■ カンパニー(第3章 女相続人) - (4)
(4)
アスカビルの神山社長は、重役たちの前に、あまり顔を出さなくなった。
会社にいるときは、社長室に引きこもることが多く、またどこへ行くのか、よく外出していた。たまに社内で藤沢たちと顔を合わせても、いつものいたずら好きはすっかり陰を潜めていた。
しかも彼は、藤沢たちの名前を普通に呼ぶようになっていた。重役たちは、社長に名前を呼ばれるたびに、いつも尻のあたりがムズムズとしてくる思いがした。
「社長はどこに行かれてるんだ。最近、よく外出しているようだが」
藤沢は秘書の宮内を呼んで、社長の情報を得ようとした。
「さあ、どこに行かれているか、私にも分かりません」
「だけど社長は、どこに行くにも、いつもきみを連れていたじゃないか」
「それが、どういうわけか、最近は私を同行させてくれなくて。――口の固い私でも信用していないみたいで」
藤沢はびっくりしたように、宮内の顔を見た。
「きみの口が固いというのは、初めて聞いたけど――。ところで、近頃の社長は、ちょっとおかしいと思わないか?」
こんどは宮内のほうが、藤沢の顔をみつめた。
「社長がおかしいって、どういうことです?」
「きみだって感じているだろう?最近の社長は、えらくまともじゃないか。それに、心ここにあらずってご様子だ。この前、私が社長を諌めたことだけど、正直なところ、ちょっとお灸が効きすぎたかな、と気になっていたんだ」
それを聞いて、宮内がやれやれと言うように首を振った。彼はため息をつくと、部屋を出て行こうとした。
「なんだ、宮内くん。どうしたんだ?」
秘書の態度に、藤沢が不審そうに聞いた。
「甘いんですよ、常務」
宮内は振り返ると、同情するように藤沢を見た。「あの方が人に意見されて、すごすご引っ込むと思っておられるんですか。今頃は爪を研ぎながら、いろいろと陰謀をたくらんでいますよ。その内ひどい仕返しをされないように、せいぜいお気をつけられることです」
次の週から、宮内は出社しなくなった。
「社長、宮内くんは会社を辞めたそうですが」
藤沢は社長室に入るなり言った。
「まあ、ここに座れ。――これまで宮内は会社員なのか、おれの私設秘書なのか、はっきりしなかったからな。公私のけじめをつけるために、辞めさせたんだ」
藤沢が向かいに腰を落ち着けると、薫は事情を説明した。「宮内は親父の家に戻した。考えてみると、おれはいつも誰かに身の回りの世話をしてもらっていた。これからは一人身の苦労を味わってみる。どこかのジジイが言ってたように、真面目に人間をやるんだ」
そこで薫は、同意を求めるように藤沢を見た。
社長のあまりにもいじらしい言葉に、藤沢は一瞬たじたじとなったが、気を取り直して同情するように言った。
「私も銀行の支店長時代は、単身生活を送った経験がありますけど――けっこう不便なものですよ」
「大丈夫だ。こう見えても、おれは意志の固いほうだから」
「でも社長は、洗濯機の使い方をご存知ですか?食事を作られたことはありますか?」
藤沢の言葉に、薫は少し考えた。
「覚えるさ。藤沢、お前はやったことがあるのか?」
「もちろん、ありますよ。私は社長と違いまして、一般庶民ですからね」
「相変わらず、一言多いな。今度おれのマンションに来て、教えてくれ」
「それは遠慮します。――身の危険を感じますから」
「なんだ、その言い方は」
「いつかのことがありますからね。それよりも社長、手っ取り早い解決策がありますよ。ご家族のかたたちと、ご一緒に生活されることです」
「その話は無しだ。それより、今夜付き合え」
藤沢はぎょっとした。
「いやですよ、社長。私は、そんな麻疹はとっくに治ったと言ったはずです」
「バカ、そんなことじゃない。おまえに大事な話があるんだ」
藤沢は神山薫と食事をしていた。ホテルの最上階にあるレストランで、彼らは落ち着いた窓際の席にいた。
「アスカビルの株主は、平和銀行とメディア21だけではなくなった」
薫はおもむろに言った。
驚いた藤沢は、若社長の顔を黙って見た。
「ET興産が40パーセントの株を取得した。ほかの二社は30パーセントずつだから、ETが筆頭株主だ」
