麻雀の負けで、彼の懐はいつも寂しかった。
一平は東横テレビに行ったときの様子を、いつも欠かさず榊原課長に報告していた。そんなとき、榊原のアドバイスは驚くほど奥が深かった。榊原は、東横テレビの主だった番組をよく見ていて、番組構成やCMに鋭い批評を加え、つぎに一平が何をネタにして彼らのところに行くのかをアドバイスした。
一平が東横テレビに通いだして二ヶ月ほどたった頃、佐伯部長から嬉しいニュースを聞いた。スタジオのリニューアルを機に入れ替える映像機器について、すでにメディア21から提案書が出されていたが、それが最終選考の中に入ったということだった。
一平は胸を弾ませて会社に戻ると、さっそくそのことを榊原に報告した。ところが榊原はむずかしい顔をして、しばらく考えていた。そして一平に言った。
「喜ぶのはまだ早い。候補に上がっただけで、うちに決まったわけじゃない。確実にうちにくる、決定的な提案書が必要だな」
そこで彼は、内緒話をするように、声をひそめた。
「いいか、コロコロちゃんに会って、他社の提案書をコピーしてもらうんだ。敵がどんな提案をしているか、それを知るのも戦術だからな」
コロコロちゃんとは、榊原がつけた佐伯部長のニックネームだ。
課長の指示に、一平はギョッとした。
「出来ませんよ、そんなこと。だって、そんなことを頼めば、佐伯部長だって困ります」
「お前、今まで何のために彼らと遊んできたんだ?」
榊原は不思議そうに一平の顔を見た。「無理なお願いをするために、遊んでやったんじゃないか。とにかく、おれからも電話で頼んでおくから、コロコロちゃんに会ってこい」
一平は落ち着かない気持ちで、応接室のソファーに腰掛けていた。いくら榊原の命令とはいえ、他社の資料をよこせ、なんて厚かましいにもほどがある。彼は佐伯に対してそれを言うことができるのか、今もって自信がなかった。
そして、応接室のドアが開き、佐伯部長ではなく小山会長が部屋に入ってきたとき、一平は目の前が真っ暗になる思いだった。
「佐伯はちょっと手が外せないんでね。それに比べ、わしはいつも暇だ」
会長はソファーにどっかりと座ると、手にした茶色の封筒をテーブルの上に置いて、改めて一平に訊いた。
「わしが代りに承ろう。用件は何だ?」
一平は、とっさには声が出なかった。
「あ――いえ、ちょっとしたニュースがありまして――」
「ほう、どんなニュースだ?」
「――喜多商事。うちの取り引き先で、DPEのチェーン店ですが――そこがお中元時期のために、テレビCMを計画しています」
一平は思わず口走っていた。その話は事実だった。月曜日の打合わせで、小宮山が喜多商事の情報を話して、榊原が東横テレビに繋いだらどうかと言っていたのだ。
小山会長は興味を持ったようすだった。
「ほう、いいニュースだ。『町の写真屋さん』といったら、今やひとつのブームを起こしている。で、それをうちに紹介してくれるって訳だな」
一平はあわてて手を振った。
「まだこれからのお話です。でも御社で取り扱えるように、私も全力をつくします」
「そうか――で、他には?」
「他には――ございません」
「何もないのか?」
小山会長は、疑わしそうに一平の顔を凝視した。
一平がもじもじしていると、会長がおもむろに言った。
「佐伯に聞いたが、スタジオ設備のリニューアルの件で、他社の提案書のコピーが欲しいそうだな?」
それを聞いて、一平はドキッとした。
(榊原さんが電話をしたんだな)彼は必死で平静を装った。
「どうしてそんなものが欲しいんだね?」
「――」
一平は言えなかった。
「答えろ!」
会長に鋭く言われて、一平は思わず頭を下げた。
「すみません!あっ、痛っ!」
一平は、テーブルの角に頭をぶつけて、思わず叫んだ。
「笑いを取ってごまかすんじゃない。答えろ!」
「すみません!恥ずかしいお願いをしました。どうかその件は忘れてください!」
一平はヤケクソで叫んでいた。そこでふと榊原の顔を思い浮かべて、暗澹とした気持ちになってきた。
会長は、一平に気押されたように、ちょっと沈黙したが、ゆっくりと言った。
「きみ、そんなことを言って、大丈夫なのか?こんな姑息なことを考えたのは、榊原課長だろう。それを断ったとあれが知ったら、きみの身に何が起こるか知らんぞ」
「いいんです。やはり、卑怯な手を使うのはよくないことです」
「そうか――」
会長は立ち上がりながら、テーブルの上の茶封筒を手に取った。「じゃあ、これはもういらないな」
「えっ、会長――その封筒は何ですか?」
「さあ、中身は知らんが、きみに渡してくれと佐伯に言われた。なにやら、きみの優しい上司に頼まれた書類らしいが。でも必要なかったみたいだな」
「ああーっ、会長!――いただきます!」
一平はあわてて叫んだ。