「ET興産?」
「ああ。スピルバーグの映画じゃないぞ」
そのとき料理が届いて、薫は話を中断した。
店員が立ち去ると、藤沢は食事をしながら聞いた。
「社長は、前からそのことをご存知だったのですか?」
「おれに相談なしだ。手続きのあと、若井頭取に聞いた。今日、銀行に呼ばれてな」
藤沢は憤慨して言った。
「でも、社長に相談なしとは――ひどい話ですね」
「ああ。どうやらタヌキが暗躍しているようだ。それも、腹黒いタヌキがな」
薫は投げやりに言った。
藤沢はハッとして社長を見たが、その顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「若井頭取は、事情を説明されたのですか?」
「たいしたことは言わなかった。生前の今井会長が了解されていたことだ、と匂わせていたが」
「今井会長が――」
「ああ。しかし、会長が了解していたというのは眉唾だな」
「それで、ET興産というのは、どんな会社なんですか?」
「不動産屋だ。オーナーは榎本辰男――」
その名前を聞いて、藤沢はハッとした。榎本辰男と言えば、うるさ型の総会屋で名の通った男だ。藤沢は、平和銀行に勤めていたときに、何度かその男の噂を聞いたことがある。毎年、株主総会のときには、平和銀行の総務担当役員ほか関係者たちが、戦々恐々としているのを見かけたことがある。
二人は慎重に言葉を選びながら、それぞれの意見を交換した。
食事を終えてコーヒーを飲んでいるとき、藤沢は話題を変えた。
「ところで社長、ご家族と一緒に住まわれるお話はどうなったのですか?」
「またその話か。おれにその気があっても、女房が許さないよ」
「社長は、よほど悪いことをされたのでしょうね?」
「おれを罪人のように言いおって――。ささいなことだ」
「何が原因だったのですか?」
「女房が二人目の子を出産して入院していたとき、手伝いの娘と寝たんだ」
「やはり、そんなことだったのですか」
「やはりとはなんだ。運が悪かったんだ。その娘が妊娠しちまって、尚子にばれた」
「――」
「畜生、ゴムをかぶせてやったのに――。それにしても尚子の奴、おれに何といったと思う。おれが外でやりまくるのはとっくにあきらめがついてるが、家の中で他人とやるのは絶対に許せない。出て行きなさい、だってさ。まったく、おれを色情狂かなにかのように言いおって――」
「――そうじゃないんですか?」と藤沢。
薫は藤沢の顔をにらみつけた。
「面白い――爺さん、面白いことを言うぜ」
彼は押さえた声で言った。「それでなにかい、おれに喧嘩を売ってるのか」
「独り言ですよ。気にしないでください」
「これが気にせずにおれるか!」
神山の声が大きくなった。「まったく、可愛らしい顔をして、言うことは憎たらしいぜ」
「社長の影響です」
「なにおっ!」
薫は叫んだ。そこで他の客たちの視線に気づき、彼は声を落とした。
「爺さん、グッチョングッチョンに可愛がってやりたくなったぜ。今夜、おれのマンションに来いよ」
「遠慮しておきます。まあ、私の言い方がお気に触ったのなら謝ります。ところで先ほどのお話ですが、社長ご自身は、ご家族といっしょになる気持ちはおありなんですか?」
「ごまかしおって、タヌキめ。まあ、一緒に住んでやってもいいとは思っている」
藤沢はしばらく社長の顔をながめていた。それから、自分の子供を諭すような口調で言った。
「住んでやってもいいって――どうしてご自分の心に、素直になれないのですか。強がりばかり言って」
「じゃあ、なんて言えばいいんだ!」
薫の大声に、廻りの客が振り向いた。
藤沢は平然と言った。
「またもとのように一緒に暮らしたい、とおっしゃればいいんですよ。策を弄さずに、ご自分の気持ちを素直に奥さまに話されることです。――じゃあ、私は失礼します。ごちそうさまでした」
藤沢と別れたあと、神山薫はあてもなく夜の街をさまよっていた。
マンションに戻る気はしなかった。誰もいない部屋を想像するだけで、気が滅入るのだ。薫は初めて、宮内の存在の大きさをしみじみと感じていた。しかしその宮内も、いまや父の屋敷だ。
彼は今井良尚の遺言を忘れずに、ひそかに貝山や榎本のことを調べていた。宮内を父の家に戻したのも、その秘密を守るためだった。
薫は手を振ってタクシーをとめると、尚子の住む家の所番地を告げた。タクシーが家の前に着いたとき、彼はしばらく迷っていた。
(尚子のやつ、怒るだろうな。この前は、二度と来るなと言われたからな)
彼は外から家の様子をうかがった。子供たちは寝ているのか、二階の窓は暗かった。居間の照明だけが点いている。
(起きているのは尚子ひとりか)
彼は室内の情景を思い浮かべようとした。
しばらくして、意を決めると、チャイムを押した。
薫の予想に反して、尚子は怒らずに、黙って彼を家に上げてくれた。彼女は一言も話さずに、お茶を入れるとテーブルに置き、薫から離れてソファーに座った。サイドテーブルの上に、帳簿類が乗っている。
「仕事をしていたのか?」
「ええ、お店の帳簿のチェック――」
「仕事はいそがしいのか?」
「ええ。でも、やりがいがあるわ」
「そうか――子供たちは元気か?」
「元気すぎて困るくらいよ」
それからしばらく沈黙がつづいた。尚子はテーブルの書類を手にとると、数字を目で追いだした。
妻の手元を見ながら、薫は静かに語りかけた。
「だいぶ前だけど、親父がおれのマンションに来たよ」
「そう――珍しいわね。なんのご用だったの?」
「特別の用はなかったさ。ただ、そのとき親父が言ってた。孫たちと一緒に暮らしたいって」
「そう――でも、お父さまのお言葉に甘えるわけにはいかないわ」
「どうしてだい?」
「だって、そうでしょう。あなたがいないのに、私がお父さまの屋敷に行けるわけがないでしょう」
「――おれが一緒なら、親父の家で暮らせるのか?」
「その話は、とっくに済んだことでしょう?私たちは離婚しないけど、一緒には暮らさないって。それもすべて子供たちのためよ」
「そうだったな。親父の家で暮らす話は忘れてくれ。ただ、ちょっと親父が可哀相に思ってね」
尚子は顔を上げると、不思議そうに薫の顔を見た。
「あなたがお父さまのことを、そんな風におっしゃるなんて。あれほど、いがみ合っていたのに」
「おれだって、少しは変わるさ。さて、そろそろ失礼するかな。おまえもあしたは仕事があるんだろう?」
薫は立ち上がると、尚子に別れを告げた。
尚子は気になって、夫のあとを追った。彼女は夫の背中に声をかけた。
「あなた、体に気をつけてよ。偏食しちゃあ駄目よ」
薫は立ち止まって、尚子の方に振り向いた。彼女を見下ろす薫の顔は、まるで迷子になって途方にくれた子供のようだった。彼女はその表情を見て、ハッとした。
「あなた――今夜はなんのご用だったの?」
「なんでもないよ。ちょっとお前の顔を見たかっただけさ」
「あなたが嘘をつくときは、すぐに分かるの。さあ、おっしゃいなさい、本当のご用件を――」
「お前にはかなわんよ。なんでもお見とおしだからな」
薫は気弱そうに微笑んだ。「宮内は親父のもとに戻した。そこで初めて気づいたんだ、ひとりでいることの寂しさをな。――分かった、正直に言おう。お前たちと元のように、一緒に生活したいと言いたかったんだ」
その言葉を聞いて、尚子は突っ立ったまま、薫の顔を凝視した。
「分かってる、お前が許してくれないのは。だからさっきは黙って帰ろうとしたんだ」
「でも――いまさらなんで?」
「肩肘張ることに疲れたのさ。それに最近、自分がいかにつまらない男かということに気づいた。わがままの一人よがりで、他人の痛みも分からない――」
「自分のことを、そんな風に責めるのはやめて。あなたはいつも、強い男じゃなかったの」
「ああ――そうだったな。ちょっと、しゃべりすぎたようだ。これでおしまい」
「あなた――」
尚子は言いかけて、口を閉じた。
(私たち、もう一度やりなおしてみましょう)
彼女は思わず、そう言おうとした。彼女の頭の中で、薫と一緒の生活と、銀座の店の仕事が交錯した。
彼女は冷静な口調に戻って、言った。
「体に気をつけなさい。タクシーを呼ぶ?」
薫は寂しげに肩をすくめた。
「ああ――頼む」